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はじまり

「おい、そこの。玄関が汚れているじゃないか。掃除しておけ」


「かしこまりました、若頭」


「ねえ、ちょっと、そこの? お茶がぬるいわ。淹れ直しなさいな」


「かしこまりました、奥さま」


「そこの! 早くしろ、ぐずぐずするな!」


「かしこまりました」


『そこの』――女中。

『そこの』――誰か。


この屋敷では、誰も紫乃しのの名を呼ばない。


ただひたすら、空気のようにそこにあれ。


家人が用事があるときだけ、口を開いて良い。


その場に『居る』けれども、人として存在しているわけではない。


栗色の髪を引っ詰めに結い、継ぎの当たった粗末な小袖をまとった少女。


それが、紫乃だ。


十六の春を迎えたばかりの、東堂家の奉公人である。


生まれは東堂の分家筋にあたる糸世いとせの家。


だが、父も母も早くに世を去り、十歳の頃には厄介払いのように本家へ奉公に出された。


以来、生家の敷居はまたいでいない。


年嵩の女中たちからは「分家の娘なら東堂家の身内のくせに、なぜ奉公人に交じっているのかと」と疎まれる。


しかし、家人たちからは、身内として扱ってもらったことは一切ない。


屋敷の隅に潜むように、息をひそめて過ごすことが、紫乃の日常のすべてだった。


紫乃はよく働いた。


掃除、洗い場、炊事、お茶汲み。


ただ手だけを動かし、黙々と。


手や着物が汚れることも、数えきれないほど。


怒鳴られることも、慣れていた。


ときには叩かれる。


足蹴にされる。


だが、それでも泣きもせず、不平も言わず、ただ黙って頭を下げる。


そんな紫乃にとって、唯一の逃げ場所があった。


女中部屋のいちばん奥――誰も近づかぬ、古びた物置である。


その片隅には、小さな神棚が置かれていた。


本来ならば人の頭より上にあるべき神棚は、打ち捨てられ床に置かれていた。


煤けた木の棚の中には、古びた御札と、褪せた榊の葉。


誰も来ることのないその場所で、紫乃だけが水を供え、埃を払い、手を合わせていた。


辛いことがあったあとは、旦那さまや奥さまにお茶を出したあとの出涸らしを使って、神棚のそばで茶を淹れる。


不思議なことに、どこからか、紫乃を見守ってくれているような誰かの気配がするのだ。


……紫乃はそれを神棚のどこかにいるかもしれない『神さま』だと、勝手に思っていた。


その時間だけが、紫乃にとって安らげる一時だったから。


――※――


その夜は、いつにも増してひどかった。


屋敷では客人を招いた宴が催され、紫乃も給仕に駆け回っていた。


膳を出す手が、ほんの少し遅れた。


それだけで、若頭の怒りを買い、腹を蹴られた。


息が詰まり、咳き込んで膝を折りかけた紫乃を、誰も助けはしない。


這うようにして膳を下げながら、ふと、空になりかけた徳利とっくりが目に留まった。


――若頭も、女中たちも、今はいない。


紫乃は迷いなく、中の酒を古い急須に移し替え、黙って仕事を終えた。


――※――


深夜、ようやく女中部屋に戻れた頃には、すでに時は丑三つを過ぎていた。


痛む腹にそっと手を添えながら、紫乃は物置に向かう。


手燭もなく、明かり取りの小窓から差し込む月明かりだけが頼りだ。


薄闇の中で、神棚の前に座る。


杯に酒を注ぎ、息を吐くと、手を合わせた。


「……明日は、蹴られませんように。蹴られるとしても、せめてお腹じゃなくて……もう少し痛くないところにしてください」


ごく小さい声でそう呟いたときだった。


どこからか、囁きが聞こえてきた。


(――やっと、夫婦の盃を交わせるのう)


「……えっ?」


空耳、だろうか。


穏やかな男の声が、耳の奥に落ちてきた。


あたりを見回すが、もちろん誰もいない。


「……疲れてるんだわ……」


紫乃は自分の湯呑みに水を注ぎ、一口含んだ。


――だが、舌に触れたそれは、水ではなかった。


どこか甘く、ぴりりと辛い。


まるで、冷たい酒のような味。


思わず小さく咳き込んだ。


「コホッ!……っ、これ……? まさか……お酒……?」


驚いて杯を見つめる。


たしかに、水を入れたはずだった。


なのに、なんだか頭がふわふわしてくる。


「……あれ……? お腹……痛くない……?」


じわじわと身体が温まり、痛みも疲れも、溶けるように消えていく。


次第にまぶたが重くなり、紫乃は思わず神棚を仰いだ。


すると――


杯の陰に、小さな男の影があった。


「……夢……?」


気が抜けたように膝を折り、紫乃はそのまま、眠りに落ちた。


小さな寝息がすぐに聞こえてきた。


その傍らへ、神棚からそっと出てきたのは、背丈一尺ほどの男。


「寝てしもうたか……まあよい。盃は交わされた。契りは、すでに成った」


その言葉は、まだ誰の耳にも届かない。


だが――その夜から、紫乃の運命はひっそりと動きはじめた。

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