第三話 闇精霊からのプレゼント
そして、私はぱちっと目を覚ます。……あれ、目が覚める、の?
記憶が正しければ、私はさっき死んで、真っ暗な闇に意識が吸い込まれたはずだ。
「………………いきてる?」
起き上がった私は呆然と呟いた。
私は清潔なベッドの上にいた。
宿屋の一室のような規模の個室で眠っていたようだ。
ここはどこ?
私は慌ててベッドを下り、部屋の隅にあった姿見の前に立った。
「……ちっちゃくなってる……」
鏡で見た自分の姿は確かに私だったけれど、年齢が十歳前後に巻き戻っていた。
いよいよ私は混乱した。
どうしよう、なんで、と冷や汗をかいて無意味に部屋をぐるぐる歩き回り、はたと気づく。
テーブルの上に一枚の便箋があった。
妙な魔力を放っている。
私はそれに飛びついた。
「せ、精霊文字……!」
便箋に闇の魔力で綴られていたのは、精霊が使う特殊な文字だった。
ということは、これを書きおきしたのは闇精霊だ。
私はえーとえーとと手間取りながらも、文章の意味を読み取る。受けててよかった貴族教育、ってやつだ。
――――やぁ、かわいいかわいい我がブラッドフォードのお嬢さん! 君があそこで死んでくれたおかげで、久々にとびきり面白いものが見られたよ! ささやかながら、そのお礼に新しい肉体をプレゼントしよう。君が生まれ変わったこの時代は、君の死から五年後にあたる。哀れなブラッドフォードの血筋ではない、全く別の人生をぜひ謳歌してくれたまえ!
「……な、なにこれ……?」
私は呆然と手紙から目を戻し、また鏡に映った自分の小さな身体を見た。
「……新しい肉体って、これが? あれから五年も経ってるの……?」
訳が分からない。
面白いものが見られたって、いったいあれからみんなはどうなったの?
闇精霊が「面白い」と表現するということは、ろくなことになっていないんじゃないか?
そう気づくと血の気が引いた。
そのとき、部屋のドアがノックされて、私は飛び上がった。
「おーいセシル、起きてるかい? 朝ご飯だよ!」
……手紙にあった通り、私という存在は闇精霊の手によって完全にゼロから作り上げられてしまったようだ。
私を起こしに来たのは、モリーおばさん。「赤ちゃんの頃に救貧院の前に捨てられていた私を引き取り、セシルと名付けて育ててきた」ことになっている。
モリーおばさんの旦那さんが、ネイサンおじさん。
このターナー夫妻は王都の城下町で小さな宿屋を経営していて、「目に入れても痛くないくらい私を可愛がってくれている」。
私の中にも、それらの歴史と齟齬を生まないような記憶が与えられていた。
私が死んだのが五年前だとして、この身体が十歳前後。
どう考えても矛盾しているのに、精霊の手にかかればそんなことは関係ないらしい。 私は新しい環境、新しい人生に完璧に馴染まされていた。
今の私はもう、セシル・ブラッドフォードでもセシル・ライリーでもなく、セシル・ターナーだった。
違和感がなかったわけじゃない。
だけど、ターナー家での暮らしはすごくあたたかくて幸せなものだった。
さみしがり屋の私にとっては、モリーおばさんとネイサンおじさんがいかにも下町の肝っ玉母ちゃんと優しい父ちゃんという感じで構ってくれるのがたまらなく嬉しかった。
前世の母は早くに亡くなり、父が亡くなってからは爵位を継いだ兄がますます冷たく、忙しくなっていったから、家を広く感じない、いつも誰かの気配がそばにあって孤独を感じる暇のない生活が、私には合っていた。
宿のお手伝いで日々は目が回るほど忙しかったし、ぜいたくなんかなかなかできないけれど、充実感があった。
「セシルは本当に絵が上手いねぇ。どこで習ったわけでもないだろうに、末は博士か大臣か……」
ネイサンおじさんは、私が宿のチラシや掲示板に絵を描くといつもでれでれと褒めてくれる。
私はそれがくすぐったくも嬉しかった。「そうさね、セシルなら絵で食べていけるんじゃないのかい?」とすぐその気になるモリーおばさんも、大好きだ。
「……私、おじさんとおばさんに引き取ってもらえて幸せよ」
私が心からそう言うと、ふたりは頬を赤らめて「改まってそういうのいいから!」とそろって照れ隠しをするのだ。「だって、セシルと私たちは家族じゃないか」と笑いながら。
正直、これが闇精霊の差し金とは思えないほど幸せな暮らしができていた。
伸ばした手を拒絶されない。
毎日みんなで食卓を囲んで、美味しく食事が食べられる。
家族だって言ってもらえる。
友達もたくさんできた。近所の子と日が沈むまで遊んでいられる。身体の年齢に精神が引っ張られるのか、他愛もない子どもの遊びでもちっとも飽きが来なかった。
精霊の気まぐれでいつもたらされるか分からない、自分や家族の破滅に怯えなくてもいい。
夢みたいだ。
……みんなは、大丈夫なのかな。
自分が満たされると、かえって前世での関係者たちの現在が気がかりになってきた。
少なくとも闇精霊が「面白い」と表現するようなことになっているのだ。
私が死んだ後、なにがあったのだろう。
特にあの兄は、そうそう「面白い」ことになるような性格と性能ではなかったはずだけど、やっぱり心配だ。
私は少しずつ、彼らの現状について情報を集め始めた。
巷の噂によると、まず前世の兄、ハンター・ブラッドフォードは相変わらず国王陛下の手足として働き、地位も盤石。この国に牙を剥いた者への容赦のなさで恐れられている。
近年はますます性格が苛烈になっているようで、世間での扱われ方はほぼ熊か化け物のそれだ。つい最近も敵国と内通していたとある地下組織を血祭りにあげたらしい……。
でも、ブラッドフォードの精霊憑きに恒例の破滅は迎えていない。
なんだ元気じゃない、と拍子抜けしたが、少し気になる噂があった。
闇精霊の気まぐれで五年前に急死した妹のことで、ライリー男爵――――つまり、前世の夫であるキーラン・ライリーと刃傷沙汰を起こしたそうなのだ。
い、いやいやいや、あのお兄様が?
私はその噂を鼻で笑った。
妹が死んだからって、どうしてあの兄がキーランと事を構える気になるだろう?
そんなことあり得ない。
兄はそこまで私に関心を持ってはいなかったし、私が精霊憑きらしい末路を迎えても、その責任をキーランに問う理由もない。
私がライリー家でどんな暮らしをし、キーランとの夫婦関係がどのように変化していったか、兄に明かしたことなんか一度もないのだから。
そのキーランはというと、兄との事件のあと突然筆を折り、すっかり世間から隠れてしまったらしい。
連載中だった小説もストップ。
あれだけ浮名を流していたのに、誰が誘ってもなしのつぶてだという。
持参金がほしいだろうに、次の奥さんをもらっていないらしいのは奇妙だ。
よっぽど怖い目にでも遭ったのか?
そんなに人が変わったようになるなんて、やっぱり兄がなにかしたんだろうか……。
いやでも、原因が私という線はないし。
ふたりの間に、別口でなにかトラブルがあったとか?
ちょっと噂からは推理できない。
なにしろ前世、今際の際に見たキーランはとても正気ではなかった。
まかり間違って兄との間にもめ事を起こさないとは言い切れないくらいには。
でもまぁ、あの兄を相手取ったら最悪死ぬ可能性だってあり得るところ、ちゃんと生きてはいるようだし、酒や女遊びが止まったのは子どもたちにとっても良いことなんじゃないだろうか。
稼ぎ頭を失った今のライリー家を率いているのは、ノアとエリオットの姉弟だとか。
五年の間にふたりは立派に成長していた。
二十歳になったノアは意外にも剣の道に進み、女性要人の護衛につく騎士として華々しく活躍している。
十七歳のエリオットは、若い頃のキーランによく似た美男子に成長した。
あんなに無口で無愛想だった子が、今や社交界の華だというから驚きだ。塩対応は相変わらずらしいが。
彼の魔法の才能は傑出していて、あの兄と並び称されるほどだ。
ふたりとも、男爵家という家格の低さを帳消しにしてあまりある高嶺の花になっていた。
良かった。あの子たちが元気にやっているかどうかが一番心配だった。
多感な年頃だったのに、目の前で義母が死ぬところなんか見せてしまって、本当に申し訳ないことをした。
特にエリオットなどはブラッドフォードの精霊憑きのこと自体よく知らなかっただろうから、さぞびっくりしたんじゃないかしら。
でもまぁ、キーランがまたしてもダメダメモードに戻ってしまったのは痛手だっただろうが、ふたりともそれぞれの道で活躍し、世間にも認められてとっくに自立しているのなら、キーランの存在など今さら足かせになりはしないだろうし。
心身にダメージがあるようには思えないから、兄とも関わらずに済んでいるのだろう。
成長過程でキーランにひどいことをされたということもなさそうだ。
「……なによ、別に『面白い』ことになんかなってないじゃない。良かったぁ……」
ひととおり情報収集を終えた私は、ほっと胸をなで下ろしてセシル・ターナーとしての日常に戻った。
どのみち、今の私は一介の平民だ。
貴族である彼らとは二度と会うことはないだろう。
今の私の容姿こそ前世の幼い頃の私そっくりそのままだけれど、気づけるのは兄くらいだろうし、その兄が私の生活圏にやってくることがあり得ない以上、こそこそ隠れ暮らす必要もない。
あたたかい家族との順風満帆な新しい人生が、私の目の前に広がっている。
ちなみに前世の私自身はというと、「またひとりブラッドフォードの精霊憑きが破滅したぞ」「兄のほうもいつまで持つやら」と嘲笑され、死してもなお案の定兄の足を引っ張ってしまった。
しかも例の「ブラッドフォードの鬼嫁」という汚名が広まってしまっていたせいで、特にキーランのファンたちには現在進行形で悪し様に言われている。
ますます前世と今の自分を切り離したくもなるというものだ。
私はもう二度と、失敗ばかりの自分を――――セシル・ブラッドフォードとしての人生を、続けたくなかった。
だったらお前が死んでみろとまで言われて、……私はキーランとは、夫婦になれなかったけど。しょせん忌まわしい精霊憑きの、口うるさくて鬱陶しい鬼嫁というだけで終わってしまったのだろうけど。
セシル・ターナーとしてなら、今度こそ幸せな恋ができるかもしれない。
「……前世のことを気にするのは、これっきりにしよう。こんなに恵まれているんだもの、今の暮らしを大切にしなきゃ!」
お礼というだけあって、闇精霊の転生セッティングは完璧だった。
……かに、見えていた。