巫女の資質
「どうした、紫乃? なにか心配事か?」
その晩、食後の茶を啜りながら、イチさまが紫乃に声をかけてきた。
いつものように、余った膳を手に物置を訪れた紫乃だったが、食事を終えたあとも、どこか浮かない顔をしていたのだろう。
切れ長の瞳が、心配そうにこちらを覗き込んでくる。
紫乃は湯呑みをそっと置き、意を決して口を開いた。
「……昼間、蔵に行ったんです。掃除の手伝いで……」
ぽつりぽつりと語り出す。
蔵の奥に、古い鬼の絵があること。
誰も触れていないのに、掛軸が表を向いていたこと。
そして、絵の中の鬼と視線が合った気がしたこと――。
話を聞き終えたイチさまは、表情を引き締め、静かに頷いた。
「……それは、かつてこの家の先祖と我らが封じた鬼の片鱗よ。わずかとはいえ、絵に力が残っておるのじゃ」
「鬼……? 本当に、あの絵が……?」
「年月が経ち、封印が綻び始めておるのかもしれぬ。おぬしが見たという『絵がこちらを向いた』という現象も、あるいは――鬼の目覚めの兆しかもしれん」
紫乃は思わず身を震わせた。
(見間違いではなかったの……?)
ふと、気になっていたことを口にする。
「……でも、あのとき、ほかの女中たちは気づいていなかったようなんです。鬼の絵が動いたことにも、視線にも」
「それは、おぬしに巫女の資質があるからじゃ」
イチさまの声が、少しだけ和らぐ。
「この東堂も、糸世も、古くは我ら神と共に鬼を討つ役目を担っておった。そして糸世の巫女は、その中でもとりわけ強き力を持っていたのよ。……今では、その血も記憶も、薄れてきておるがな」
「……そんな力が、わたしに……?」
「いかにも。我もかつては力があったのだが、長い時の中で忘れ去られてしまっていた。神棚もほれ、このとおり、埃をかぶっておったろう。おぬしが真心で手入れしてくれたおかげで、少しずつ力を取り戻せたのじゃ」
「……お水しか供えていなかったのですが……」
「ふふ、そんなことは些事よ。おぬしの心は、しっかり伝わっておる。紫乃、おぬしは知らぬうちに巫女の力で、我に力を与えてくれた。夫婦の盃を交わしてからは、なおさらじゃ」
「イチさま……」
「安心せい。妻を危険に晒すようなこと――夫として断じてさせぬ。鬼のことは、我に任せておけ」
その言葉に、紫乃の胸の奥が、ふっとあたたかくなる。
それは炎というより、湯気のようなやわらかさをもって、心にしみこんでくる。
「……はい」
その夜――。
女中部屋の布団に潜り込んだ紫乃は、不思議な夢を見た。
白い霧の中に、誰かが立っている。
その人は、やわらかな声で紫乃の名を呼んだ。
「……紫乃、小槌を……。忘れてはなりません、小槌を……」
それは、亡くなった母の声だった。
声はゆるやかに空気に溶け、遠ざかっていく。
その手に、金色の小さな小槌が握られていた。
母を追いかけるように紫乃が手を伸ばした瞬間――
ぱちん、と何かが弾ける音がして、夢は終わった。
「……母さま……?」
目を開けたとき、紫乃はあの蔵で拾った壊れた御守りのことを思い出した。
(……そうだ、イチさまに言い忘れた。あれ、繕っておかないと……)
「あれ……?」
寝間着姿から着替えようとしたとき、紫乃ははっとした。
着物と帯は枕元にきちんと畳まれている。
そこに置いておいたはずの、壊れた守り袋が――見当たらない。
女中部屋は相部屋で、昨日、御守りを「ちょろまかそう」としたあの女中も同じ部屋で眠っていた。
「まさか……?」
隣の布団にいた別の女中に訊ねると、「ああ、あの子なら今日も蔵の掃除に行くってよ」との答えが返ってくる。
胸の奥に、じんわりと広がる不安。
紫乃は思わず立ち上がり、蔵へと足を向けた。
――※――
蔵の周りは午前中だというのにどこか薄暗く、ほかに人もいない。
分厚い扉の前に立ったとき、紫乃の胸にふと焦りが沸き起こった。
(……イチさまに、何も言ってこなかったわ)
たった一人でここまで来てしまったことに気づき、引き返そうと足を半歩下げた――そのとき。
中から、耳をつんざくような女の悲鳴が上がった。
「やっ、やめてよぉ、離し……!ぎゃあああぁ!!」
思わず駆け寄る。
蔵の扉に手をかけ、ためらう間もなく押し開けた。
ぎぃ……と重い音が響き、目の前に現れたのは――
「ひっ……!」
薄闇のなかで蠢く、異形の腕。
それは蔵の奥の掛け軸から、ねっとりと這い出すように現れ、件の女中の髪を鷲掴みにしていた。
「ひぃぃ! あんた! 助けとくれ!」
髪を振り乱し、女中が紫乃にすがるように叫ぶ。
「出来心だったんだよ! 本当に、ただ金目の物がないかって……そしたら、ほっ本物の、鬼が……! ひぃぃ!」
ずるり、と。
絵から抜け出す鬼の身体は、もう半分以上がこちら側に出てきていた。
紫乃の背筋が凍りついた。
だが迷ってはいられない。
「っ……!」
必死に駆け寄り、女中の髪をつかんだ鬼の手を引き剥がす。
――そのとき。
するり。
まるで順番を待っていたかのように、鬼は紫乃の腕を捕らえた。
「ひっ、い、いやっ! 離してっ!!」
「ありがとよっ!」
――え?
懸命に鬼の手を振り払おうとする紫乃の目に映ったのは――
あろうことか、逃げ出す女中の背。
「ちょっと、待ってください! あの……!」
「人を呼ぶくらいはしてやるから! じゃあな!」
素早く走り去る女中の懐から、ぽとりと鈴のついた守り袋が落ちた。
けれど紫乃は拾えなかった。
「あっ、うう……!」
鬼の手は紫乃の腕を絞るように締めつけ、身動きを封じる。
「これはこれは……糸世の血族ではないか」
ねっとりと濁った声が、耳元で聞こえてきた。
「久しいのう……よもや、こんな上玉が現れようとは……!」
恐るおそる振り返ると、そこに現れた顔は見るもおぞましかった。
爛れた肌、光る牙、血のように赤い瞳。
その口元から、舌が紫乃の頬へとちろちろと伸びてきていた。
「さぁさ、泣けぇ……もっと泣いて、恐れおののけ! その魂の旨味、骨の髄まで味わってくれようぞ!」
「やだっ、やっ……誰か……!!」
「くくっ、死ねぇ!」
鬼が大きな口を開いた。




