事故当日:四月四日
庭の一角そびえ立つ、緑の枝葉を両手いっぱいに広げた大きな木。グリーンフィールド学園の象徴とも呼べるその大木の下に、クリス・グロブナーは今にも死にそうな心地で立っていた。
顔はこれ以上ないほど熱く、心臓は緊張のあまりにバクバクしている。本当は今すぐにでもここから逃げ出したい。適当な用事をでっちあげてしまおうか。そうすれば今まで通りでいられるんだし。
「クリス、どうしたの?」
クリスはハッとして顔を上げた。目の前に立つ少年が、不思議そうな顔をして首を傾げている。
彼は優し気で甘さのある顔立ちだったので、そういう表情と仕草をすると可愛らしく見えた。そしてクリスの心臓は更に高鳴った。
「あ、の……」
「うん?」
こちらがはっきりしないにもかかわらず、彼はイライラした様子もなく待っていてくれる。優しい人だ。でも、それは優しさってことじゃなく、実は……、ってこともあるかもしれない……。
クリスは覚悟を決めて口を開いた。
「わ、わたし、セオのことが好きなの!」
ぎゅっと目を瞑って言い切る。そして両手拳を握りしめて、顔を俯けた。とてもじゃないけど、怖くて彼の顔なんて見れなかった。
「ごめんね」
ややあって聞こえてきたのは、想定内の台詞。なのにクリスの頭の中は真っ白になってしまった。ごめんね、という言葉だけがこだまのように脳内に響き渡る。
「う、ううん、こっちこそ! あの、言いたかっただけなんだ! 本当に、それだけだから!」
そんな状態に陥っているのに、口だけは条件反射のように動いて、勝手に言葉を紡いでいた。
両手を意味もなくばたばたさせて取り繕う姿は、できそこないのパントマイムを披露しているようで滑稽だ。どこか他人事のように彼女はそう思った。
「そっか。それじゃあ、俺、行くね……」
すごく申し訳なさそうな顔をして、セオは立ち去って行った。去り際に見えた彼の表情が、クリスをより打ちのめす。
「あは、あはは、はは…………」
しばらく呆然としたあと、クリスは意味のない笑いを途切れ途切れに漏らしていた。
学園で一二を争う人気の男の子、セオ・アルドリッジ。カッコよくて明るくて、いつも人の輪の中心にいる存在。地味で目立たないクリスにも、よく話しかけてくれて優しくしてくれた。だから好きになるのもあっという間だった。
無意識のうちにクリスはスカートのポケットを探っていた。中から取り出したのは、鏡とクリスタルの付いたチャームである。
鏡はスクエア型のシンプルなものだったけれど、クリスタルは特別なカッティングが施されているらしく、美しい輝きを放っている。アクセサリーに興味のないクリスでも、一目見て気に入ってしまった物だ。
これはセオからもらったプレゼントだった。話の流れで今日が誕生日だと言うと、彼は面白がるような顔をしてこれをくれたのだ。
好きな人が、しかも誕生日にプレゼントをくれるなんて。当然クリスは嬉しくなって舞い上がった。そして”もしかしたら”なんて希望を抱いてしまったのだ。
(駄目で元々の告白だったんでしょ。なのにショックを受けるなんて。彼は誰にでも優しかったじゃない。勘違いして浮かれてバカみたい。身の程知らずもいいところだ。わたしはおかしい。アホだ)
チャームを眺めながら、大きな幹に寄りかかってクリスは静かに涙を流した。同時にぽつり、と冷たい雫がメガネのブリッジを濡らす。
いつの間にか、周囲にはザアザアと大雨が降っていた。時折雷の音も混じっている。大木の下にいるから、降ってきたことに気がつかなかったのだ。しばらくはこの木が雨よけになってくれるだろう。別に、ずぶぬれになっても構わないけど。
今のクリスは、振られたショックで動くことなんて考えられなかった……。
バシャバシャバシャ――
大雨の中、慌ただしい足音が近づいてくる。誰だろう。こんな顔見られたくない。クリスは顔を俯けて通り過ぎるのを待った。
「ついてないな……。予報では降らないと言っていたのに……」
でもその足音の主は、折悪くも彼女と同じ場所で雨宿りすることに決めたようだ。俯いているので顔は窺い知れないが、声で男子生徒だということは分かる。
(タイミング、悪すぎるよ……)
「あ、なんだ、人がいたのか……。君も災難だったな」
声を掛けられれば無視できないのがクリスの性分だ。彼女は慌ててメガネの下から目を拭って、顔を上げた。
黒髪の美しい少年と、クリスの視線が混じり合う。
その瞬間、彼らは雷に打たれた。文字通り、そのままの意味で。
二人は意識を失い、地面にドシャリと崩れ落ちた。
雷の時、木の幹の傍は大変危険なのである……。