古い蔵
イチさまと出会ってからというもの、紫乃の日常には目に見える変化が表れはじめた。
炊事場に立てば、竈に自然と火が入り、しかも料理に合わせて火加減までぴたりと決まる。
洗い場では、手が切れるほど冷たかった水が、紫乃のときだけは、ほどよく温い。
掃除をすれば、埃が風に乗って自らひとところへまとまり、少し力を入れるだけで、箒が軽やかに動く。
さらに不思議だったのは、女中仲間が紫乃の名を呼ぶようになったことだった。
「そこの……、じゃなくて、紫乃。今日はもう上がっていいよ」
「ほら紫乃。膳が一つ余ったから、持っていきな」
そんな言葉をかけられる日が続くようになり、紫乃は余った膳を抱えて、神棚へと向かうのが日課となった。
「なんだか、不思議な感じです……」
紫乃は膝の上にちょこんと座るイチさまに、ぽつりと呟いた。
「なにがじゃ?」
「えっと……その、こんなに幸運ばかり続いていいのかと思ってしまって……」
「ふふん。我の加護を少しは感じておるようじゃの。なぁに、妻を幸せにするのは夫の務め。だが、まだまだこんなものではないぞ」
イチさまは尊大な笑顔を浮かべながら、煮物を頬張る。
「……あの、イチさま。本当にわたしなどと結婚して、よろしいのですか?」
「なんじゃ。夫婦生活が嫌になったのか?」
「まっ、まさか! 滅相もございません!」
紫乃は慌ててかぶりを振る。
「小さい男は嫌か?」
「そ、そんなこと……ございません」
「こんなに小さくては、夫婦の営みも満足にしてやれぬが……」
「……? いつも、してくださっているではないですか。こうして『あーん』をするのが夫婦だと教えてくださいました」
紫乃は箸で米を数粒摘むと、そっとイチさまの口元に運ぶ。
「はい、あーん」
イチさまは「まあ、よいか」と満足そうに頷き、米をくんと噛み締めた。
その仕草を見て、紫乃はふふっと笑みをこぼす。
小さなイチさまがご飯を食べている姿はどこか人形のお芝居のようで、けれどそこには確かな命があり、温もりがあった。
紫乃の胸の奥で、あたたかい何かがぽっと灯る。
まるで、自分がようやく居場所を見つけたような、そんな感覚だった。
――そんな穏やかな日々が続いたある日。
紫乃は、奥さまから「蔵の掃除をしておきなさい」と言いつけられた。
それは、普段は誰も近寄りたがらない、古びた蔵だった。
――※――
古い蔵に、誰も近づきたがらないのには理由があった。
それは――蔵の奥に、鬼の絵が掛かっているからだ。
紫乃はまだその絵を見たことはない。
だが、奉公人の間では昔から「見たら祟られる」と噂されていた。
不気味で薄暗い蔵に、女中仲間たちと足を踏み入れる。
土間の空気はじめついていて、外の陽差しが嘘のように遠い。
「……ほら、あれじゃないか?」
奥に吊された大きな掛軸が、薄明かりの中にぼんやり浮かび上がっていた。
絵が見えぬようにだろうか。
掛軸は裏返されている。
紫乃はごくりと喉を鳴らす。
――絵は見えないのに、こちらをじっと伺われているような気がした。
それでも掃除はしなければならない。
それぞれが手分けして作業を始めると、紫乃は棚の隅でひとつの袋を見つけた。
――鈴のついた、赤い守り袋。
ちりん。
誰も触れていないのに、小さな鈴の音がした。
「……?」
不思議な気配に紫乃が手を伸ばしかけたそのとき――
「へぇ、これ可愛いじゃん。どーせ誰も使ってねえんだし、ちょろまかしちまお」
背後から伸びた女中の手が、守り袋をひったくる。
口元を歪めたその顔は、普段の彼女よりもずっと意地悪に見えた。
「え……それは、駄目です。そこに置いておかないと……」
どうしてか、紫乃はそう口走っていた。
「なんだい、良い子ぶっちゃってさ」
女中が守り袋を握ったその瞬間――
ぱちん、と小さな光が弾けた。
「痛っ……!? なんだいこれ、静電気かよ……っ!」
女中は手を引っこめ、顔をしかめたかと思うと、
「気味悪っ……こんなの、いるかっ!あんたが持ってな!」と叫んで、袋を床に叩きつけた。
そのまま踵を返して蔵を飛び出していく。
紫乃が恐る恐る近づいて拾い上げると、袋の糸がほつれ、鈴が取れてしまっていた。
中から小さな白い紙片がのぞいている。
「……あらら、今ので取れちまったみたいだね。紫乃、奥さまに見つかる前に繕っておきな」
別の女中が肩をすくめて言った。
「……はい」
紫乃がうなずいて顔を上げた、そのときだった。
――掛軸が、裏返しになっていたはずのそれが。
表を向いている。
視線の先、薄闇のなかで、鬼の絵と目が合った。
その目はぎらりと光り、唇は笑っているように見えた。
「…………っ!」
「紫乃、どうしたんだい?」
「え、絵が……」
「ああ、あの鬼の絵かい?不気味だよね。でもほら、裏返してあるし。そんなに怖がらなくても平気さ」
えっと驚いて、もう一度確かめるように掛軸を見れば――それは確かに、裏返しのままだった。
(……幻覚? 怖がりすぎたのかな……)
胸の鼓動を抑えるように、紫乃は袋をぎゅっと握りしめた。
どこかで――風もないのに、鈴が、ちりんと鳴った気がした。
その音は、紫乃の耳にいつまでも残った。




