第四話 兄からは逃げられない
ある晩のこと、宿の二階の廊下を掃除していると、モリーおばさんが急ぎ足でやってきた。
「セシル、もう掃除はいいよ。しばらく自分の部屋から出ないようにね」
「? なにかあったの?」
モリーおばさんは険しい顔で、
「……今さっきね、ちょっとばかし妙な客が来たんだ。怪我をしてる風なのに厚着して隠してるし、医者を呼んでくれとも言わない。眼鏡も顔を隠すためにつけてるだけの伊達みたいだ。それに……」
おばさんは握りしめていた紙をぴらりと私に見せる。
目がつり上がった、残忍そうな壮年の男の人相書きだ。スパイ容疑で手配されていると書いてある。
「この人相書きに似てる気がしたんだよ。少し様子を見て、まずそうなら通報しなくちゃならない。危ないから、念のためセシルは隠れておいで」
指名手配犯!?
思いがけない事態に、私は血の気を引かせておばさんの腕を掴んだ。
「なにそれ、今すぐ通報しようよ! もし本当に指名手配犯ならおばさんたちだって危ないわ!」
おばさんたちの身になにかあったらと思うとぞっとする。
今晩泊まっているお客さんたちの安全も確保しないといけないし、思い過ごしの可能性があっても通報するべきだと私は訴えた。
しかしおばさんは明るく笑い、
「まだ似てる『気がした』って段階さ、宿屋をやっているとこういうこともあるのよ! 大丈夫、たいていは何事も起きない。向こうさんだって逃げ隠れてるわけだから、騒ぎになって目立ちたくないからね」
「でもっ!」
「いいから、慣れてるおばさんたちに任せときな」
にかっと笑ったモリーおばさんは私を強引に部屋へ行かせ、「本当に心配いらないから」と念押しして一階へ戻っていってしまった。
「……ど、どうしよう……」
でも、当然私のほうは心配せずにはいられない。
もし万が一モリーおばさんたちが傷つけられたりしたらショックで心停止する自信がある。
やっと手に入れたあたたかい家族を、こんなことで失いたくもない。
部屋をうろうろ歩き回り、椅子に座ってみても落ち着かず、ベッドに腰掛けても不安が消えない。
聞き耳を立ててみるが、二階じゃ物音はよく聞こえない。
……やっぱりこっそり様子を見に行ってみよう。バレなきゃ平気よ。
気になってしょうがないので、結局はそういう結論になる。
そーっとドアを押し開けた、そのときだった。
階下からガシャーンと派手に破壊音が轟き、次いで複数の激しい靴音。
「……!!」
「――――動くな!! 動けば殺す!!」
「おばさん、おじさんっ!! ……!?」
一階に突撃した私は、目の前の光景を認識したとたんにびくりと硬直した。
危惧していたような悲劇は、とりあえず現実になってはいなかった。でも……。
制服に身を包み、剣を抜いた部下たちの真ん中に立っている輝かんばかりの美男子、あ、あれは……!!
お、お、お、お兄様!!?
相変わらずお元気そう……じゃなくって!!
案の定指名手配犯その人だったらしい男の首を片手で締め上げ、その長身でもって床から足が浮くほど完璧にKOしているのは、ハンター・ブラッドフォード、だった。
凍り付いている私の視線に気づき、ゆっくりと兄がこちらを振り返る。
取るに足らない小動物を鬱陶しげに見るときの肉食獣のような紫の目が……私の姿を捉えて、すっと眇められる。
「…………お前……?」
「……あ、……」
あぁああぁあああっっ、あんの××精霊ぃいい……!!
こうなるのを見越して私の身体を前世と同じ容姿にしたわね!?
すでに十歳の私の身体を五年後に爆誕させたように、精霊の前では時間の流れなんかないのと同じだ。
面白いものを見せてもらったお礼って、私から見た未来の出来事まで含んでいたんだ!!
「……」
お兄様が眇めていた目を徐々に見開き、片手だけで締め落とした哀れな男をその場に放り出してふらりとこちらに足を向ける。ここへはその男を追ってきたはずだろうに、どうでもいいものみたいな扱い方だった。
私はびくっと肩を跳ねさせ、後ずさった。
下りてきたばかりの階段の一番下の段がかかとに当たった。
仕事中の兄の姿を間近で見たことなんかなかったから、圧倒的な暴力を前にしてただ怖かったというのもある。
でも、一番の恐怖は。
お兄様にバレたくない、バレるわけにはいかない。
バレたほうが精霊的に「面白い」展開なはずだからだ。
そうなったら最後、精霊が「面白い」と思うような未来がやってくる!
――――おじさんとおばさんと暮らす幸せな未来が、失われてしまう!!
「~~~~っっ、こ、怖いよぉ……!! おじさん、おばさぁぁん……!!」
「!?」
私は持てる全ての力を動員して本気で泣き始めた。
兄(に正体がバレることで破滅の未来パート2が訪れること)を怖がって泣いたのは、前世と合わせてもこれが初めてだった。
壁際で安全な姿勢を取っていたおじさんとおばさんが、「セシル!」と慌てて駆け寄ってきて慰め、私を兄の視界から覆い隠してくれた。
……名前まで前世と同じだと、兄に知られてしまったのはめちゃくちゃ痛いけど……。
私が目が合うなり号泣し始めたので、柄にもなく面食らっていた兄は、「……チッ」と舌打ちをして部下を振り返る。
「その男を連行しろ」
冷たい声音で命じた兄は、「はっ」と敬礼してすぐさま仕事に取りかかる部下たちを一瞥し、それから去り際にまた私のほうに視線を向けた。
おじさんたちの身体ごしにも、その射るような視線が分かる。
「……破損したものに関してはこちらで補償する。あなたがたにも後日聴取を受けていただくので、そのつもりで」
…………えっそれ私も?
◆
「…………」
「…………」
そして、その「後日」はあっという間にやってきた。
私と兄は、うちの宿屋の一階ロビーにあるテーブルセットで向かい合って座っていた。 空気が死んでいる。
でもそれを気にしているのは、居心地悪いと感じているのは、私だけだろう。
おじさんとおばさんは私より前に聴取を済ませ、すでに業務に戻っている。
最初こそ気に掛けてそばにいてくれたが、嬉しいことに今日もお客さんが入っているので、私のそばに付き添い続けているわけにもいかなくて。
……事情聴取なのに、どうして私の番になったとたん一言も喋らないの?
ていうかどうしてお兄様が直々に?
部下をひとりだけ連れてきてはいるけれど、そっちの人もただ控えているだけでなにも切り出してくれないし……!
兄は腕組みをして、じっと私を見下ろしている。
死んだ妹にそっくりかつ、名前まで一緒の少女となるといくら兄でも引っかかるものがあるのだろう。
だけど、まさか私が精霊の手で生まれ変わっているとは思わないはずだ。
前世の私が死んだときにはもう私は生まれていたことになっているのだから。
あと兄が考えそうな可能性としては、両親の……いや、私と兄はものの見事に母親似だから、私を母の血縁者だと思ったりして。
「……お前、」
「!」
出し抜けに兄が口を開いた。
私は座ったまま飛び上がり、そろそろと下げていた視線をあげる。
それでも兄の目を直視することはできないけれど。
兄は厳しい表情で私を睨み据えたまま、
「お前、セシルという名なのか」
と彼らしくもない問いを投げてきた。
「……は、はい」
私はやっとのことで返事をした。
すでに知っている情報をまた確認するなんて二度手間、常の兄なら絶対にやらない。それだけ私のことを訝しんでいるのだ。
兄の表情がますます険しくなる。
「ターナー夫妻は実の親ではないな?」
やっぱりそうきた。
「……あの、私、孤児で」
「はいかいいえで答えろ」
「は、はい! そうです!」
兄は無駄話が嫌いだ。
前世の私はなんであれ兄からのリアクションを引き出そうとお構いなしに話し続けていたものだが、今はとうてい無理だ。
でも、兄が私の出自を怪しんでくれているなら、単なる母の遠縁の子ということにして結論を着地させられるかもしれない。
「お前、親はどこの誰だ」
「し、知りませんっ」
「血のつながりのある親戚は?」
「いませんっ」
お願いお兄様、誤解して!
視線の圧力だけで私をぺちゃんこに押しつぶしてしまえそうな兄である。
重たい沈黙のあと、震えて縮こまっている私を見つめ、兄はふんと鼻を鳴らした。
かと思うと、かたわらの部下に「パーセル」と呼びかけ、
「ネイサンとモリーを呼んでこい」
「……?」
パーセルという名前らしい部下の青年は、「了解」と答えて去って行き、しばらくして困惑顔のおじさんとおばさんを連れて戻ってきた。
ふたりの聴取はもう終わったのに、いったいなんのつもりだろう。
「閣下、セシルがなにか……?」
おじさんが腰をかがめるようにしておずおずと訊ねる。
兄はすいとその顔を見やり、
「ご主人、このセシルという少女は私の母の血縁者だ。ブラッドフォードで預かる」
「え!?」
「へっ!!?」
予想もしなかった発言に私もおじさんもおばさんも、なんなら兄の部下のパーセルさえもぎょっとした。
だ、だって、あり得ない、あの兄が?
実の妹だって穀潰しだと、養う気はないと言っていたあの兄が!?
母の血縁者を引き取るですって!?
すでに他の家庭で養われているのに、わざわざ引き取る!?
私はなにも知らないふりで、慌てて叫んだ。
「か、閣下、いきなりなにをおっしゃるんですか! 私なんかがっ……」
「『ブラッドフォードの精霊憑き』」
兄は動転しきった私の言葉を遮る。冷酷なまでに傲慢に。
「噂を聞いたことくらいはあるだろう。闇魔法の才と引き換えに、いずれ闇精霊に精神を狂わされるか、あるいは突然死する血筋だ。お前が母の血縁者なら、その呪われた血は引かずに済んでいるだろうが」
「し、知りません! そんなの聞いたことないです!」
「父はそんな呪われたブラッドフォードに嫁がざるを得ず、あげく早死にした母に罪の意識を抱えていた。母とその縁者にはブラッドフォードの名にかけて可能な限りの援助をするようにと遺言まで残していった」
「……」
確かにそうだった。
で、でも、そんな遺言、父に反発していた兄が律儀に守るはずがないのだ。なのにどうして?
こんなに喋る兄は見たことがない。
人が口を滑らかにするのはたいてい強い衝動によってか、興奮しているときだが、兄に限ってそれはないだろう。
「お前を援助してやろうと言っているんだ。感謝の言葉くらい言えないのか」
「いっ、……」
言、え、る、か!!
私は感謝どころかその事態こそを回避しようとしていたのに。
顔面蒼白でおじさんとおばさんを振り仰ごうとしたが、それより早く彼らが動いた。
「せ、セシルが閣下の遠縁なんて言われてもその、突然すぎます!!」
「そのうえ引き取るだなんて!! セシルはうちの子です、家族なんです!!」
「おじさん、おばさん……」
私は涙が出そうなくらい嬉しかったけれど、喜んでいる暇がまったくない。
兄は鬱陶しげにおじさんとおばさんを一瞥した。
「なにか不都合が? ブラッドフォードに来れば遙かにいい暮らしができ、高度な教育も受けられ、平民の宿屋の小娘にはなし得ない成功にも手が届くだろう。あなたがたは仮にも親を標榜しておきながら、この娘の将来と可能性をむざむざ見殺しにするつもりなのか」
「!」
「程度の低い連中だ」
おじさんたちが絶句する。
「来い」
兄はくだらないとばかりに顎をそびやかし、席を立って、立ち尽くしている私の腕に大きな手を伸ばす。
「なにしてる。帰って来い、セシル」
腕を、掴まれるという瞬間。
――――よくもおじさんとおばさんを、傷つけたわね。
「……要りません!!」
私は兄の手をたたき落とし、おじさんたちを庇って兄から距離を取った。
兄に追い出されるも同然で嫁に出されたときだって、こんなに腹は立てなかった。
自分の保身のためだとかじゃない。
正体がバレるバレないに関係なく、さっきの兄のことが許せなかった。
ムカついてムカついて、許せなくて、怒りのあまり涙が出て来る。子どもの身体に精神が引っ張られていると分かっていても、制御できない。
「私はいま幸せです!! 閣下のところになんか行きません!!」
ぼろぼろと涙が落ちる。視界が歪んで景色がおぼろげになる。「セシル」とおじさんとおばさんが嬉しそうに呟くのが聞こえた。
「私のっ、大事な家族を傷つける人のところになんか……!!」
「あー、ちょっとすみません」
唐突に、パーセルが空気を読まない横槍を入れた。
なによ、と濡れた目で睨むと、彼は気まずそうに言う。
「……差し出口かとは思いますが、私からぜひ補足を。こちらの閣下、五年前に妹さんを亡くされてまして。血縁者だからか、彼女とあなたの容姿が瓜二つだったもので、引き取ろうとまで言い出されちゃったんですよね、たぶん」
「そんなのっ、」
だからそれこそあり得ない。
それこそ、私が一番恐れていた可能性だもの。
「……妹に似てる、からって……」
だって。
妹の私のことは追い出したのに、遠縁の子は引き取るの。
……同じ姿かたちで、魔法の才能がない穀潰しなのも同じ。
なのに今まで存在も知らなかった母方の遠縁の子より、お兄様にとって私は価値がなかったの。
――――要するに、嫌いだったの?
「…………」
肩で息をする。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「……妹さんのことも、こんな風に扱ってたんですか」
ひゅっと誰かの喉が鳴った。
兄のほうから聞こえた気がするが、兄が動揺するわけないし気のせいだ。
「……もういい。……そこまで言うなら好きにしろ」
兄が地を這うような声で言い捨てた。
ほらね。
遺言なんて、妹の面影への懐かしさなんて、本心ではどうでもいいんだ。
加えて、実の妹のことはそれ以上にどうでもよかった。
でも私は、お兄様の一番そばにいたつもりだったのよ。ついさっきまでは。
もう涙さえ出ないような惨憺たる話になってしまった。
ごしごしと涙を拭うと、ようやく視界がはっきりした。
兄はうつむいていて顔が見えなかった。
いたくプライドを傷つけられただろうから、今にも人を殺しそうな顔をしているに違いない。
数秒後、兄はふっと顔をあげた。
予想していたような殺人鬼フェイスではなく、真顔だった。
彼は私を見据えて言った。
「だがやはり絶縁は認められん。この家に住み続けるにしても、屋敷へは遊びに来い」
「……え……」
「送迎もこちらで手配する。これが妥協点だ。おとなしく呑むなら、強引に引き取ることはしないでやる」
「……な……」
「いいな?」
「……」
「……」
「……それだけ? 遊びに行くだけでいいんですか? 本当に?」
「あぁ」
「……本当に、ほんっとーに、そう約束していただけるんですか」
「あぁ」
「……………………分かりました」
たっぷり渋った後、私はこくりとうなずいた。
だって仕方ないだろう、一度だってこの兄に勝てた試しがないのだ、私は。兄を言い負かそうだなんて馬鹿なことを試みたら、その間におじさんとおばさんが千回、いや万回は傷つけられる。そんなの絶対に嫌だ。
それに、これ以上兄にストレスをかけてもいけない。
ブラッドフォードの精霊憑きはみんな、闇精霊のおもちゃなのだ。
きっかけを与えられたらどうなるか分からない。最悪の場合、兄でさえも私のように突然死する可能性がある。
私は決して兄に破滅してほしいわけじゃない。
元気でいてくれて良かったと思っているのも、それはそれで事実だから。
ただ私は、もう二度とセシル・ブラッドフォードとしての人生を続けたくないだけなのだ。
私の答えに、兄はそれでいいと言うように視線を外した。
それにしたってまさか「遊びに来い」とは、いったいどういう腹なのか。
ブラッドフォードの屋敷が子どものはしゃぎ声で彩られたことは一度もない。
子どもが遊べるような場所でもなかった。
そもそも兄は子どもが嫌いだ。なにか理由があるはずだ。
突然私を引き取ると言い出したのだって、なにか企んでるに決まっている。
……前世のことはもういいと思い切ったところだったのに、こんなことになるなんて。
その日、兄とパーセルは私がうなずいたことで帰っていった。
「……あぁ、セシル、もうワケが分からないよ」
「私も……」
私は嵐が去ったロビーでおじさんとおばさんと抱き合いながら、泣き疲れただけではない倦怠感に苦しめられた。