誤送信の向こう側
午前零時を少し過ぎていた。
広告代理店でコピーライターをしている川村ショウタは、冷めたコーヒーを飲みながら、クライアントへの謝罪メールを書いていた。
先方の確認を取らずに進めてしまった広告の修正が、思いのほか大きな問題になっていた。明日の朝一番には、先方の担当者に頭を下げなければならない。
文章を整え、何度も読み返し、ようやく送信ボタンを押した。
その直後、画面に表示された宛先を見て、眠気が吹き飛んだ。
「……うそやろ」
送り先が違う。
しかも、よりによって。
久保田レナ。
同じビルの別会社に勤める女性だった。エレベーターで何度か見かけたことがある。朝、ショウタが乗り込むと、彼女はたいていスマートフォンを見ている。たまに目が合えば、軽く会釈をする。その程度の関係だ。
もちろん、仕事上の接点はない。
なのに、彼女に送ってしまったメールの件名は、
『先日の不祥事について』
だった。
本文には、こちらの不手際を詫びる言葉が、これでもかというほど並んでいる。
ショウタは額を押さえた。
取り消せない。謝罪のメールを送った相手に、さらに誤送信の謝罪を送ることになる。何をしても謝罪が増えるばかりだ。
結局、彼はスマートフォンを伏せて、見なかったことにした。
もちろん、眠れるはずもなかった。
‐‐‐‐‐
翌朝、出社してメールを開くと、久保田レナから返信が届いていた。
件名は、そのまま。
『Re: 先日の不祥事について』
恐る恐る開く。
『こちらこそ、こちらの不祥事も多くて。
たとえば、コンビニでアイスを選ぶのに二十分かけるとか。
期間限定と書いてあると、買わなければ損をした気になるとか。
そういう小さな不祥事も、許してもらえますか?』
ショウタは、思わず吹き出した。
昨夜からずっと胃のあたりに居座っていた重たいものが、少しだけ軽くなった気がした。
返信欄を開く。
『その程度でしたら、厳重注意で済むと思います。ただし、期間限定アイスを買いすぎた場合は、再発防止策を提出してください』
送信してから、しまったと思った。
相手は、ただの誤送信先だ。仕事のメールでもないのに、何を律儀に返しているのだろう。
ところが、昼休みにまた返信が届いた。
『再発防止策として、冷凍庫を小さくすることを検討しています』
ショウタは笑った。
その日、久しぶりに昼食がおいしかった。
‐‐‐‐‐
それから、二人の間には妙な習慣ができた。
その日の失敗を、互いに「不祥事」と呼んで報告するのだ。
『本日の不祥事。
朝の占いで黄色がラッキーカラーだったので、黄色いブラウスに黄色い靴下で出社しました。昼休みに鏡を見て、ひまわりみたいだと思いました』
レナから届いたメールに、ショウタは返信した。
『本日の不祥事。
オンライン会議でミュートにしたつもりが、カップラーメンの湯切り音を全社に配信しました。会議後、上司から「おいしそうだったね」と言われました』
『それはもう、立派な広報活動ですね』
『来期の目標に入れておきます』
そんなやりとりが、毎日のように続いた。
仕事で失敗した日も、電車で座れなかった日も、夕飯に作ったものが見た目だけでなく味まで失敗した日も、二人はメールを送った。
大したことではない。
誰かに話すほどでもない。
けれど、誰にも話さずに終わらせるには、ほんの少し惜しい。
そんな出来事を、相手が待っていてくれる。
それが、ショウタにはうれしかった。
レナの文章には、彼女の表情が見えるようなところがあった。
笑っているときは句読点が少なくなり、少し落ち込んでいるときは、いつもなら入るはずの一言が抜けていた。
ある日、ショウタが仕事で大きなミスをしたときのことだ。
誰にも会いたくない気分で帰宅し、いつものようにメールを開いた。
『本日の不祥事。
自分の書いたコピーが、どうしても好きになれませんでした。書き直しても、どんどん悪くなっている気がします』
送信してから、少し後悔した。
こんなことを伝えても困らせるだけだろう。
しかし、しばらくして返信が来た。
『私は、あなたの文章が好きです。
といっても、仕事のコピーは読んだことがないので、今のところ、このメールだけですが』
ショウタは画面を見つめた。
『うまくいかない日もあると思います。でも、今日のあなたが書いた文章は、私は好きでした』
それを読んで、彼はようやく息を吐いた。
知らない人のはずなのに。
まだ、顔もまともに知らない人なのに。
自分がどんな言葉を欲しがっていたのか、彼女は不思議なくらいわかっていた。
‐‐‐‐‐
三週間が過ぎた頃、レナから届いたメールは、いつもと少し違っていた。
『本日の不祥事。
あなたの顔を知らないのに、夢に出てきました』
ショウタは、画面を見たまま動けなくなった。
仕事中だというのに、頭の中がその一文でいっぱいになった。
どんな顔をしていたのだろう。
自分だったのだろうか。それとも、彼女の想像の中で勝手に作られた誰かだったのだろうか。
返信を書いた。
『どんな夢だったんですか?』
消した。
『それは重大な不祥事ですね』
これも違う。
何度も書いては消した末に、ショウタはようやく送信した。
『本日の不祥事。
あなたに会ってみたいと思ってしまいました』
送信ボタンを押したあと、顔が熱くなった。
いつもの冗談に紛らわせることもできたはずだ。
なのに、できなかった。
しばらくして、返信が届いた。
『では、金曜日はいかがですか?
同じビルの一階にあるカフェで。不祥事ミーティングということで』
ショウタは、思わず背筋を伸ばした。
金曜日まで、あと四日。
たった四日が、こんなに長いものだとは知らなかった。
‐‐‐‐‐
金曜日。
ショウタは約束の十五分前にカフェへ着いた。
コーヒーを注文したものの、ほとんど手をつけられなかった。
入口のベルが鳴るたびに顔を上げ、違う客だとわかるたびに、何でもないふりをして視線を戻した。
約束の時間を二分過ぎた頃、入口に一人の女性が現れた。
黒いワンピースに、肩までの髪。
エレベーターで見かけたことのある顔だった。
彼女もショウタを見つけると、少し迷ってから近づいてきた。
「川村さん、ですか?」
「久保田さん?」
二人とも、確認するように名前を呼んだ。
それから、どちらからともなく笑った。
「なんだか、変な感じですね」
レナが言った。
「毎日メールしてるのに、初対面みたいで」
「初対面ですよ。顔を合わせたことはあっても、話したことはなかったですから」
「そうでしたね」
彼女は椅子に座り、コートを畳んで隣に置いた。
ショウタは、目の前の女性を改めて見た。
メールの中の彼女は、もっと饒舌な印象だった。実際のレナは、話す前に少し考える癖があるらしい。言葉を探すとき、視線がほんの少しだけ右上に動く。
そんなことに気づく自分がおかしかった。
「やっと、文体以外のあなたに会えました」
レナが言った。
「僕もです。思っていたより、句読点が少なそうですね」
「どういう意味ですか、それ」
「いや、文章ではもっと、こう……」
「面倒くさい女だと思ってました?」
「そこまでは言ってません」
「今、言おうとしましたよね」
彼女が笑った。
ショウタも笑った。
会話はときどき途切れた。メールなら、考える時間がいくらでもある。送信する前に文章を直すこともできる。
けれど、目の前の相手には、そうはいかない。
それでも、沈黙は苦痛ではなかった。
レナがカップを持ち上げる。ショウタもコーヒーを飲む。
窓の外では、仕事帰りの人たちが足早に通り過ぎていく。
その何でもない時間が、ショウタには妙に心地よかった。
‐‐‐‐‐
コーヒーが半分ほどになった頃、レナがふと真面目な顔をした。
「実は、最初のメール、少し怖かったんです」
「ですよね……」
「件名が『先日の不祥事について』でしょう? 何かのトラブルに巻き込まれたのかと思いました。知らない人から、いきなり謝罪文が届くんですから」
「本当にすみませんでした」
「でも、読み終わったら、ちょっと笑ってしまって」
レナはカップの縁を指でなぞった。
「私も、仕事で失敗して落ち込んでいた日だったんです。誰にも言えなくて、ずっと引きずっていて」
ショウタは黙って彼女を見た。
「だから、あのメールに返事をしてみたんです。知らない人だからこそ、気楽に書けるかなって」
「そうだったんですね」
「そしたら、思った以上に楽しくなってしまって」
レナは少し恥ずかしそうに笑った。
「毎日、あなたからメールが来るのを待つようになっていました」
ショウタは、すぐには返事ができなかった。
自分だけではなかった。
仕事が終わると、彼女からのメールが届いていないか確認していたこと。何か失敗をすると、真っ先に彼女に報告したくなったこと。おもしろいものを見つけると、彼女なら何と言うだろうと考えていたこと。
そんな自分の変化を、ようやく認められた気がした。
「僕もです」
ショウタは言った。
「メールが来ない日があると、何かあったのかなって気になってました」
「それは、不祥事ですね」
「かなり重大なやつです」
二人は笑った。
レナは窓の外へ目を向けた。
「でも、不思議ですね。普通に知り合っていたら、こんなふうに話せなかったかもしれない」
「どうしてですか?」
「エレベーターで会っても、挨拶するだけだったでしょう?お互いに仕事があるし、忙しそうだし」
「確かに」
「でも、メールでは、失敗したことも、情けないことも、何でも話せた」
彼女は、もう一度ショウタを見た。
「最初のメールが、ちゃんとした相手に届いていたら。私たち、こうして会うこともなかったんですよね」
ショウタは小さくうなずいた。
「僕らの恋の始まりは、通信障害ってことですね」
「ロマンチックなバグ、ですね」
レナが笑った。
ショウタも笑った。




