Last mail in 2034
2034年、東京のとある寂びれた中華街。壽と綾はオリエンタルな外装の酒場の前で、肩を寄せ合って腰を降ろしていた。酒場の横にはミサイルを象った銀色のオブジェが置かれ、鈍い光沢を放っている。
壽は少しウェーブの掛かった金髪の男の子で、右目が幼い頃のケンカの古傷で、蒼く輝いている。綾はふんわりとカールしたショートボブの小柄な女性で、その華奢な体からは年齢に似合わない独特の艶やかさが溢れていた。
二人は三年来の恋仲にあり、今も心が深く繋がり、熱く甘い抱擁を人けの少ない路地で交わし合っている。上空では監視ヘリが旋回し、管制塔からサイレンが鳴り響き、人々の気持ちでさえも統制するようだった。
壽は、淡く青い水色のセーターに身を包み、綾は、赤いカーディガンに袖を通している。二人はスマホを片手に、これまでやり取りしたメールを見ては、二人の恋物語を振り返っていた。
初めてのデートの誘いのメール。壽がひっそりと温めていた文面で丁寧に、恥じらいながらも綾への好意を伝えている。
(綾。謎。最近ツラい時に思い出す人の顔が、変わってきた。今度一緒に天文台に遊びに行こう。そこで秘密の謎解きをしてあげるから)
二人は寒さで、白くなった息を吐き出す。凍える体を壽と綾は寄せ合い、初めてのデートで交わした口づけのことを思い返していた。通りに一台のバイクが駆け抜けて行く。その光景は2034年、東京独特の寂寥感を表している。壽は冗談めかして、綾が送ってきたメールの一つを読み上げる。
「『この国ではみんなが異国人。そこで出会った同郷のただ一人が……』って、これ詩的だなぁ。こんなメール、綾が送ってくるなんて思いもしなかった」
綾は、壽が覗き込むスマホを取り上げようと手を伸ばすが、壽は笑って彼女の左手をやすやすとかわす。少し頬を膨らませた綾は、悪戯っぽい瞳を見せるとこう言い返す。
「ちょっ! やめてよ恥ずかしい。その頃は詩とかにはまってたからそういう表現になったんよ。はーん。いいよ。そうやって恥ずかしいメールを暴きあうなら、私だって手はあるんだからね」
壽が舌を出して失敗したという表情を浮かべると、綾はメール履歴を辿り、壽の文面を読み上げる。
「『綾の顔、思いだす度に、最近何か泣けてくる。切なくて辛くて。もしかしてこれが恋?』って! だぁー冗談じゃないわよ。いちゃつくのもいい加減にしてよね」
だが壽は、からかう綾を見てどことなく嬉しそうだ。壽の心持ちは安定している。過去のメールを振り返られても、恥ずかしがったり、照れたり、隠したりする様子はない。
「だってその時は本当にそう思ったんだから……、仕方ない」
そう口にする少し寂しげな壽の瞳を見つめて綾は零す。
「この時は純情だったからね。じゃ今は不純?」
「そういうわけじゃないさ」
そう言葉を返す壽は、メールを次々と辿っていく。綾が、北海道への修学旅行に出掛けた時のメール。そこでは時計台の下で友達と笑い合う綾の写真が添付されている。壽は零す。
「この頃は幸せだったね。望みも、悲しみもないって言うか」
綾はカーディガンの袖で、口元を覆うと恥ずかしげに口に出す。
「そんな、しんみりしないでよ。今も十分幸せじゃない。十分。私は壽がいればそれだけで……」
その綾の言葉をかき消すように、遠方から戦車のキャタピラが動く音が響いてくる。綾は辛そうに目を伏せるとこう本当の心情を零した。
「ホント、その頃は幸せだった。壽の言う通り。何も考えなかった。将来のことも、過去のことも。ただそこには『今』だけがある。それだけで十分だった」
ぼんやりと壽が仰ぎ見る酒場のネオンサインには、天女が描かれている。天女は優しく二人を誘惑し、官能と自由の世界へと、壽と綾を誘い出すようだった。壽は真剣に少しの迷いもなく、詩情に溢れる言葉を口にする。
「天女。天女か。そんなものが本当に存在したらな。僕達をどこか遠い夜空の彼方に連れ去ってくれるのに」
根が陽気で冗談好きな綾は、一度「アハハ」と笑って壽の抒情を、笑い飛ばそうとしたが、口をつぐんでしまった。やがて通りにはヒラリヒラリと小さな雪が舞い落ちてくる。手を翳して、その雪を受け止める綾は寂しげだ。
「夜空の彼方……、か。連れ出して、くれるといいな。なんてね。アハハ」
壽は、綾の言葉が耳に届いたのか、届かないのかメールをまたも辿っていく。今度は壽は嬉しそうだ。
「ほら、これ美樹の結婚式の夜に綾が送ってきたメール。まさか美樹があんなに早く結婚するとは思わなかったよね」
壽の笑顔につられて、綾も楽しげな表情に変わる。
「そうそう。『あー私、結婚運兼男運ないから、結婚は三十路過ぎてからだわぁー』とか彼女言ってたのにね!」
「うん。それで俺が早まっちゃってさ。結婚式の帰り道……」
壽と綾は思い出したように笑う。彩は大げさに両手を広げて、あの時の二人を振り返る。
「壽、急に畏まって、立ち止まっちゃってさ。『俺達ならずっとおじいちゃん、おばあちゃんになっても一緒でいられるよね』ってプロポーズ紛いのことを!」
綾のはしゃぎっ振りは止まらない。
「それで、私も『お、おうよ。結婚するなら、相手は壽かな』なんて、シリアスになっちゃってね!」
そこまで話して綾は黙り込んでしまった。二人の孤独と寂しさと、やがて離れて行く二人の距離を、包み込むように雪はどこまでも降り積もっていく。綾は少し真剣な顔をしてスマホを仕舞おうとする。
「ねっ。やめよう。壽。過去のメール辿りなんてさ。恥ずかしいだけだし、趣味悪いし、それに……、暗くなっちゃうだけだし」
その綾の言葉をかき消すように壽は、メール履歴を辿っていく。壽が大学の研修で新潟に行った夜、綾に送ったメール。綾が両親の実家、熊本に帰郷した時の近況報告のメール。夜、どうしても眠れなくて綾が送り付けてきたメール。壽が、自分の父親が亡くなった時に綾へ送ったメール。
楽しくもあり、悲しくもあったそれらのメールは、どれも離れている二人を繋げる、一番大切なものであるのには違いがなかった。一通り、メール履歴を辿ってみせたあと、壽は綾に告げる。
「それじゃあ俺は……、行くよ」
もう綾には引き留める言葉は何一つなかった。綾の胸の内に輝くのは、二人がやり取りしたメールに息づく壽と綾の淡い想い出だけだった。彼女はコクリと頷く。
「うん。分かった。元気でね」
「綾も」
そう言って立ち上がる壽のスマホには2034年、彼に届いた最後の、赤く染色されたメールが届いていた。それは二人のメールを辿る謎めいたやり取りの答え、そして二人が、寂寥感に満ちた2034年、東京でなぜ別れるかの真相を示すものでもあった。その文面には悲しくも、切なくこう記されていた。
「相原壽。其方を、今ここに第三次極東戦争に招集する」