お勉強の後には
――勉強後の部屋にて(モーリス視点)
「お疲れ様です、モーリス様」
「……うん」
家令の言葉に、ぐったりと潰れた姿勢のまま、それだけを返す。
その途端、家令の小さな……けれど、楽し気な笑い声を聞いた。
「情けないことは僕が一番判っているよ……」
みっともない姿を見せていることは判っている。だが、その相手が幼い頃から家族のように接してきた相手であれば、ついつい、愚痴を零してしまう。
「申し訳ございません……ふふっ」
「……」
文句を言う気も起きず、顔だけを上げて恨めし気な視線を向けると……何故か、家令は嬉しそうな表情をしていた。
「……? なんで嬉しそうなの」
不思議に思って尋ねてみると、家令は笑みを深める。
「嬉しいのですよ、このようなモーリス様の姿を見ることができて」
「え?」
「悪意に踊らされたゆえの姿ではなく、己が未熟さを嘆く姿でもなく。今のモーリス様の姿は……ご自分の意思で変わられることを決意したゆえのもの」
「……うん。うん、そうだね」
「そして、それを与えてくださっている方々は真実、モーリス様の成長を願ってくださっている。そのような方達がいらっしゃることも嬉しく思うのですよ」
「……」
家令の言葉は優しくて……同時に、僕の胸を容赦なく抉った。
家令や使用人達からすれば、『優しい親族』を信じていた頃の僕は……裏に潜む悪意に気付かず、都合よく踊らされるだけの道化だったろう。
何より、僕は無条件に親族達を信じていた。
あの頃の僕ならば、家令や使用人達が自分に優しくしてくれる親族を警戒するようなことを言えば……間違いなく、反発していた。
いや、反発するだけで済めばいい方だ。
反発した果てに親族達に誘導され、僕は本当に僕達やこの家を想ってくれている『味方』を、遠ざける選択をしたかもしれないじゃないか。
何しろ、僕はそれとなく忠告してくれていた家令の言葉を鬱陶しく思っていたことがある。
本当に……子供だったのだ。年齢的なものではなく、この家を継ぐことの意味や背負うものすらよく判っていなかった『お子様』。
世界は自分に優しいか厳しいかの二つだと思い込み、案じるゆえの厳しい言葉があるなんて知らなかった『愚か者』。
そんな僕に、まともな貴族達が寄ってくるわけがないじゃないか。潰れるか、利用される未来しか見えないのに。
そんな僕達の悪意を受け止め、最悪の状況を防いでくれたのは……『あの人』。
血が繋がらないどころか、反発しかしない子供達なんて、放っておいても誰も文句は言わなかったろう。
だけど、あの人はそうしなかった。
それが僕達ではなく、亡くなった父上達のためだったとしても、あの人は自ら『悪役』となり、僕達とこの家を守ってくれたのだ。
「……貴族同士の会話ってこんなに難しかったんだな」
僕の呟きを、家令は黙って聞いてくれている。
「学園での友人同士の会話とは全く違う。隠された悪意を読み取ることも、言葉で誘導することも、悪意をかわすことも……とても疲れるし、大変だと思い知った」
単なる会話の練習ですら、僕はこの有様なのだ。
ならば。
ならば、自ら悪評を背負い、体を張って情報を手にしてくれたあの人……義母はどれほど大変だったのだろうか。
「僕はあの人が悪評を気にしないのは、好き勝手に生きている自分を自覚しているからだと思っていたんだ。だから、言い訳もできないのだと……愚かにもそう決めつけていた」
実際には、『好き勝手に生きている』なんてものではない。冗談抜きに、『命懸けの戦場』とも言える状況だったはず。
どれほど、神経を尖らせて過ごしてきたのだろう。
その苦労を微塵も見せずに振る舞うあの人は……本当に凄かったのだ。
「ただの練習、それも対策を書いた紙を貰っているのに、僕はこの有様だ。はは……本当に情けないな。付いて行くのが精一杯だ」
そう、僕はまだ本番を経験していない。
こんなに疲れ果ててしまっているのに、僕はただシュアンゼ殿下達から教えを受けただけ。
しかも、シュアンゼ殿下達は僕に悪意を向けていない。そんな人達相手であっても、この有様だ。
「『努力しただけでは意味がない』って、ミヅキさん達にはっきり言われた。その言葉の重さを、今ならば理解できる気がするよ」
僕の対応一つで、この家に影響が出る。……巻き込まれる者達が居る。
僕はそれをあまりにも軽く考えていたのだろう。彼らから厳しい言葉を向けられる度、その思いは強くなっていった。
「良き機会に恵まれましたね」
家令が嬉しそうに言葉を紡ぐ。
「私どもがモーリス様を支えるのにも限界があります。いえ、はっきり言ってしまうならば、社交の手助けなど不可能でしょう」
「そうだね、それは僕の仕事だ」
僕や妹、そして義母にしかできない仕事だ。拙い相手を怒らせれば、存在感のない男爵家なんてあっさりと沈む。
「あの方達から多くを学びなさいませ。あの方達はファクル公爵様からの課題とはいえ、真実、この家とモーリス様の未来を紡ごうとしてくださっています」
好意だけならば、信じられなかったかもしれない。そうしてもらう理由がないのだから。
だけど、そこに『彼らにも課せられた課題がある』ならば、そこだけは信頼できるだろう。
家を何とかしたい僕と、課題をこなしたいシュアンゼ殿下。
僕達は全く別の目的の下、手を組んでいるだけなのだ。
だが、だからこそ……『裏切り』というものはない。
「今後は別の場所で実践することも考えているんだってさ。はは……それまでに少しでも成長できるかな」
「おやおや、弱気なことを」
「だって、ミヅキさんが設定していることだからね! あの人、さっきの練習でも『敵』という立ち位置だったせいか、本当に容赦がないんだよ……!」
言っていることは情けないのに、僕の顔には自然と笑みが浮かぶ。家令もどことなく嬉しそうだ。
そんな遣り取りに、僕の心は癒されていく。同時に、この暖かい時間を失いたくないという想いが強くなっていった。
「頑張るよ、僕は」
ほんの一瞬、表情を改め、誓うように家令に宣言する。頷く家令の表情にも、決意が宿っているように見えた。
僕には足りないものが多過ぎて、『何を頑張るのか』を明確にできはしない。
だけど、『失いたくないもの』が明確になった今ならば、どんな努力でも厭わないだろう。
僕や妹が当たり前のように甘受していた愛情……『本当に優しい大人達』はすぐ傍に居て、同時に彼らは『頼れる味方』だったのだ。
その得難さが理解できた以上、どれほど辛くても僕は足掻いていけるだろう。
――叶うならば、そこに妹や従兄弟の姿もあれば良い。
甘いと言われようとも、僕は『身内を大事にする者』でありたいのだ。
そして、いつかは『互いに頼れる親族』になれれば良いと思う。
モーリス『頑張ってみるよ!』
家令『良き出会いをされましたね』
家令とモーリス、ほのぼのな時間。
しかし、鬼教官どもが普通ではないことには未だ気付かず。




