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誤送信の向こう側

作者: 北大路京介
掲載日:2026/10/25

午前零時を少し過ぎていた。


広告代理店でコピーライターをしている川村ショウタは、冷めたコーヒーを飲みながら、クライアントへの謝罪メールを書いていた。


先方の確認を取らずに進めてしまった広告の修正が、思いのほか大きな問題になっていた。明日の朝一番には、先方の担当者に頭を下げなければならない。


文章を整え、何度も読み返し、ようやく送信ボタンを押した。


その直後、画面に表示された宛先を見て、眠気が吹き飛んだ。


「……うそやろ」


送り先が違う。


しかも、よりによって。


久保田レナ。


同じビルの別会社に勤める女性だった。エレベーターで何度か見かけたことがある。朝、ショウタが乗り込むと、彼女はたいていスマートフォンを見ている。たまに目が合えば、軽く会釈をする。その程度の関係だ。


もちろん、仕事上の接点はない。


なのに、彼女に送ってしまったメールの件名は、


『先日の不祥事について』


だった。


本文には、こちらの不手際を詫びる言葉が、これでもかというほど並んでいる。


ショウタは額を押さえた。


取り消せない。謝罪のメールを送った相手に、さらに誤送信の謝罪を送ることになる。何をしても謝罪が増えるばかりだ。


結局、彼はスマートフォンを伏せて、見なかったことにした。


もちろん、眠れるはずもなかった。



‐‐‐‐‐



翌朝、出社してメールを開くと、久保田レナから返信が届いていた。


件名は、そのまま。


『Re: 先日の不祥事について』


恐る恐る開く。


『こちらこそ、こちらの不祥事も多くて。


たとえば、コンビニでアイスを選ぶのに二十分かけるとか。


期間限定と書いてあると、買わなければ損をした気になるとか。


そういう小さな不祥事も、許してもらえますか?』


ショウタは、思わず吹き出した。


昨夜からずっと胃のあたりに居座っていた重たいものが、少しだけ軽くなった気がした。


返信欄を開く。


『その程度でしたら、厳重注意で済むと思います。ただし、期間限定アイスを買いすぎた場合は、再発防止策を提出してください』


送信してから、しまったと思った。


相手は、ただの誤送信先だ。仕事のメールでもないのに、何を律儀に返しているのだろう。


ところが、昼休みにまた返信が届いた。


『再発防止策として、冷凍庫を小さくすることを検討しています』


ショウタは笑った。


その日、久しぶりに昼食がおいしかった。



‐‐‐‐‐



それから、二人の間には妙な習慣ができた。


その日の失敗を、互いに「不祥事」と呼んで報告するのだ。


『本日の不祥事。


朝の占いで黄色がラッキーカラーだったので、黄色いブラウスに黄色い靴下で出社しました。昼休みに鏡を見て、ひまわりみたいだと思いました』


レナから届いたメールに、ショウタは返信した。


『本日の不祥事。


オンライン会議でミュートにしたつもりが、カップラーメンの湯切り音を全社に配信しました。会議後、上司から「おいしそうだったね」と言われました』


『それはもう、立派な広報活動ですね』


『来期の目標に入れておきます』


そんなやりとりが、毎日のように続いた。


仕事で失敗した日も、電車で座れなかった日も、夕飯に作ったものが見た目だけでなく味まで失敗した日も、二人はメールを送った。


大したことではない。


誰かに話すほどでもない。


けれど、誰にも話さずに終わらせるには、ほんの少し惜しい。


そんな出来事を、相手が待っていてくれる。


それが、ショウタにはうれしかった。


レナの文章には、彼女の表情が見えるようなところがあった。


笑っているときは句読点が少なくなり、少し落ち込んでいるときは、いつもなら入るはずの一言が抜けていた。


ある日、ショウタが仕事で大きなミスをしたときのことだ。


誰にも会いたくない気分で帰宅し、いつものようにメールを開いた。


『本日の不祥事。


自分の書いたコピーが、どうしても好きになれませんでした。書き直しても、どんどん悪くなっている気がします』


送信してから、少し後悔した。


こんなことを伝えても困らせるだけだろう。


しかし、しばらくして返信が来た。


『私は、あなたの文章が好きです。


といっても、仕事のコピーは読んだことがないので、今のところ、このメールだけですが』


ショウタは画面を見つめた。


『うまくいかない日もあると思います。でも、今日のあなたが書いた文章は、私は好きでした』


それを読んで、彼はようやく息を吐いた。


知らない人のはずなのに。


まだ、顔もまともに知らない人なのに。


自分がどんな言葉を欲しがっていたのか、彼女は不思議なくらいわかっていた。



‐‐‐‐‐



三週間が過ぎた頃、レナから届いたメールは、いつもと少し違っていた。


『本日の不祥事。


あなたの顔を知らないのに、夢に出てきました』


ショウタは、画面を見たまま動けなくなった。


仕事中だというのに、頭の中がその一文でいっぱいになった。


どんな顔をしていたのだろう。


自分だったのだろうか。それとも、彼女の想像の中で勝手に作られた誰かだったのだろうか。


返信を書いた。


『どんな夢だったんですか?』


消した。


『それは重大な不祥事ですね』


これも違う。


何度も書いては消した末に、ショウタはようやく送信した。


『本日の不祥事。


あなたに会ってみたいと思ってしまいました』


送信ボタンを押したあと、顔が熱くなった。


いつもの冗談に紛らわせることもできたはずだ。


なのに、できなかった。


しばらくして、返信が届いた。


『では、金曜日はいかがですか?


同じビルの一階にあるカフェで。不祥事ミーティングということで』


ショウタは、思わず背筋を伸ばした。


金曜日まで、あと四日。


たった四日が、こんなに長いものだとは知らなかった。



‐‐‐‐‐



金曜日。


ショウタは約束の十五分前にカフェへ着いた。


コーヒーを注文したものの、ほとんど手をつけられなかった。


入口のベルが鳴るたびに顔を上げ、違う客だとわかるたびに、何でもないふりをして視線を戻した。


約束の時間を二分過ぎた頃、入口に一人の女性が現れた。


黒いワンピースに、肩までの髪。


エレベーターで見かけたことのある顔だった。


彼女もショウタを見つけると、少し迷ってから近づいてきた。


「川村さん、ですか?」


「久保田さん?」


二人とも、確認するように名前を呼んだ。


それから、どちらからともなく笑った。


「なんだか、変な感じですね」


レナが言った。


「毎日メールしてるのに、初対面みたいで」


「初対面ですよ。顔を合わせたことはあっても、話したことはなかったですから」


「そうでしたね」


彼女は椅子に座り、コートを畳んで隣に置いた。


ショウタは、目の前の女性を改めて見た。


メールの中の彼女は、もっと饒舌な印象だった。実際のレナは、話す前に少し考える癖があるらしい。言葉を探すとき、視線がほんの少しだけ右上に動く。


そんなことに気づく自分がおかしかった。


「やっと、文体以外のあなたに会えました」


レナが言った。


「僕もです。思っていたより、句読点が少なそうですね」


「どういう意味ですか、それ」


「いや、文章ではもっと、こう……」


「面倒くさい女だと思ってました?」


「そこまでは言ってません」


「今、言おうとしましたよね」


彼女が笑った。


ショウタも笑った。


会話はときどき途切れた。メールなら、考える時間がいくらでもある。送信する前に文章を直すこともできる。


けれど、目の前の相手には、そうはいかない。


それでも、沈黙は苦痛ではなかった。


レナがカップを持ち上げる。ショウタもコーヒーを飲む。


窓の外では、仕事帰りの人たちが足早に通り過ぎていく。


その何でもない時間が、ショウタには妙に心地よかった。



‐‐‐‐‐



コーヒーが半分ほどになった頃、レナがふと真面目な顔をした。


「実は、最初のメール、少し怖かったんです」


「ですよね……」


「件名が『先日の不祥事について』でしょう? 何かのトラブルに巻き込まれたのかと思いました。知らない人から、いきなり謝罪文が届くんですから」


「本当にすみませんでした」


「でも、読み終わったら、ちょっと笑ってしまって」


レナはカップの縁を指でなぞった。


「私も、仕事で失敗して落ち込んでいた日だったんです。誰にも言えなくて、ずっと引きずっていて」


ショウタは黙って彼女を見た。


「だから、あのメールに返事をしてみたんです。知らない人だからこそ、気楽に書けるかなって」


「そうだったんですね」


「そしたら、思った以上に楽しくなってしまって」


レナは少し恥ずかしそうに笑った。


「毎日、あなたからメールが来るのを待つようになっていました」


ショウタは、すぐには返事ができなかった。


自分だけではなかった。


仕事が終わると、彼女からのメールが届いていないか確認していたこと。何か失敗をすると、真っ先に彼女に報告したくなったこと。おもしろいものを見つけると、彼女なら何と言うだろうと考えていたこと。


そんな自分の変化を、ようやく認められた気がした。


「僕もです」


ショウタは言った。


「メールが来ない日があると、何かあったのかなって気になってました」


「それは、不祥事ですね」


「かなり重大なやつです」


二人は笑った。


レナは窓の外へ目を向けた。


「でも、不思議ですね。普通に知り合っていたら、こんなふうに話せなかったかもしれない」


「どうしてですか?」


「エレベーターで会っても、挨拶するだけだったでしょう?お互いに仕事があるし、忙しそうだし」


「確かに」


「でも、メールでは、失敗したことも、情けないことも、何でも話せた」


彼女は、もう一度ショウタを見た。


「最初のメールが、ちゃんとした相手に届いていたら。私たち、こうして会うこともなかったんですよね」


ショウタは小さくうなずいた。


「僕らの恋の始まりは、通信障害ってことですね」


「ロマンチックなバグ、ですね」


レナが笑った。


ショウタも笑った。

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