第八話 お兄様と一緒
宣言通り、兄は私の記憶喪失を治そうと、あれから時間を捻出しては連れ出した。
おじさんとおばさんにも改めて非礼を詫び、きちんと保護者の許可も得ているようだ。
あの兄らしからぬ丁寧さに驚かされはしたが、前世ではやりたくても出来なかった兄との交流が今こうして叶っているのは、やっぱり素直に嬉しい。
兄は本当に前世での振る舞いを悔いているようで、わざわざ屋敷の使用人たちに聞き取りをして、私が好きだった場所やものをリストアップしてきていた。
馬に乗って屋敷の敷地内を散歩すれば「この馬とお前は友人だったそうだが、覚えているか?」と訊き。
道具を引っ張り出してきて庭でテニスをやったときは、せっかくラリーが続いていたのにはたと動きを止め、「お前はひとりで壁打ちばかりしていたらしいから、私と遊ぶより壁に向かってやってみたほうがなにか思い出せるかもしれないぞ」と言い出して私と喧嘩になり。
私の幼い頃の宝物箱を探し出してくるなり鍵を力任せに破壊し、その中身や日記から手がかりを集めようとする姿にはドン引きした。
目の前で頑丈な箱がバガンとすごい音をたてて壊されたのは衝撃的だったし、兄の話題と似顔絵だらけの日記を本人に真剣に読みあさられるのも地獄の苦しみだった。「悶絶するほど恥ずかしがるということはなにか思い出したのでは」と期待を込めた目で見られ、私は必死でぶんぶんと首を横に振った。
ただ、兄は幼い頃の私の容姿を知っている貴族などの前には決して私を連れ出そうとしなかった。
基本的にはブラッドフォードの敷地内で完結できる遊びを選んできているようだ。
この日の兄はというと、なんと丸一日休みをもぎ取ってきたらしい。
午前中は屋敷のキッチンで私のカップケーキ作りに付き合い、その有り余る握力でクリームを暴発させていた。
仏頂面で腕まくりをし、頬にクリームをつけている兄というのは心底現実味のない光景だったが、その感覚もだんだん麻痺してきていた。
現実味がないというのなら、私と一緒に馬に乗ってくれる兄とか、テニスの相手をしてくれる兄とか、私が怒っても切って捨てずに対話しようとする兄とか、私の昔の日記を読みふけって唇を噛みしめている兄とか、なにもかもがそうだったし。
兄がデコレーションを担当した数個の見た目はともかく、カップケーキは私のレシピ通りの味で、中に入れたブルーベリージャムの酸味とクリームの甘みが完璧なバランスだ。
私は美味しい美味しいとぱくぱく食べ進め、屋敷の使用人たちにもウキウキで配り歩いてから、着替えてきた兄と一緒にバルコニーで残りをまたぱくついていた。
ちょっと人心地ついてから、私は向かいに座る兄の顔色をうかがう。
「えっと、おいしくできましたね、閣下」
「あぁ」
兄は顎を引くようにしてうなずいた。ちゃんと返事があることにも、私が作ったカップケーキを食べてくれていることにもいまだに新鮮な驚きがある。
「閣下は、今日まで料理とかしたことなかったんですよね」
「あぁ」
「私、作ってるとき閣下にあれしてこれしてって言っちゃったと思うんですけど、あの、ムカついてませんか」
「そんなことで腹を立てたりしない」
「……怒ってるみたいに見えたので……」
兄が心外そうに私を見た。
「想像以上に下手だった自分に怒っていただけだ」
「……さ、最初はみんなあんな感じですから」
私は笑ってお茶を濁し、いまだに信じられない気分で訊いた。
「……あのー閣下、無理とかしてないですか? 本当にここまで私に付き合ってくださらなくても……」
兄の忙しさは重々知っている。
今の幼い身体に心が引っ張られているのもあって、なんやかんやで前世で経験できなかった兄との思い出を一個一個作っていくのは私は楽しかったけれど、兄からすれば負担でしかないのではないか。
肝心の私には一向に記憶を取り戻す素振りもないし、そろそろ嫌気が差してきてこの計画自体を考え直したくなるかもしれない。いや、考え直してくれたほうが私は助かるのだけど。
兄は紅茶を口にした後、涼しい顔で言う。
「そんなことは考えなくていい。どうしてお前のほうが私に気を遣うんだ」
「でも私、最初からずっと閣下のご希望には沿えていませんから……」
「お前は私の部下でも側仕えでもないのだからそれが当然だ。記憶のことも、思い出させたがっているのは私のほうで、お前が気に病むことではない。……お前こそ……」
兄はそこで唇を湿し、低い声で続ける。
「思い出す思い出さないとは別として、そもそもの話、私といてもつまらんだろう」
「え」
私はびっくりして食べかけのカップケーキを落としそうになった。
「我ながら、どうしてセシルが私にああまで懐いていたのか理由が分からない。私にとっては仕事以外での人間関係など、ただ忌み嫌われ、恐れられるのが普通なんだ。今のようにモノで釣ろうなど考えもしなかったし、放っておいてもあっちからまとわりついてくるヤツだったからな」
画材やなんやで私を釣ってる自覚はあったのか。
でも、自分から絡みにいっておきながら、相手は自分といてもつまらないだろうなと自信を失ってしまう気持ちは分かる。それこそ、私自身が兄に対して抱えていた気持ちだったから。
それをいま兄が私に対して追体験しているのは少し不思議な気分だ。
ここは、素直に本心を答えなくては。
「……初対面はアレな感じでしたけど、いま私、閣下と遊ぶの楽しいですよ。それに、妹がお兄さんを慕うのに特別な理由が要りますか?」
実際、自分でも幼い頃を振り返って「よくもまぁあそこまですげなくされてめげなかったなぁ」と思っているが、さみしがり屋の私にはたったひとりの兄として生まれた相手を慕わないという選択肢なんかハナからなかったのだ。別に兄の特定のどこかに魅せられたとかではなかった。
すると兄は私の言葉に分かりやすく眉を開いた。
「……そう言われてみれば、そうかもしれん」
「はい」
「なにか思い出したりは?」
「そ、それはないんですけど……」
「いや、申し訳なく思わなくていい。午後はなにをしたい?」
私はちょっと悩んで、真っ先に思いついたものを答えた。
「じゃあ、かくれんぼがしたいです」
「どこに隠れようかな~」
というわけで、午後は使用人たちも巻き込んで屋敷全域を舞台にかくれんぼをすることになった。
前世では使用人たちとだけしかできなかった遊びに、あの兄が参戦しているなんて夢みたいだ。
しかも鬼役。
私は張り切って隠れ場所を吟味した。
今世、平民の友達とのかくれんぼで経験値を蓄積した私にかかれば兄を翻弄することも不可能じゃない。きっと。たぶん。
遠くから兄が「いーち」「にーい」と大真面目に大声でカウントする声が聞こえてくる。日常生活における兄の大声自体かなりレアだ。自分に音声を保存する技術がないことをちょっと恨んだ。
「……よし、ここにしよ!」
色々と見て回った末、私は下ではなく上に隠れることにした。
兄は優秀な人だがかくれんぼは初心者だ。視線が自然と向く方向は探しても上を見るのを忘れるという、初心者が陥りがちな落とし穴にはまる可能性はある。
身軽さを活かして屋根にのぼり、尖塔の影にしゃがんで隠れる。
ここなら兄からも充分距離を取れているし、小さい身体と高さが幸いして遠くからでは見つけられづらいだろう。
しばらくして、律儀に庭の木に両手を突き、数字をカウントしていた兄が動き出した。 ふふ、これは勝ったかも。
私は膝を抱えながらくふくふ笑い、気配までも殺せるように目を閉じた。
かくれんぼを提案したのは、前世での兄との思い出がふとよぎったからだった。
幼かった私はある日、兄に「わたしとかくれんぼしよ! 隠れていいのはお庭だけね!」とねだった。
当然兄は「うるさい」とにべもなく切って捨て、私にはなにも言わずに、急用のため父と一緒に出掛けていってしまった。
私はなにも知らず、カウントを終えるなり広い庭園を探し回った。
まだ少年だろうと容姿もオーラも圧倒的な存在感の兄だ、すぐに見つけられるだろうと思ったのに、夕暮れまで庭を探索していても一向に兄の姿を見つけられず、私はついに泣き出した。
庭師がそれを聞きつけてきて、兄が出掛けていることを教えてくれるまで、それはもう絶望的な気持ちだった。
いかに前世の兄と私の関係が一方通行なものだったのかがよく分かる思い出だ。
あのとき、私は幼心に兄はいつでも自分を置いて行けてしまうのだと思った。
現実には置いていかれるどころか、持参金だけ持たされて縁もゆかりもなかったキーランのところへ追い出されたわけだけれど。
「……、はっ?」
あれ? 時間が飛んでる?
私ははっとして周りを見回した。
あんまり見つからないので、いつの間にかうたたねしてしまっていたのか。
気づけば太陽が傾く時間帯になっていた。
下の方から使用人たちが「セシル様、どこですか~!?」と私を捜し回っている声が聞こえてくる。最後まで見つからなかったのは私だけのようだ。
勝つつもりではあっても心配をかけるつもりはなかったから、私は慌てて立ち上がり、屋根の縁から身を乗り出してひとまず「ここにいます」と返事をしようとした、のだが。
「こ、ここでーす! 屋根のう、ぇっ!?」
手を振った勢いで足が滑った。
変な悲鳴をあげきることもできず、小さな身体が浮遊感に包まれる。
あ、や、やばい、こんなのでまた死――――
「セシル!!!!」
このまま地面にぶつかるものだと思ったときだった。
馴染みのある魔力に下からぶつかられたかと思うと、ガッと力強い腕に身体を受け止められた。
恐怖と衝撃に息が詰まる。
ど、どこも痛くない。
ぐちゃってなってない、と遅れて気がついて呆然と視線を上げると、髪を振り乱し歯を食いしばっている兄の美貌があった。
彼は荒い息をして、真っ先にこう言った。
「っ、け、怪我は!?」
「けが、……だ、だいじょうぶです!」
一瞬なにを言われたのか分からなかったけれど、脳みそをフル回転させてどうにか返事をした。
落ちた私を兄が助けてくれたということは分かったから。
見たことがないほど動転していた兄は、それでようやくほっと息をつき、「二度とこんな危ない真似はするな……!」とまるで自分が怪我をしているような悲痛さで言った。
九死に一生で安堵する暇もなく、私は驚きのあまり固まった。
「……この時間になるまで探したのに見つからないと思っていたら、屋根の上なんかにいたのか……どんな度胸をしてるんだ、お前は」
「……」
――――こんな時間になるまで、探しててくれたんだ。
私は自分が無意識に兄の肩のあたりを掴んでいることに気がついた。布地が皺になってしまっているのに、兄にはそれを振り払う素振りもない。
兄が私のことを心配してくれている。
迷惑を掛けた申し訳なさを押しのけてしまいそうなくらい、じわじわと胸に感動と嬉しさが広がっていく。
「あの、おにっ、……」
呼びかけようとして、すんでのところで致命的な間違いをしかけたことに気づいて片手で口を覆った。まずい、嬉しすぎて気が緩んでた。
「か、閣下、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。助けてくださってありがとうございます。痛かったですよね、もう大丈夫ですので……」
言いながら慌てて下りようとするが、兄の手は抱えたままの姿勢で私を拘束して離さない。
えっと焦る私の顔を、兄が一転ぬっと影を背負って覗き込んできてめちゃくちゃ怖かった。
「えーと、閣下……?」
「『おにいさま』」
兄が重々しく訂正してくる。あっ……やっぱり聞き逃してくれなかった……。
「……さっき、とっさに『お兄様』と呼びかけていたが?」
「そ、そうでしたか? 自分では分からなかっ、」
「無意識の行動でそれが出るなら、記憶のほうも戻っていないのか? ひとつでも思い出したことは? 落ちた衝撃で何かしら転がり出てきてもおかしくないだろう」
私はくじ引きマシーンか?
と引っかかりはしても、とてもじゃないが言い返せる空気ではなかった。とにかく兄の剣幕がすさまじい。
兄から発せられる彼のイメージにそぐわないド級の重力に、私は完全に怖じ気づいていた。
助けてもらった嬉しさに絆されかけて、正直このまま記憶がないふりをしていていいものか迷いそうになっていたけれど、やっぱり考え無しに情に流されたら色々終わりかねないぞ、コレは。
うっかり記憶がありますと白状した日には、セシル・ターナーの人生の邪魔はしないという約束なんか問答無用でなかったことにされて、気づいたら屋敷に監禁されてもおかしくないような勢いじゃないか。
ダメだ、記憶喪失継続! 継続です! まだ様子見が必要です!
私は曖昧に笑い、引き続き兄の膝から下りようと努力だけは続けた。成果はあがらなかったけれど。
「いやその、そううまくはいかないというか……やっぱり思い出せてないんですけども……」
「分かった、それなら呼び方だけでも変えろ。今のを見る限り、真似ごとから始めることで記憶を取り戻す呼び水になるかもしれん」
「えっ」
「私のことは以後お兄様と呼べ」
「……え、それはちょっと……」
「お兄様と呼べ。」
「……………………はい……」
あ……圧が……圧がすごい……。
記憶喪失のことはバレずに済んだものの、この日以降、結局私は兄を「お兄様」と呼ぶことになってしまったのだった。