16.いろいろの色
玄関の扉が開き、野田先生と、紙袋を持ったモモが部屋に入ってきた。
「萌百!」
社長が嬉しそうに出迎えたけれど、モモはまだ家出の途中みたいな気分なんだろう。完全に社長を無視して、あたしとナナの後ろに座った。
「あ、モモ、この前のシチュー、ごめんな。おれの不注意だったよ」
このタイミングで? と思ったけど、ナナの方から謝るなんてなかなかないから、よしとしよう。
「ううん、こっちこそ、やりかえしたりして、大人げなかったわ。ごめんね、ナナ」
まずは、二人が仲直りの握手を交わす。
ほんわかした空気がちょっとだけ、漂った。
「さて――」
「この図を見て、まずナナが気づいたのが、タワシが2個も書かれてる不思議。それとあたしが気づいたのは、わざわざカラフルに色分けされてる不思議。これら2つの不思議を探ってみたら、1つの答に辿り着いたわ」
あたしはちゃぶ台の上に置いてあったボールペンで図を指しながら、説明を続ける。
「よく見ると、一文字一文字色違いなんじゃなくて、『わ』と『た』と『し』と、3種類に色分けされてるでしょ? それに、枠の色、棒人間の色、タワシの色……これも全部違う色が使われているんだけど、唯一、タワシの色と『わ』の色だけが、同じなのよ」
みんなの顔が、図にじわじわと寄ってくる。
「つまりこれはタワシじゃなくて、『わ色』の何か。すなわち、ワイロ。この図は、ワイロを手渡している絵なのよ」
社長とリョウちゃんだけは、リアクションしない。他のみんなは、「お~」とか言いながら、さらに図に顔を近づける。
「そして、ナナいわく玉子のお寿司にしか見えないワイロの絵。これはもう、あたしには札束にしか見えないわ。……帯封のついた札束、つまり百万円の束が2個描かれているから、金額はなんと2百万円。……社長、あたし社長から、持ち逃げされた金額なんか聞いてないよね? なのに、さっき『現金2百万』って言ったとき、何のツッコミも無かったけど……?」
社長は、無言のままだ。
「モモ、その紙袋、貸してもらってもいい?」
あたしの斜め後ろに正座する、モモ。その手にしっかりと握られた紙袋の中身は……
「もちろんよ。はい、ルル」
「ありがとう」
取り出すと、思った通り。それは銀行の帯封のついた百万円の束が2つだった。
「社長、連休明けに現金で集金した分のお金って言ってたけど、それって、ちょうど2百万? そんな額のお金、普通は振り込みなんじゃないの? それに、問屋さんが得意先からの集金でちょうど2百万なんて……そんな偶然って、ある?」
まだ、口を開かない。モモがいるから、喋りづらいのかな。
「リョウちゃんが持ち逃げしたのはワイロのためのお金だって、あたしは断定したわ。そして、贈るお金か、もらったお金かって考えると……少しでも安く売ってほしいお客さんが、問屋さんに多額のワイロを払うなんて、ちょっと考えにくい。それより、買ってくれるお客さんが離れてしまうのを恐れて、社長が大口のお客さんに渡すためのお金だと考える方が、自然かなと思った」
社長の額に、いつしか尋常じゃない量の汗が浮き出ている。それに気づいたユリさんが、扇風機を回してくれた(こんな話、窓を開けてはできないからね)。
「ね、社長。あたしは、社長が悪い人には思えないんだよね。チョイチョイあたしを子供扱いするのはイラッとくるけどさ。……何か理由があって、こんなことしたんでしょ?」
するとようやく、社長がその重い口を開いた。
「……様々なものがデジタル化されて、紙の印刷の需要は激減している。そうなると、価格競争に勝てない小規模経営の印刷業者さんは軒並み倒産して、大きな会社に淘汰されていく。……それが今の印刷業界なんだよ」
急に生々しい話をされると、なるほど、あたしは何も知らない子供だって思う。
「消費税も上がって、これからますます印刷の需要は減っていくだろう。だから行動力のある印刷業者さんは、デジタル関連の事業にいち早く手を出して食いつないでいる。だが、ウチのような小さな問屋はそうもいかない。デザインや広告の知識も技術も持たない、ただの物売りだ。そのうち潰れる」
友達の悩み事を聞いてあげてるのとは訳が違う。そんなの、あたしたちにはどうすることもできないもんね。
「かといって、従業員にも生活があるじゃないか。そう簡単に会社を潰すわけにはいかないだろう? だから、ウチと取引のある大きめの印刷工場とは、繋がりを維持しなければならなかったんだ。……問屋も、価格競争が始まれば軒並み潰れて、いずれメーカー市場の時代になるだろう。そうなる前に、手を打たなきゃならなかったんだよ」
すると、そんな印刷業界の事を少しでも知っていそうなリョウちゃんが――会社の経営事情にも理解があるであろう、リョウちゃんが――口を開いた。
「手の打ち方ってものがあるじゃないですか」
目が、コワイ。ちょっと、怒ってる。
「うちの会社だけが困ってるんじゃないんですから、繋がりのある同業者に相談するなり、他の業種の人にだって、相談するなりすればいいじゃないですか。……なんなら、俺らにだって、少しぐらい相談してくれたっていいじゃないですか!」
そもそも信頼関係の薄い会社なら、こんなことを言う従業員はいないだろう。社長の人柄を慕ってるからこそ、リョウちゃんはそう言ってるんだと思う。
「今回、不思議な図の謎が解けたとき、この事件の全体が見えた気がしたの。……モモは何かのきっかけでワイロのことを知ってしまった。おそらく、家出の前日――モモのママが口を聞いてくれないと言っていた理由も、それね。モモは当然、ワイロなんてやめてほしいと思った。それで次の日の放課後、リョウちゃんに相談した」
みんなが、あたしに再び注目している。
「その日は偶然、リョウちゃんにとっては、ユリさんとのトラブルでこのアパートを出た日でもあった。たいしたお金も持ってないリョウちゃんが、とりあえず住む場所といったらまぁ、実家が妥当だよね。アパートを出た事を、社長はまだ知らない。家出したいモモをかくまってあげるには、ちょうどよかった」
見ると、リョウちゃんもモモもうなずいている。
社長に向けて固定していた扇風機を、ユリさんが首振りモードに切り替える。
「現金2百万を用意するのに、少し日にち的に余裕を持って行動したのが裏目に出たんだと思う……。専務に渡すつもりだったなんていうのもウソでしょ? 正式な会社のお金じゃないから、誰にも見つからないように、取引まで隠しておかなきゃならなくなった。もちろん、会社より、自宅の書斎かどこかに隠すのがいちばんだよね。でも、それを見てしまった人物が一人だけいた」
「そう、偶然だったんだけどね」
突然、モモが口を開いた。
「ワイロの取引の話をしながら、札束を隠してる所を見ちゃったの。私、どうしていいかわからなくて……ママも、それを知ってるのか知らないのか分からないし、とりあえず機嫌が悪いフリをして口をきかないようにしてたわ。……そのうち本当に機嫌が悪くなってきちゃって、ナナに当たっちゃったのは本当、ごめんなさい。……それで、リョウちゃんに相談しに行くときに、パパの書斎からお金を持ち出したの」
モモは泣くでもなくわめくでもなく、落ち着いて淡々と喋っている。
「とにかくワイロなんてやめてほしくて……とりあえず現金がなくなれば、取引は中止になると思って……。だけど、あたしがお金を盗んだなんて、そのうちバレるに決まってるもの。だったら、持ち出して家出するぐらいの方が、パパも考えを変えてくれるんじゃないかって……そうリョウちゃんに相談を持ちかけたの」
「社長、木田原君は疑いたくないなんて言ってたけど、会社じゃなく自宅に隠してたんだもん、最初から、犯人はモモだって分かってたのね。けど、家出したモモに続いて、リョウちゃんまで会社を無断欠勤なんてしたもんだから、ウチらに相談する時にはそのタイミングを利用した。まさか、ワイロのお金を持って家出した娘を探してくれなんて、言えないもんね。どうせモモがリョウちゃんと一緒にいること自体は見え見えだし。リョウちゃんを悪者に仕立て上げて、そのリョウちゃんを探してほしいってゆう、なかなか上手い相談に変換したわけね」
社長は、もううつむいたまま顔を上げてくれない。
「ただ、社長にとって誤算だったのは、リョウちゃんがユリさんに託したメッセージ。その暗号を解けばリョウちゃんに辿り着けると思ってたのにね……。あたしは、なんで暗号なんて回りくどい方法でメッセージを送ったのか、その理由を考えたわ。その結果、ユリさんだけに伝わるように、社長には伝わらないように、メッセージを暗号化したんだろうって気づいた。だから、最後の不思議な図の謎は、社長には内緒で解いた」
不思議な図の謎の答は、さっき言ったとおり。社長のワイロ2百万疑惑。
「リョウちゃんがユリさんにメッセージを送った理由は、たぶん……モモを手助けしたいばっかりに、大金を持ち出したモモをかくまったりして、自分でも後先どうしていいかわからなくなっちゃったからね。とりあえず社長のワイロ疑惑を暗号で伝えることで、社長を敵、自分を味方として認識してもらうところから始めたのかなって思う」
「ああ、そのとおりだよ、おチビちゃん」
……リョウちゃんも、チビ呼ばわり。
「あ、でもこの暗号自体はアレだよね。不思議な図以外はけっこう前から考えてたやつだよね、リョウちゃん?」
あたしが言うと、リョウちゃんはやや驚いた表情で、
「ああ。……でも、何でそんなことまでわかるのかな?」
と、あたしを子供扱いしたまま聞いてきた。
「モモが行方をくらましてから考えた暗号にしては、出来すぎだもん。それで思い出したんだけど、ずっと音楽ばっかやってたのに、最近急に、小説でも書こうかなとか言い出したって……ユリさん、そうだよね?」
「ええ、その通りよ」
「リョウちゃんは作家になりたいとか、特に小説を書きたいっていう意味で言ったんじゃなくて、せっかく一連の暗号を思いついたから、それをネタに書いてみようかと思っただけなんでしょ?」
するとリョウちゃんは肩をすぼめて、「すげえな」と頭を掻いた。
「たまたま今回、その語呂合わせの暗号と曲の暗号が使えそうだったから、使ったんだ。新しく作ったのは、不思議な図と動画だけだよ」
「それで、その不思議な図と動画を作るのに時間が必要だから、モモをかくまったまま1日だけ出勤せざるを得なかった、ってわけよ、ナナ」
急にナナの方を見ると、彼女は両手をポンと合わせて、うなずいていた。謎の1日の存在に気づいたのは、ナナだもんね。
さて――
「それで、社長。どうする? このお金を結局ワイロに使う? それとも考えを改める?」
あたしが言うと、モモが今日イチの強い口調で、
「ワイロに使うなら、私、パパの子供やめるから!」
と言って、ちゃぶ台をバンと叩いた。
その音に目を覚ましたかのように、社長がやっと顔を上げる。
「も、もちろん、ワイロなんか贈らないよ! 今度、社員みんなで会議を開こう。今後、うちの会社がどうやって生きていくか、みんなで考えよう!」
社長はそう言って、リョウちゃんの目を真っ直ぐに見つめた。
「これでいいんだよな? 木田原くん……」
するとリョウちゃんは、力強く社長の手を握り締め、言った。
「――社長、俺、会社辞めます」
みんなが「えっ?」となった。
「木田原くん……なんで……?」
「……正直、今のウチの仕事量なら、俺がいなくてもやっていけるでしょ? 経費の無駄ですから、俺、CDショップかどこかでバイトしてきますよ。それで、人が必要になったらまた声かけてください。そしたら俺、いつでも戻ってきます」
勇気の要る決断だと思う。
ワイロ騒動を乗り越えて、ここまでリョウちゃんが慕ってやまない社長……相当、いい人なんだろうなって、思った。
そのとき――
「モモは? ……どーすんのさ?」
聞いたのはなんと、ナナだった。
「そうね、お家に帰るわ。……パパも大丈夫そうだし、ナナみたいなライバルがいないと、やっぱり女として張り合いがないもの」
そう言って、モモがナナとハイタッチを交わす。レアな場面ね。
「明日、休んだ分のノート、見せてくれる?」
「おう、いいぜ」
女同士のライバルも、悪くないなと思った。




