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雪の降った野外の舞台を思う

 千葉大学の発掘隊は中世トルクメニスタンの王墓に着いた。

 重機によって地表の土が削り取られ、地下の王墓の入り口が姿を見せていた。我々は王墓の中に入った。

『東洋のモナ・リザ』の壁画は過去のイギリスの発掘隊によって盗掘された後だった。その壁画には貴婦人の人物画だけが刃物で丹念に削られて剥がし盗られた痕跡が残されていた。『東洋のモナ・リザ』は第一次大戦の戦火にあって失われた。

 だがその王墓の底に新たな地下墓が発見されたという。僕はそんな話は聞いたことがなかった。僕は遺跡の王墓の話は全て聞いて(おぼ)えていた。地下墓の下に、新たな墓の空間があるなんて僕は聞いていなかった。

 僕は新たな地下墓への梯子を下りた。真っ暗な空間で何も見えなかった。数百年の間、閉じ込められていた古い時代の匂いがした。あのシルクロードの時代の空気の匂いだ。

 発掘隊のメンバーが懐中電灯をつけた。明かりは地下墓をぐるりと見廻して、それから壁の一点に止まった。

 東洋の美女の姿が描かれていた。トルクメニスタンの民族衣装、コイネックを纏った美女だった。コイネックは長袖のワンピースを思い浮かべればイメージが近い。青い、ラピスラズリの顔料で衣装は描かれていた。化粧の紅色には鉛丹の顔料が使われていた。民族衣装の胸の位置には螺鈿細工のきらめく紋様が入っている。僕はその美女の顔を見た。大人になったルーランだった。ルーランはあの十代の半ばの姿から二十代になって、まるで蝶が羽根を開くように大胆に成長して傾城(けいせい)の美女へと変貌していた。

 ルーラン、綺麗になったなと僕は涙がにじむのを感じた。君の姿はとても眩しいよ、君はガンダーラ産の紅茶が大好きだったな、よく覚えているよ。

 イギリス発掘隊の文献にルーランの生涯が伝えられていた。その不幸だったはずの生涯は変わっていた。壁画の美女は豪商と占い師の娘として育ち、王族に見初められて王妃となって幸せな生涯を送った、と記されていた。美女は人間を見る不思議な力を持っていて政敵をことごとく退けて王妃の位を維持して生きた、と。古い文献は記していた。その美女の姿はまさに『東洋のモナ・リザ』と呼ばれるに相応しい、と。王の石棺が据えられていて、その傍に副葬品の大きな壺があった。壺には植物の種が一杯に詰められていた。何の種だろう? と発掘隊のメンバーが言った。

「これはコカの種です」僕は言った。「このアシガバートの地でコカの種をこれだけ手に入れるのは王妃といっても苦労したことでしょう」

 僕が不安障害を発してコカの葉をいつも噛んでいたのをルーランは覚えていた。ルーランは養父の僕を心配してだろう、コカの種を大量に残してくれていた。

 地下の王墓から梯子(はしご)を使って地上に出る。外では小鳥たちが鳴いていた。胸に緑色の模様のある小鳥だった。小鳥のたちの鳴き声は遠い歴史を超えて継がれて来た大自然の存在を僕に感じさせた。多くの王朝が滅び、共産主義国の支配が終わっても、大自然は鳥たちを生み出して平和な鳴き声を伝え続けて来た。そして王墓の『東洋のモナ・リザ』を見守り続けて来た。

 我々はアシガバートの中心街に戻った。そしてバーで祝いの酒を酌み合した。「新聞の見出しは決まりだな、『東洋のモナ・リザ』発見される! だ」発掘隊は喜びの酒に酔い痴れている。

 僕は隣のテーブルで酒を飲んでいる女性客に気づいた。日本人に興味があるのだろう。時々、我々のテーブルに視線を向けて来る。三十代のトルクメン女性だった。

 僕は無意識視を使った。イメージとして伝わったのは僕の顔だった。白い礼服を着た僕と一緒に婚礼を挙げるその女性の姿だった。僕はその女性を見つめ、視線が合うや「こんにちは、あなたはイスラム教徒ですか」とトルクメン語で聞いた。「いえ、私はキリスト教徒です」と女性は返してくれた。

 僕の母親はすでに死んでいた。僕もいつまでも女性恐怖症を引きずっているわけにはいかない。実際に、ルーランと暮らした五年の間に僕の女性恐怖症は治っていた。

 僕はトルクメン女性に向けて言った。

「我々のテーブルで一緒に飲みませんか。もしも僕らと運命の糸が繋がっているのなら」

 邂逅(かいこう)とは――。邂逅は雪の降り積もった野外の舞台を僕に思わせた。僕は想像する。中世トルクメニスタンの、石で造られた野外ステージに雪が……。いや、もう運命を前に僕は想像する必要はない。運命は想像するためにあるのではない。運命はこの手に掴むために在る――。

 隣のテーブルの女性はやわらかな笑みを浮かべた。

 それが後の僕の妻との出会いとなった。ルーランが最後に言った気がした。お父さん、私も大人になったし、そろそろ結婚してもいいよと。

 僕は少し淋しく笑った。

 ルーラン、愛する僕の娘よ。後世に壁画を遺してくれてありがとう。王墓に来る度にいつでも君を思い出すだろう。僕らの『お漬物屋ルーラン』を憶えているか? 僕はあの惣菜屋で頼りなく始められた僕らの人生を今でもはっきりと思い出せる……。

 ルーラン、心を安んじて眠りなさい。君はたくましい王という夫を持ち、生涯を生き抜いた。そして王墓の壁画にあって今も生きている。君の澄んだ目は王妃のまなざしとして現代の人間たちを見つめている。

 ルーラン、僕のことを父親として少しでも愛してくれていたか? もしそうだったとしたら僕の人生はどれだけ救われ、どれだけ心慰められることか……。

 最後に一言だけ言わせてほしい。ルーラン、いいお母さんを作ってやれなくてすまなかった。お父さんは一人娘を、『東洋のモナ・リザ』をいつまでも愛している――。

                            ≪了≫


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