第2節:異界の嵐と、家康公の遺産
異変は一瞬だった。
鏡のようだった海面が、突如として牙を剥いた。
ゴオオオオッ!!
唸りを上げて風が吹き荒れ、山のようなうねりが船を襲う。
「な、なんだこの波は!?」
格さんが『論語』を懐にしまい、船縁にしがみつく。
通常の小舟なら、一発で転覆していただろう。だが、この船は違った。
ザパァァァァンッ!!
大波を受けても、船体は木の葉のように舞い上がりながら、吸いつくように海面に着水した。
きしみ一つ上げない剛性。
そして、驚異的な復原力。
「おっと! ……さっすが、家康の爺さんの遺産だぜ」
光圀はマストにしがみつきながら、不敵に笑った。
この船の名は『神龍丸』。
一見すると地味な和船だが、その中身は扶桑国の工匠と、漂着したイギリス人航海士ウィリアム・アダムス(三浦按針)の技術を結集させた、当時の扶桑国においては明らかにオーバーテクノロジーの産物だ。
竜骨には南蛮の鋼が仕込まれ、床下には完全防水のキャビンまで備えている。
光圀が「釣り船にちょうどいい」と勝手に持ち出した代物だが、その真価はここにあった。
「来るぞ! 捕まれッ!」
助さんが叫ぶ。
視界を覆うほどの、巨大な三角波(ログ波)が壁のように迫っていた。
高さ十メートルを超えている。船の性能云々ではない。物理的に押し潰される質量だ。
「……チッ、沈んでたまるかよ!」
光圀の目が、猛禽類のように鋭くなった。
彼は懐から四枚の呪符を取り出すと、それを船の四隅へと正確に投擲した。
「急々如律令!」
光圀が印を結ぶ。
符が黄金の光を放ち、それぞれの光が線で結ばれ、船全体を包み込む幾何学模様の結界を形成した。
「呪法・【海神の揺り籠】ッ!!」
ドガァァァァァァァッ!!
三角波が直撃する。
だが、船は砕けなかった。
透明な空気の膜に守られた『神龍丸』は、潜水艦のように波の中へと突入し、その圧倒的な水圧を受け流していく。
光圀がかつてある人物から学んだ、符呪術が効力を発揮した。
「格! 舵を取れ! 波に対して垂直に保て!」
「承知ッ!」
格さんが舵柄を握る。
激流の中で舵は暴れ馬のように跳ね回る。
常人なら腕ごと持っていかれる重圧だ。
格さんは足を大きく開き、腰を沈めた。
騎馬立ち。大地に根を張る巨木のように、重心を丹田に落とす。
「ぬんっ!」
剛腕の筋肉が膨れ上がる。
だが、彼は力でねじ伏せたのではない。
波のエネルギーを感じ取り、呼吸を合わせ、暴れる力を切っ先でいなすように舵を微調整したのだ。
剛剣使いの極意。波の呼吸は、剣の呼吸と同じ。
「助! 帆を畳め! 風に持っていかれるぞ!」
「やっています!」
助さんは船上を軽業師のように飛び回り、帆綱を操っていた。
揺れる足場など存在しないかのように、体幹がブレない。忍びの足運びだ。
光圀の結界、格さんの操舵、助さんの操船。
三位一体のサバイバル。
彼らは轟音と闇の中で、必死に「生」にしがみついた。
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