紫乃とイチさま
恐怖からか、紫乃の脳裏には過去の出来事が走馬灯のように浮かんでは消える。
圧倒的な孤独。
糸世の家で、失った両親。
東堂の家で、いないものとされた日々。
それでも、唯一……自分の存在を「大事」と言ってくれた、小さな神さま――
「……イチさま……!」
その名を呼んだ瞬間だった。
紫乃と鬼のあいだに、風が渦巻いた。
ぐわっ、と突風が鬼を吹き飛ばす。
「紫乃、大丈夫か!?」
声が聞こえた。
心の底から安心できる声。
見慣れた小さな姿が、光をまとって飛び込んでくる。
「イチ……さま……!」
「紫乃」
イチさまは、紫乃の肩にぴょこんと飛び乗る。
「あ、あの……鬼は……」
「壱継尊かっ……!!」
鬼が叫んだ。
「忌々しい神め……なぜまだこの屋敷にっ! 巫女の血さえ喰らえば、完全に復活できたものを……!」
「それはさせられん。紫乃は、我のものじゃ」
イチさまが手をかざすと、光の鎖が走り、鬼の身体を掛軸の中へと再封印していく。
「うぎゃあああ……!くそぉおおお!」
鬼の断末魔を聞きながら安堵したところに、凄まじい痛みが襲ってきた。
「うぅ……!」
――なんと。
紫乃の腕には、深く爪が食い込んだままだった。
皮膚は紫色に変色し、だんだん感覚が薄れていく。
「紫乃っ! これは……鬼の毒……!?」
「ど、毒……?」
紫乃の視界が歪み、耳鳴りが始まる。
そのときだった。
りん、と鈴の音が響いた。
紫乃の足元に落ちていた守り袋が、金色の光を放ちながら、すうっと紫乃の手元へと吸い寄せられた。
「……こ、これはっ!」
イチさまの顔に驚愕と希望が入り混じる。
「紫乃! 今すぐ、袋を開けよ!!」
紫乃は震える指で袋を解く。
中にあった白い紙が解き放たれるように外に出る。
そして現れたのは――
夢で見た金の小槌。
「イチさま……」
「紫乃……!!小槌を、小槌を振れ!!」
いつも飄々としたイチさまの、こんなに焦った声を聞いたのは初めてだった。
けれど、紫乃にはもう小槌を振るだけの力が残っていなかった。
だから、紫乃はそっと小槌に触れ、祈るように声を絞り出した。
「壱継命さま……どうか、我を……我をお救いください……!」
――その瞬間。
まばゆい光が爆ぜ、世界が反転した。
ぐらりと揺れた紫乃の身体を、逞しい腕が支える。
紫乃の腕に触れた大きな手のひらが、傷を包み込み、たちまち毒を消し去った。
「……イチ、さま……?」
見上げた先にいたのは、もういつもの姿――いや、大きさではなかった。
濡羽色の髪をなびかせ、切れ長の涼やかな目元をした青年。
「紫乃。巫女として、よくぞ願ってくれた」
「……え……イチさま……なんですか……?」
「うむ。我が本来の姿じゃ」
「これって、つまり、大きく……なぁれ、って……ことですか……?」
「ふっ、そんなところじゃ。でかしたぞ、紫乃」
イチさまは微笑み、にやりと唇の端を上げる。
どこか、変わらないその雰囲気に、紫乃の胸がきゅうっと締めつけられた。
「封印は、しっかり補強しておかねばな」
イチさまはそう言うと、掛軸に再び印を打ち込んでいった。
鬼が封じられた掛け軸を見つめていたイチさまは、腕に抱く紫乃をふと見下ろした。
紫乃がその眼差しを見つめ返したとき、イチさまの表情がふっとやわらいだ。
ふいに優しい声音で言う。
「それから、我とおぬしの祝言もあげねばな」
「……はい?」
「盃は交わしたが、宴はまだだからのう」
「え、あの……」
「小さい男は気にせんと言ってくれたがな。……こうして、おぬしをこの腕に抱けるのは、なかなか嬉しいものじゃぞ」
「~~っ……!」
紫乃は真っ赤になって身をよじるが、しっかりと抱く腕はびくともせず、放してくれる気配すらない。
「神界へ来ぬか、紫乃。人間界には……たまに遊びに来るくらいは許すぞ?」
その瞳がまっすぐに紫乃を見つめた。
紫乃の答えは、もう決まっていた。
「……はい」
「ふふん、良い返事じゃ!」
イチさまは声を上げて笑い、そのまま光の中へと、紫乃を抱いて跳んだ。
――※――
逃げた女中が助けを呼んで戻ってきたとき、蔵にはもう誰もいなかった。
鬼の絵は裏返り、掛け軸自体が薄く褪せたようだった。
その後、女中が屋敷のあちこちで盗みを働いていたことが露見し役人に引き渡されたが、紫乃の姿が消えたことを気にする者はなかった。
まるで最初から、そんな娘などいなかったかのように――。
――※――
暖かい風が吹く。
薄紫の着物をまとう紫乃は、雲海に浮かぶ神の屋敷を、そっと歩いていた。
表情は静かに、けれど確かに幸せの色を帯びている。
奥の間から声がかかる。
「来たか、紫乃。早う、早う」
「はい」
二人が並んで座ると、塗りの膳がふっと現れた。
紫乃はイチさまの茶碗に、ご飯をよそい――
そっと笑みを浮かべる。
「……はい、あーん」
湯気のたつご飯を一口頬張ったイチさまが、満足げに目を細める。
その姿を見つめながら、紫乃の笑みも自然に深くなっていった。
茶碗の中に立つ湯気が、空へふんわりと昇っていった。