夜泣き蕎麦
時は天保か寛政か、それとも享保かよくわからぬが、江戸は神田川の流れを背にして一つの屋台が出ていたという――
「親父、邪魔するぞ」
その屋台に入るのは、歳は三十路そこそこ、大小を差したお侍さん。
「へぇ……旦那、何にしやす?」
「そうだな、かけ蕎麦を貰おうか。こんな夜には蕎麦で身体を温めるに限る」
「承知しやした。ちょいと時間がかかるんで、その間は稲荷なんぞつままれてはいかがですかな?」
屋台の親父は商売っ気を出したか、稲荷寿司を勧めるが、その侍は首を振る。
「いやいや、この時間に稲荷てこたぁないだろう」
「へぇ、そうでやすか……」
「板わさだ、板わさを寄越せ」
「へぇへぇ」
にやりと笑った屋台の親父は、板蒲鉾におろしたわさびをつけてひょいと出す。
「親父」
「わかってやす。冷やしかござんせんが構いませんかね?」
「こんな時分、熱燗がよいが屋台にそこまで求めても仕方あるまい」
頷き親父が出してきたのは徳利酒――
「旦那、御酒でござんす」
侍は言葉を返さず、ちょいと徳利を傾けて、酒を注ぎごくりと飲む。
「親父、酒が美味いぞ。親父は風鈴屋台か?」
「いえいえ、ただの十六文蕎麦屋にございます」
「そうかいそうかい」
嬉しそうに笑う侍――
「十六文蕎麦屋でこの酒は苦しかろう?」
「それが贔屓もござんして、どねぇかやっておりますよ」
「そいつは重畳」
「八丁堀の旦那様も是非ともこれからご贔屓に」
誘うような親父の言葉に、侍は、うっと酒を詰まらせる。
「おいおい親父、親父に八丁堀と名乗ったかい?」
「いえいえこちらも客商売、風体見りゃわかるもんでさ。御上役にゃお気を付けあれ」
「ははは、見つからなけりゃ同じことよ」
「そいつは確かに」
そう言いながら親父は、片手でひょいと茹で上がった蕎麦を出す。
「へぇ、かけ蕎麦でやす」
「おう、親父、すまねぇな」
割り箸をぱちりと割ると、鰹の香りに湯気たつ蕎麦をぞぞっとかっこみ、茶碗酒をごくりと飲む。
「ふむ、寒い時には暖まる。それにこいつぁ十六文蕎麦屋とは思えねぇ」
「でしょう、八丁堀の旦那様。是非ともこれからご贔屓に」
「まあ与力の上役に、こんなとこ見せられねぇがな」
上役を気にするように周囲を見回し、そう言いながらも美味そうに蕎麦をかっ込んだ、まさにその時――
「親父さん、あたしにも蕎麦をおくれや」
ふと振り返ると、隣には白い女――
「いつの間に……」
押しのけるように親父は一言。
「へい、いらっしゃい。何にしやす?」
「盛り蕎麦一つちょうだいな。出来れば皿で」
「はいよ。稲荷に板わさあるが、いらねぇかい?」
「あたしゃ肴荒らさない。徳利一つで十分だよ」
女の登場に、いささか話の腰を折られたらしい侍は、そのまま女に話しかける。
「嬢々や、嬢々、そなたはどこからきなすった?」
「あら、お侍様――あたしは牛込御門のお傍から」
「ほうほう、そしたら御武家さんかい?」
「いえいえ、御武家様はこんな時間に出歩かぬもの。青山様の下女にございます」
侍は、中空を見て青山、青山、と考える。
親父はそれを横目に見ながら、どんと一合徳利を置く。
「ほいよ御酒だ、さあ飲みな」
「へへへこいつは嬉しいねぇ。久々の酒は五臓六腑に染み渡る」
女は独り言ちながら、一杯二杯、酒を飲む。
「ほう、嬢々は成口よな」
「女だてらに、そう思われておられるでしょう」
女はあくまで剽軽に、失礼にならぬほどに言葉を返して、また一杯。
侍も、釣られるように、また一杯。
少し間が空き、屋台の板に杯置く音だけが夜闇に響く。
「へい、おまち。皿蕎麦でやす」
親父が突き出す蕎麦を見て、侍は話の枕と問いかける。
「嬢々や嬢々、盛り蕎麦ではなく皿蕎麦かい?」
「御武家さんはご存じなく? 丹波の方では手塩皿で食べるが通と言いまして」
「ほうほう、丹波の方とはまた遠い。そういや御主家は青山殿、丹波篠山青山藩のご係累か」
「ふふふ、それはどうかしら」
そう言いながら、女はつるりと蕎麦を呑み込む。
「馥郁としていいお蕎麦」
「今宵は冷える。盛り蕎麦なんぞで大丈夫か?」
「あーら、もっと寒いところを存じておりますもの」
そうしているうちに、侍も、女もともに蕎麦を食べ終える。
「親父、酒をもひとつ」
「へぇ、毎度」
「飲み過ぎよな」
そう言いながら侍は、出された徳利を傾ける。
それを横目で眺めつつ、女はふらりと立ち上がる。
「ではではお侍様、今宵はこれまで」
「酒は俺につけときな」
「あらあら嬉しや」
「十六文でやす」
「ちょいと手を出しておくれ」
親父の広げた掌に、女は銭を置いていく。
「一つ、二つ、三つ」
数えていく、女の手を見ながら、後で思えばなぜ言ったのかわからぬ一言、侍は吐く。
「親父、今何時ぞ?」
「へぇ、今は四つにございます」
「……五つ、六つ」
女の声がそれに合わせて数えていく。
「十六枚……足りた……」
十六枚まで数えきって嬉しげに、にこりと笑ってきびすを返す。
白い白いうなじが目に残る――
「どうした親父?」
「あの女性、いずこの人かお訊ねに?」
「牛込御門のお傍から、と」
それを聞き、親父は徳利をつかんでそのまま飲み干す。
「どうした親父? 売り物飲むとはただごとじゃねぇ」
「八丁堀の旦那様、ありゃぁ牛込門内五番町、青山家中にございます」
それを聞かされ侍も、帰る女を探したが、影も形も見当たらぬ。
背筋をつぅっと、汗が流れた。