天国と地獄
パタ、パタ、と水音が弾かれて広がる。
足元で揺らぐ雲達がそれを飲み込むように朱色に染まった。
「夕焼けの上は、気分が良いなぁ……」
私は小さく呟く。雲の上の上――この道を選んでしまった日から続く茨の道の出口は、未だに見えない。
時間がどれだけ経ったかなんてことを考えるのも、無駄なのだろうなと思った。
時折、強く息を吐いて、空を眺めても、痛みは止まらない。
立ち止まっても、痛い。立ち止まらなくとも、痛い。
「それでも、間違えたとは、言わない」
時々鳥を想って、その自由を考えてしまうことがある。
ただ、どうしてこんなことになったかなんて事を考えるのはやめた。
ただただ、あるからある。それ以上に理由は付けられない。こんな不思議な世界に理由をつけられる程、私達人間は立派に出来ちゃいないと、そう思う。
――私が望んだ時に、この道が生まれて、私が選んだ時に、この道に意味が出来た。
妄想なのかもしれない、想像なのかもしれない。夢を見ているのかも、しれない。
それでも一歩、また一歩、足を踏みしめる度に、痛みを感じる。
生きている、生きてしまっている。夢ではないのだ。きっとこれは、夢なんかじゃ、ないのだ。
「夢じゃないから、痛いんだもんね」
時折見える休憩所。そこに揃えられた傷薬、包帯、食べ物、そんな即物的な救いだけが、この道の答えなのだと思いかける。
思い出せば、一度目の休憩所はスタートのほんの少し先だった。
この茨の道を駆け抜けられたならば数十秒で着ける位置にあった休憩所に、道を歩き始めた私が辿り着くまでに、私の涙は枯れた。
慣れることはない、ただ、変わることはある。
痛みより、幾重にも伸びる道が見える。
あの人達に、私は見えているのだろうか。
茨の無い道を悠々と歩いている人も、鉄釘の上で倒れている人も、ずっとうずくまっている人も、スタートから動かない人もいる。
痛みの中で、誰ものことを想って、倒れそうな頭を支えながら、心はただ一言『悲しい』という気持ちを答えとして提出した。
――あぁ、生きるのって、悲しいもんなんだな。
私が痛む間にも、沢山の人が私の先へ歩いていく。
私が痛みながら歩くよりもずっと早く、痛まずに歩いていく。
だけれど、その私の歩みの後ろで、うずくまる人も、いる。
私は、どちらを見ても、きっと悲しい。
それ以上、言葉にするのは辞めた。
心が空白になりそうになりながら、時折茨の上でうずくまって、少しだけ眠った。
痛みに揺れる日々の中、遠くなる休憩所を呪ったこともある。
だけれど、今はきっと、あそこが私の一歩を積み重ねた、正しい位置なのだろうと思うようになった。
「や、お嬢さん」
「珍しいですね……お姉さんもこの道を?」
休憩所は、広い。時々誰かと出会うこともあるけれど、それぞれが精一杯で、すれ違った人と二度と会うこともない。もしかしたらこの先で出会えたらいいと思う。
「そうだね、包帯貸して? 巻くよ」
「え……あ、お願いします」
彼女の手つきは妙に慣れていて、茨のトゲを丁寧に抜いてから、包帯に消毒薬を浸して、私の足に強い力を込めて、あっという間に包帯で巻き込んでいく。
「痛いけど我慢ね、これでもうちょっと頑張れるはずだから」
「慣れて……いるんですね」
「この道を選んだのはいいけど、私は方向音痴でね!」
久しぶりに、そんな楽観的な語調を聞いた気がする。
彼女も痛みに耐え抜いてこの場所にいるというのに、彼女は笑っている。
「お嬢さんはさぁ、なんでここに来たの? 趣味なんだ、人の夢を聞くの」
「えっと、あの……ッ!」
言葉に詰まる。一瞬、夢という言葉が茨よりも痛い言葉に聞こえた。
「あはは、ごめんごめん。そりゃ、初めて会った人にこんなこと言われちゃ驚くよねぇ……」
お姉さんは、休憩所からチョコレートバーを二つ持って来て、一本を手渡してくれた。
「こんなハチャメチャな場所なんだ。せっかく会えたんだし、お友達になろーよ!」
「友達、ですか。でもお姉さんは私よりずっと……」
「ずっと……?」
「いえ、何でもないです」
色々と大きい、多分度量も、何処とは言わずとも身体も、それに何より余裕という意味での心の中身も、髪色は綺麗な金髪だけれど、不思議と何でもある休憩所で染色したんだろう。
そんな余裕がある人がいるかなんて思っていたけれど、実際の所、眼の前にいる。
どうせまた歩き出せば血で塗れるというのに、彼女は鼻歌を歌いながら私たちの近くにあるハンガーラックから服を物色していた。
「歌、上手なんですね」
「でしょー? 私ね、歌が上手なの。ファンになってもいいよ?」
「あはは、じゃあなっちゃおうかな。ファンナンバーは?」
そうすると彼女は、ピースサインで私に答えた。
「お嬢さんが二人目、だね。でもファンはお嬢さんだけじゃないよ?! ファンクラブナンバーツーは、いーっぱい出来るんだから! これから!」
何を言っているのかはいまいち分からなかったけれど、なんとなく頷いておいた。
「そんなに上手いのに……二人目ですか」
「そだよー、私はね。一人と、二人でいいの。私の歌を好きになってくれた人は、皆ファン二号なんだよー。だって好きってすっごく素敵な気持ちじゃない? だったらそこに順番を付けちゃうのはなー!」
つまりこれからお姉さんのファンが増えたとしても、二人目なのは変わらないのだ。私が何人目の二人目なのかは聞かずにおいた。だって、それ以上に気になることがあったから。
「でも、じゃあファン一番目は誰なんですか?」
お姉さんはクスっと笑って、ピースサインから、中指を静かに折りたたむ。この人のテンションなら人差し指を折りかねない気がして、少し焦ったけれど、残ったのは一本の人差し指。
それが、ゆっくりと傾いていく。
そうして、その一本の指が向いた先は、お姉さん本人だった。
「最初のファンはね、私。だからファンがいなくなることなんて、絶対にないの。どう? 超ハイパーに立ち上がれる考え方だと思わない?!」
「まぁ、素敵な考え方だと思いますけど……苦しいことって、ないんですか?」
「いや? めーっちゃくちゃしんどい。だから私たちはこの場所にいるんでしょ? でもさ、茨の道の歩き方を探すことくらいは出来るのかもってね? お嬢さんだってきっといつか出来ることだよ」
この、偶然の出会いは、ほんの少しだけ、私の痛みを、和らげた気がした。
「出口なんて、ないのかもねって思うの」
お姉さんは、真剣な顔で呟く。
「ほら、この場所では、色んな人の道が見えるでしょ? だけれどゴールにたどり着いている人なんて、いないんだ」
「確かに、先に行く人は見えても、ゴールは見たことがないかも……」
パキッと小気味いい音を立てて、お姉さんはチョコバーを齧る。
「あたたた……惜しむらくは、病院がないことだね。たまに染みるったら、健康状態は安定していても、なんかやだなあ」
「現実だっていうには、ちょっと不思議すぎますもんね……」
私も、ちびちびとチョコレートバーを齧る。
「あと、せっかくならケーキが食べたいよう。ショートケーキ、苺くらいあってもいいだろ!」
「それは……同感です。はぁ、夢には犠牲が必要だってことなのかな」
――こぼれ落ちた言葉が掬われる。
「違うよ。それは犠牲じゃない。私たちが選んだことに対して、責任が生まれてるだけ。犠牲なんて一つだってない、無いものはあるけどさ、失くしたもの、ある?」
そう言われて考えて見れば、私は確かに進んでいる。
「それにほら、君にだって、夢があるんじゃん?」
お姉さんの微笑みは、少しだけ誇らしく、綺麗に見えた。
「一回失敗しちゃったからね、もう一回繰り返すことはないよ。だけど、この道の中で出会えたのが、私は嬉しい」
「……ですね。お姉さんの二人目のファンが、山程出来たら自慢させてください」
「へへ、いつになるかなー。でもいつか叶えるよ。だって私が選んだんだからね。しかし、他者は地獄というけれど、天国になることもあるじゃんか、サルトルおじさん」
「……サルトル?」
誰か、著名人の名前だろうか。それに、他者は地獄という言葉も初めて聞いた。
「んーとね、私が大好きな、変わったおじさんだよ。あの人もきっと、こんな道を歩いたんだと思うんだ」
お姉さんは遠い目をしながら、空の上の空を見上げた。
「地獄の中で、それでも天国を見る、か……。どうか君のこれからの道に、答えがありますように!」
彼女は、ゴールとは言わなかった。どれだけの道を歩き続けたかは知らなかった。
だけれど、その言葉の重みは、私には考えられない程のこと。
「じゃあ、ここでお別れですね」
「いーや? またね、だよ。だって君も進むんでしょ? だからきっとまた会うよ」
そう言って、彼女と笑いあって、どれだけ時間が経っただろう。
それからの私は本を読むようになった。彼女が言っていたサルトルさんのことも、なんとなく、私なりに飲み込みながら、前に進むことを選び続けた。
包帯の巻き方も、茨の道の歩き方も、何度も何度も繰り返せば分かってきた。
そうして何十回目かに辿り着いた休憩所に、人影が見える。
「や、お嬢さん」
そう言って、私は困り顔の女の子に声をかける。
「珍しいですね……お姉さんもこの道を?」
いつの間にか、私もこの茨の道を歩き続けて、随分経った。
お姉さんと呼ばれるのも、仕方ないくらいの時間。
「へへ、そうだね。包帯貸して? 私が巻いてあげる」
素直に足を出した彼女の足についた茨のトゲを、優しく撫でるように、取り除いていく。
――傷も、頑張った証だもんね。
いつか、この子も気付く時が来るのだと思う。
きっと、あの時のお姉さんも、言わずにいてくれたのだと思う。
この道に、きっと出口は無い。
それでも進んでいくことで、私たちは変わっていく。
いつか、夢が叶ったのかもしれないと思った時に、私の夢はきっと叶っていた。
だけれど、それを持って歩く道も、また茨の道。
やめるまで、終わらない。それでも、この痛みが、今は少しだけ愛おしくも感じた。
「よし、これで少しは痛まずに歩けるよ」
「ありがとうございます……お姉さんも、夢を選んでこんな道に迷い込んだんですか?」
彼女の視線は、少し震えていた。
だけれど私は、あえて不敵な笑みを見せる。
「選んだんだよ。悲しいことはいっぱいあったけれどね? この世界で、薔薇の花が咲き誇る所、見たことはある?」
「そんなのがあるんですか?!」
目をキラキラさせている彼女に、私は鼻歌を歌いながら、チョコレートバーを手渡す。
「あるんだなぁー、それが。楽しみにするといいよ」
「……はい! 少しだけ、元気が出てきたような、気がします」
そうは言っても、彼女の目からは疲れの色が見えていた。
「大丈夫だよ。お嬢さんの夢も、きっと叶うよ。私の夢に、入れといてあげる!」
キョトンとした彼女は、チョコレートバーを小さく齧って飲み込んでから、少しだけ首を横に傾げる。
「夢、何個もあっていいんですか?」
「夢が一つだなんて、誰が決めたのさー。だから、私の道に、君の幸せも一緒に願って連れて行くよ。だから、頑張ろうね」
彼女は何度も何度も頷く。
こんな、茨の道。悲しい道、辛い道、それでも、選んだ道で、私たちは止まらずにいる。
「そういえば……お姉さんの夢は何だったんですか?」
その言葉に向けて私は二本の指を立てて、ピースサインを向けた。
「一つはね、ある人の歌を聴くこと。それで……もう一つは……」
言葉は、風に流れて、甘いチョコレートの香りと一緒に流されていった。
「そんで、君の幸せ! 誰かが他者は地獄だなんて言ったけれど、きっと、天国にも成り得るんだから!」
彼女は首をかしげている。だけれどそれで良い。
天国と地獄なんて、ただの言葉だ。
私たちは選んだ道の上を、いつまでもちゃんと、一歩ずつ歩いていけたならいい。
私は、その連なりを、その努力を、その選択を、愛していこう。
そう思いながら、また一歩、茨を踏みしめた。しっかりと痛みと、希望と、夢を見据えながら。




