ある嫡男と家令の午後
――ブレイカーズ男爵家・執務室にて(モーリス視点)
「こちらが現在、領内のあらゆる情報を纏めたものになります。簡単ではございますが、何も知らぬよりマシでしょう」
「ああ、ありがとう。成人貴族として認められるためには卒業を第一に考えなければならないが、少しでも学んでおきたかったんだ」
「……」
執務を代行してくれている家令――彼もブレイカーズ男爵家の遠縁の一人だ――に感謝を述べつつ、僕は家令が用意してくれた冊子を手に取った。
『簡単に纏めたもの』とは言え、それなりに厚みがある。通常業務の傍らにこれを作ってくれた家令には、これまでのことも含めて頭が上がらない。
「……。できれば、もう少し早く行動を起こしていただきたかったです」
「……すまない」
「いえ、責めているわけではございません。しかし、旦那様が亡くなった直後から『当主になる』と口になさっていたものですから……そのようなお姿を見せていれば、他にもやりようがあったのではないかと思ってしまうのです」
家令の言葉は、確かに責めているような響きはない。ただ、ここ一年ほど行動的になった僕への評価を想い、残念がっているのだろう。
もう少し早く、行動を起こしていれば。
――親族達の言葉など聞かず、当主となるべく努力していたら。
きっと、僕の評価は違ったのだろう。現時点では間違いなく、『甘ったれたお坊ちゃん』という認識をされているだろうから。
シュアンゼ殿下達から向けられた言葉の数々はとても厳しいものだった。しかし、同時に『彼らが僕のこれまでの行動を調べてくれていた』ということでもあるのだ。
いくら表舞台に立ってこなかったとはいえ、相手は王族である。男爵家の相続問題なんて、気にしなくても不思議はない。
これが高位貴族ならば関わりがあることも含め、話が違ってくるのだろうが……いくら父が優秀な当主であったとしても、所詮は男爵家。
言い方は悪いが、『それなり』なのだ。下位貴族にしては優秀、程度の評価だろう。
それなのに、あの人達は僕の現状を『正しく』理解できていた。
その裏にはファクル公爵の働きがあったのだろうが、もっと言うなら、ファクル公爵を動かしたのは義母である。
僕が毛嫌いした『元高級娼婦』という肩書きを持つ彼女は、培った術を全て使って、僕が望んだ未来を紡げるよう、尽力してくれたのだ。
そう気づいたのも、ここ一年程度のこと。
久しぶりに実家に戻った僕は、家令に色々なことを教えてもらいながら、ついつい義母に対する不満を口にしたのだ。
いつもならば窘める程度で、僕の言葉を聞き流す家令は――
『いい加減になさいませ! いつまでその目を曇らせているおつもりか!』
強い口調で、僕を叱りつけたのだ。
当初、僕は困惑した。家令は穏やかな性格をしていることもあり、滅多に声を荒げたりはしない。
『叱る』と言うより、『窘め、理解させる』といった感じであり、このような態度を取られたことなどなかったのだ。
そもそも、僕はそれまで幾度も義母への反発や不満を口にしていた。その都度、家令は窘めることこそあれ、厳しい口調で叱りつけることなど皆無であった。
呆気に取られる僕を、家令は怒りの表情のまま見つめていた。そして、家令の口から語られた義母の真実に、僕は……情けなくて堪らなくなったのだ。
『あの方がどれほどブレイカーズ男爵家のために尽力していると思っているのですか』
『元は貴族令嬢である以上、【高級娼婦】という過去に最も傷ついているのはあの方なのですよ? 生きるためとは言え、消し去りたい過去でしょう』
『そのような方が、その【消し去りたい過去】を前面に出し、様々な悪意を向けられながらも、この家を狙う輩を手玉に取ってみせたのです』
『判りますか、モーリス様。ご自分への醜聞を甘んじて受け、旦那様への謝罪を胸にしながら、あの方は……ご自分を犠牲にして、貴方様が望む未来を差し出そうとしているのですよ!』
……それから僕は色々と家令に聞いた。命の危険さえあったという、義母の奮闘の日々を。
『どうして僕にそれを教えてくれなかったんだ!? 知っていれば、噂をそのまま信じたりしなかったのに』
『……モーリス様があの方の醜聞に憤り、家を継いだ後はこの男爵家を正しい形に戻す。そこまでがあの方の計画だからです。【醜聞塗れの義母を追い出し、父親の背を追う若い男爵家の当主】と認識されれば、多少は今後の助けになるだろうと、そう仰っていましたよ』
『僕の、ため……?』
『はい。そして亡き旦那様のためであり、この家のためでもあります。ですから、私達はあの方をご尊敬申し上げているのです』
『ならば何故、彼女を【奥様】と呼ばないんだ?』
『あの方から、止められてしまいました。先ほども言いましたが、あの方はお一人で全てを背負う覚悟をされているのです』
『僕に気付かせないためかな』
『失礼を承知で申し上げれば、計画を成功させるためですね。モーリス様達は隠すことに慣れてはおりません。私達使用人が味方をしていると知れば、周囲を欺くことも難しくなります』
『……』
『噂をご存じでしょう。【使用人にさえ女主人と認められぬ阿婆擦れ】と。そう見えるよう、私達も振る舞い、探りを入れる者達にはさり気なく伝えてきました。それが噂として定着したということは……』
『我が家に出入りする者達の中に、積極的に噂を流す者が居た……』
『そういうことです。私達も時には限定された情報を流し、警戒すべき者達を見極めておりましたよ』
――ここに一覧がございます。
そう言って差し出された紙に書かれていた中には、僕に優しくしてくれた親族達の名もあって。
『本当にブレイカーズ男爵家のことを案じるならば、あの方を直接、怒鳴りつけに来るでしょう。ですが、それをされた方は極少数。本当にモーリス様のことを案じるならば、大人であるあの方々こそ、家の醜聞をどうにかしようと動くのではないでしょうか』
『……僕は……』
『モーリス様が謂れなき醜聞に晒されなかったのは、良い手駒と認識されていたからだと思います。そうでなければ、潰されていた可能性もあるかと。……あの方は本当に、先を見据えていらっしゃったのです』
家令の語る義母の姿は、噂とは全く違って見えた。いや、醜聞になるようなことはしているのだろうが、どちらかと言えば、諜報活動に近い。
ただ、いくら娼婦時代に培った話術があっても、義母がそう言った職業に就いていたことはないだろうし、戦う術だってないだろう。
ならば、本当に……義母の策は命がけのものだったということ。
それをあの人は遣り遂げてくれたのか。
自分に懐かず、蔑んでくるばかりの、義理の息子のために!
『……モーリス様。今はまだ、謝罪してはいけませんよ。貴方様がすべきことはあの方の策に乗りつつ、当主となるべく学ぶことです』
『謝罪だけでなく、感謝も告げられないのか』
『気付かぬ振りをなさいませ。……貴方様が潰されないこと。それが全てなのですから』
それが唯一、僕にできることなのだろう。と言うか、義母の頑張りを間近で見ていた家令達の方が僕よりも悔しいに違いない。
義母の指示とは言え、彼らも義母へとあからさまな忠誠や感謝を見せられない。どこに敵の目があるか判らない以上、危険は冒せまい。
それでもいつかは……素直な気持ちで感謝と謝罪を告げようと、心に誓ったのだ。
「どうされました? モーリス様。ご気分でも優れないのですか?」
黙り込んだ僕を不審に思ったのか、家令が尋ねて来る。そんな彼に小さく笑い、首を振ることで否定を。
「お前に叱られた時のことを思い出していた」
「ああ……」
納得したのか、家令は苦笑する。僕が一年ほど前から変わったせいか、家令を始めとする使用人達の視線が温かくなったような気がした。
……いや、実際に厳しくも温かい目で見守ってくれているのだろう。同時に、僕が義母の想いに気付くことも願っていたはず。
愚かにも、僕はそんな彼らの気持ちに気付かず、優しい言葉を向けてくる親族達に騙されるばかりだった。
僕は『お子様』と呼ばれても仕方がない、甘ったれだったのだ。
今だからこそ、その視野の狭さや愚かさがよく判る。
「先日、シュアンゼ殿下とそのご友人らしき人達に会ったんだけどね……その、かなり厳しいことを言われてしまったんだ」
「! そう、ですか……」
「確かに、胸に痛い言葉ばかりだったし、落ち込んだりもした。だけど、思い返してみればそれはただの事実だったし、遣るべきことを示す言葉も貰ったんだ」
言われ放題だったのは、彼らからすれば当然のことなのだろう。あの時の僕が『王族の庇護があれば何とかなる』と考えていなかったかと聞かれれば、否定はできないのだから。
シュアンゼ殿下のご友人がどういった立場なのかは判らないが、僕の状況を的確に理解し、助言をくれたのだから、政に携わる人なのではないかと思う。
「不思議なんだけど、優しいことばかりを言われるよりもずっと、僕を気に掛けてもらえたような気がするんだ。きっと、以前の僕では気が付かなかったし、反発するばかりだったと思う」
本当にそう思う。人はそれを成長と言うのだろうが、僕にとっては遅過ぎる。
それでも、僕はギリギリであっても間に合ったのだろう。少なくとも、即座に行動することができているのだから。
「良き機会に恵まれましたな」
「ああ。……あの人のお陰なんだけどね。やれやれ、感謝すべきことばかりが増えていくな」
「ふふ……沢山話せばよいのですよ。親子なのですから」
「……そうだね」
僕が無事に当主となった時。
一番初めにすべきことを、僕は秘かに決めている。
モーリス君の過去。これがないと、主人公達の言葉も届かない。
情けないお子様ですが、実家の大人達が一丸となって守っていたり。
※来週の更新はお休みさせていただきます。
確定申告の時期ですねぇ……。




