第一話 ブラッドフォードの精霊憑き
「だったらお前がくたばってみろよ!!」
そう夫に怒鳴りつけられたとき、私の身体は雷に打たれたように動かなくなった。
おそらく私たち夫婦は最初からこうなる運命だったんだろう。
――――私、セシル・ブラッドフォードの人生のどこが間違いだったのかと言われれば、たぶん生まれからして分が悪かったのだ。
ブラッドフォードは由緒ある伯爵家だが、縁を結びたがる人は滅多にいない。
ブラッドフォードの血を引く人間には、ときおり闇魔法の使い手が現れる。
闇の精霊の加護を受けている……といえば聞こえがいいが、実態としては単なる「精霊のおもちゃ」だ。
精神干渉を得意とする闇精霊は気まぐれに人間を弄ぶ。
ブラッドフォードで闇魔法の適性のある人間は、闇精霊が「おっ面白いことになってんな、ここでスパイスをひとつまみ!」と思いついたが最後、正気を失い暴走したり、突然死含め思いがけない不幸に見舞われる。それくらいの軽い気持ちで突っつかれただけで人生が崩壊するわけだ。
闇精霊のモットーは、「最悪のタイミングで、最悪の破滅を」、だ。
そりゃ誰だって関わりたくない。
ましてやお嫁さんに迎えようなんて常識的に考えてお断りだろう。
そして私もまた、そんなブラッドフォードの精霊憑きとして生をうけてしまった。
幼い頃、私は同じく精霊憑きの兄・ハンターにべったりだった。
最初は可哀想なモノどうし傷をなめ合っていたい、安心していたいだけだったのかもしれないけれど、どんなについて回ってもつれないあの兄に、めげずに私は絡み続けた。
私は生来とにかくさみしがり屋で、ブラッドフォードの人間としては珍しく、コミュニケーションを好む子だった。
しかしそれ以上に、七歳歳上の兄は頑固だった。
兄妹の心の距離は私の野望ほどには縮まらず、十六歳の秋、私はついにお払い箱にななる。
「お前の縁談をまとめてきてやった。ライリー男爵家のキーラン・ライリーがお前の夫だ」
「は!? なんで、ライリー男爵って四十前でしょう!? お嫁さんもらうのだって確かもう三回目だし、未成年の子どもだって……」
「言っておくが、お前に拒否権はない。今のブラッドフォードの長は私だ」
取り付く島もなかった。
いつ自分が精霊のおもちゃにされるか分からないという焦りからか、兄は冷徹な野心家として完成されていっていた。
父が亡くなり、爵位を継いで精神干渉能力を買われて秘密警察じみた仕事をするようになってから、私への態度も塩分を増した。本当にひどい。
もちろん私だって食い下がった。
「む、向こうだって私みたいな小娘嫌がるんじゃないですか? ブラッドフォードの精霊憑きだし……!」
「持参金欲しさに乗ってきたのはあちらだ」
兄は端的に私の反抗を切って捨てた。
「あんなはした金でお前が処分できるなら儲けものだろう。精霊憑きなのにも関わらず、お前は致命的に魔法の才がない。私は穀潰しを養う気はない」
「…………ごく、っ……」
私は絶句した。言うに事欠いて穀潰しって……しかし、図星をつかれると人間は黙る。
私は精霊憑きだが、肝心の魔法がからっきしだった。
他人の精神に干渉するなんて夢のまた夢だ。
そのくせ、いつ精霊の気まぐれでぶっ壊れるか分からないという最悪の特性だけは健在。兄からすればそれはもう邪魔くさかっただろう。「人は人、自分は自分、どう思われていたってひとりぼっちの寂しさよりはマシ」を地で行く私だが、その自覚はある。
要するに、ライリー男爵家はブラッドフォードの精霊憑きをお嫁さんにしてでも決して多くない持参金にとびつくくらいには経済的に困窮していて、兄は前々から鬱陶しい妹を厄介払いする機会をうかがっていたらしい。
「……わ、私がいなくなったら、この家もっとさみしくなりま、」
「ならないが?」
「……」
私が猛反発して泣いて嫌がってみせても、兄の一点のくもりもない金の髪にふちどられた美貌に表情らしい表情が浮かぶことはなかった。
こうして、私は十六歳で四十路のオジサンの三番目の奥さんになった。
金欠だからと結婚式も挙げないままに。
兄はいまだに未婚なのにひどい話だ。
嫁がされた先で、私はキーラン・ライリーと対峙した。
キーランは一目で分かるほどすさんでいた。黒髪に艶はなく、ウワバミによく見られる黄色みがかった顔色をしている。
極めつけが、この第一声。
「悪名高いブラッドフォードの精霊憑きが、まともに愛されるわけないだろう? 持参金ぶんの借りがあるからうちには置いてやるが、夫婦といっても形だけだ。あいにく俺には幼女趣味もないのでね」
こう言っちゃなんだけど、家格も財力も歳も雲泥の差があるのに。なのにコレ。
私はまたしても絶句し、慌てて現実に復帰した。そして激怒した。私はブラッドフォードの人間には珍しくあまり気が強いほうではないが、これには思い切り怒った。
「誰が幼女よ、くたびれたおっさんなんてこっちからお断りだわ!!」
……と啖呵を切ったものの、私は自分が「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の擬人化であることをすっかり忘れていた。
人間、いっしょに食事を摂るとどんなに初対面が最悪の相手でもだんだん気が緩んでくるらしい。そういう効果があると聞いたことがある。
根っからさみしがり屋の私には特に効果てきめんだった。
寝室はもちろん別だし、キーラン本人も兄と同じレベルで私に塩対応だったが、逆に言えば塩加減が兄レベルならたいして堪えないのである。十六年で鍛えられた雨だれ石を穿つの精神が嫁入り先で功を奏すとは。
なにより、実は初日の時点で私のキーランを見る目は変わっていた。
ライリー家の食堂には、亡くなった前の奥さんふたりの肖像画が飾られたままだったのだ。
「……申し訳ございません、奥様にはご不快でしょうが、旦那様がどうしても撤去してはならぬと仰せで……」
いかにもベテランの執事どのには平身低頭でそう謝られたが、私としては、別に不快ではなかった。このときは。
むしろ、あのデリカシー皆無で横柄なダメ男爵にこういう情の深いところがあるのかと感心する気持ちですらあった。
「……前の奥さんたちは、ふたりとも病気で亡くなったんでしたよね?」
訊ねると、執事は控えめに頷いた。
「治癒魔法にも頼り、手は尽くしたのですが、マリエッタ様もロザンナ様も、本当にあっという間でございました……」
私を見る執事の目にはかすかな猜疑心があった。
そう、当時は、キーランが持参金目当てに次々と花嫁を殺しているのではないかという噂が、ごくごく一部でではあるがささやかれていたのだ。
私もこの食堂の有様を見るまでは正直ちょっと疑っていたけれど、まぁこれは、違うだろう。
私が噂を真に受けている可能性を念頭に置いているらしい執事を安心させるために、私は肖像画を見上げて笑った。
「素敵な絵ですね」
実家に比べればライリー家の内装はだいぶ貧相で、いろいろ売っぱらっちゃったんだろうなと察するにあまりあった。
そんな中でも、このふたりの肖像画だけは腕のいい画家に書かせ、手入れも欠かしていないことがうかがい知れた。私も絵を描くのでよく分かる。
キーランは、前のふたりの奥さんを引きずりに引きずりまくっているのだ。
それが彼をすさませていた原因だった。
愛がなくても、もともと情そのものを持っていない生き物を相手にしてるわけでもなし。
なんやかんやで兄とも十六年は暮らせた。そう思うと前向きな気持ちが湧いてくる。
夫婦関係になりたくないって向こうが言ってるんだから、それはそれで私も気は楽だ。
遙かに年上の夫に嫁がされた現代の女性としちゃ、ぜんぜんマシな境遇かもしれない。
……考えてみれば、ライリー家の困窮っぷりは前の奥さんたちの治療に奔走したせいなのでは?
金に糸目をつけず、必死に助けようとしたんじゃないか。
「撤去、しなくて構いませんよ。私も絵を描くのが趣味なので、とても大事にされてるいい絵だって分かりますから」
執事はほっと安堵を見せて、「ありがとうございます」と言った。
キーランが意外と純な男なのは初日でよく分かった。
といっても私とは食の好みも服の好みも合わず、顔を合わせれば口げんかになったが、とにかくあの食堂で食事をともにするという経験が降り積もっていったのが大きかったのだろう。同居人としてかろうじてやっていけるくらいの関係性は築けていた。
そもそも私は没交渉や冷戦状態が一番堪えるタイプだし、けんかが成立していたこと自体は悪くはなかった。
……いやでも、キーランのだらしなさだけは本気で許せなかったな。
あの家で繰り広げた口げんかのうち、私がキーランに怒る頻度のほうが高かったのはそのせいだ。
ふたりも奥さんがいたということは、子どもがいたっておかしくない。
なのでまぁ、私はキーランと結婚すると同時に、ふたりの子どもの義母になったわけだ。
一番目の奥さん、マリエッタ様のご令嬢がノア。十二歳。
ゆるくウェーブのかかった亜麻色のロングヘアはお母様譲り。
二番目の奥さん、ロザンナ様のご令息がエリオット。九歳。
こっちは完全にキーラン似。黒髪の男の子。
同居人が多いのは寂しくなくていいけれど、いきなりお母さん業まで肩にのしかかってきたんだから、さすがに私も目眩がしてくる。
「お、……おく、さま。初めまして。ノアと申します……」
ノアは賢く、聞き分けも良くて、初対面から困ったようなつくり笑顔を張り付かせているような子だったし。
「…………エリオット」
エリオットは熊のぬいぐるみを四六時中抱えていて、姉以外とは目も合わせない内向的な子。
育ち盛り、学びたい盛りのふたりには家庭教師もいなかった。
ライリー家にはお金がないのだ。
こんな状況で無気力な日々を送るキーランが許せるはずもない。奥さんたちの忘れ形見がいるのに、父親がしっかりしなくてどうするんだって話だ。
「ふざけないでよ、子どもはお酒に逃げることもできないってのにあなたばっかり呑んで!!」
私は激怒した。
「は!? おい、返せ俺の酒!」
「まず外に出なさい!!」
キーランの尻を蹴っ飛ばし、お酒をすべて没収して、酔い覚ましに外を歩いてくるようにと命じた。
酒びたりのキーランは、そもそも家から出ることが滅多になかったからだ。
家の中にはいつも荒れた父親がいて、酒のにおいをさせていて、勉強を教えてくれる相手も遊び相手もいないこんな寂しい環境で、ノアとエリオットがグレずにいてくれたのは奇跡だろう。
「……お、おくさま、お酒を奪ったりなんかしたら……!」
「……殴られるかも……」
肩で息をする私を見て、ノアとエリオットが震え上がったのがいっそう私の燃料になった。
食堂の肖像画を眺めながらかろうじてものを食べられているような男に、「幼女」を殴れるわけがない。そんなの私にだって分かることなのに。
「お酒を呑むのを止めたいけど、止めたら殴られるんじゃないかなんて心配、子どもにさせて恥ずかしくないの」
いったいどこで時間を潰してきたのか知らないが、夕方になってとぼとぼと屋敷に帰ってきたキーランを、私は問い詰めた。
キーランは長い沈黙のあと、苦しそうな顔になってぽつりと言った。
「……、断酒、手伝ってくれ」
「いいけど、やるならやりきってよね」
私は毎日キーランを家から追い立て、そのかたわら、ノアとエリオットに勉強を教え始めた。
領地ではブラッドフォードの精霊憑きならぬ、ブラッドフォードの鬼嫁と呼ばれていたようだ。失敬な。
嫁いでから初めて兄と手紙をやりとりしたのも、この頃だ。
――――お兄様、かくかくしかじかでセシルはもうすでに限界が近いです。キーランが噂みたいに花嫁を次々殺してる殺人鬼じゃないと分かってほっとしたのも束の間で。
――――どうでもいい。
――――私はどうでもよくても罪のない子どもたちが飢えて泣いてもいいっていうんですか? 鬼、悪魔、兄! なにか妙案ください。
――――どうでもいい。二度と手紙なんぞ寄越すな。
――――お兄様、魔法はダメでも私が絵の才能にだけは恵まれているのをご存じですよね? お兄様がその気なら、私はお兄様のリアル全裸を克明に描き出した絵を巷で売りさばいてお金を作ります。お兄様は見た目だけならものすごく需要ありますからね、ゴシップのネタにもなるでしょうし、飛ぶように売れるはずです。この手紙が届いてから一週間以内に返事がなければ本気でやりますよ私は。いいんですか?
――――いつか殺す。
以上のようなギリギリの駆け引きの末、兄はキーランに職を斡旋してくれた。
なんと、新聞で小説を連載しないかというのだ。
今じゃ考えられないが、若い頃のキーランは文才で名を馳せていたらしい。
奥さんをふたりももらえるほどモテたのは、そのネームバリューもあったのだそうだ。
「それじゃあ、お母様はお父様の小説のファンだったの?」
「……れんあいしょーせつとか書く人間だったんだ」
「……うるさいな……」
ノアとエリオットは興奮した様子でこの前まで怯えていた父親にあれこれ話しかけていたが、ぶっきらぼうに返すキーランもまんざらでもなさそうだった。
新聞社と契約を結んだその日はみんなで書斎を片付け、夕食でキーランの新たな門出を祝った。
この晩、私はキーランに初めて「ありがとう」と言われた。
「……なんて?」
「……最悪、二度と言わん」
廊下で呼び止められて、ごく小さな声で言われただけだったから。わざと聞き返したら子どもみたいに機嫌を損ねて部屋に引っこんでいってしまった。
四十路のくせに、本当に分かりやすい。
私はベッドでひとしきり笑い、気持ちよく眠った。
その後、キーランの小説が評判になっていくにつれ、挿絵は私が担当することになった。
兄の名前が効力を発揮しなかったとは言わないが、交渉自体は私が行った。
次第に他にも挿絵の仕事が来るようになり、ライリー家にもコンスタントに収入が入るようになった。
領地経営もうまくいくようになり、経済面ではすべてが順調だった。
私が一家の中で一番仲が良かったのは、おそらくノアだろう。
同性で気安いし、ブラッドフォードの精霊憑きの話を知っても彼女は私を嫌悪しないでいてくれた。経済的に多少の余裕が出てきてからは、よく一緒にお菓子を作ったものだ。ノアがいてくれたおかげで、私は嫁いできたばかりの寂しさから救われていた。
「精霊がどうとか関係ない。セシルさんはセシルさんでしょ」
ノアは最初、私を「奥様」と呼んでいたが、「奥様」も「お母様」も無理があるだろうと私が名前で呼んでくれるよう頼んだ。敬語もやめてもらった。
十六歳と十二歳なんだから無理が出て当然だ。
「ノアは本当にしっかりしてて芯が強いわね。マリエッタ様に似たのかしら」
私はノアの理性的なところを心から尊敬している。
しかしノアは、ボウルいっぱいのクリームを混ぜながら首を傾げて笑った。
「前の私はそんな風に言われるような子じゃなかったよ。セシルさんに変えてもらったのよ、覚えてない?」
「え?」
「私がお父様を怖がってた頃、セシルさんが『ノアは言いたいことを言っていいし、いつも誰かに気を遣って我慢したりしなくていいのよ』って言ってくれたんじゃない。忘れちゃった?」
「あ、あぁ、そうだったかな……」
言ったような気もするし、言わなかったような気もする。
あの頃は生活が毎日バタバタしすぎて細かい記憶は鮮明ではなく、つまり完全に忘れていたのだが、ノアはそれを責めたりせず、機嫌良くクリームを混ぜ続けてくれた。
「だいたい、今はもうブラッドフォードのセシルさんじゃないでしょ。セシルさんの姓は私たちと同じ、ライリーなんだから!」
「……う、うん。そうね……」
そう言われるとなんだか落ち着かない気分だ。
私はどうしても、ライリー家とはキーランとマリエッタ、ロザンナ、ノア、エリオットの五人きりのような意識が抜けなかった。
その五人で構成されたライリー家は聖域のようなものに見えていた。
この家で過ごし、キーランの過去の著作やいま連載している小説の中に彼自身の過去の思い出を見つけ、食堂の肖像画を目にするたび、その思いは強まっていった。
キーランは奥さんたちとの思い出を本当に大切に扱っている。
癒えない傷を癒えないままにしようと躍起になるくらいに。
忘れる端から思い出せるように、作品の中にそっと過去のかけらを忍ばせる。
彼の著作の中に、私とのエピソードに掠めるようなものはひとつも登場していない。
それもそのはず、私との関係性は前のふたりとは似ても似つかないのだから。
ロマンチックなものがあった前のふたりとはスタートからして全然違う。
持参金目当てに引き取った幼すぎる嫁だし、叱ったり尻を蹴っ飛ばしてばかりいてちっとも可愛げなんかないだろう。
根っからのさみしがり屋と、あの兄と育ったのが災いして、私は相手とコミュニケーションさえ取れるなら喧嘩になろうが小言だろうが構わないという思考が染みついてしまっていた。キーランに好かれることだけしようとは思いつきもしなかったのだ。
もし仮に私が――――たとえばブラッドフォードの精霊憑きの運命によってでも――――急死したとしても、あの食堂に自分の肖像画が並ぶとはとても考えられなかった。
それはもちろん寂しいことだけれど、事実は事実だ。
キーランだけでなく、エリオットにしたって、私のことを好きではなかっただろう。
ノアと違って、私は彼とは良好な関係を築けずにいた。
「エリオット、ドッグショーが来るらしいわよ! ドッグショーって分かる? 犬が色んな芸を見せてくれるのよ。一緒に観に行かない!?」
「いかない」
「そ、そっか……」
熊のぬいぐるみをいつも抱きしめているから、私と同じようにさみしがりなのかなとか、動物が好きなのかと思って色々と誘ってはいたのだが、いつも断られてしまう。
エリオットは無口で自己主張が少なく、たいてい姉が発言した直後でないと口を開かない。
小さい子らしく不意に熱を出した日ですら、ぬいぐるみを抱きしめたままベッドの隅でじっと固まり、私にはなにも言わずにやり過ごそうとする。たぶん信用されていなかったのだろう。
「……もしかして、お出かけ自体があんまり好きじゃない?」
「そうでもない」
「あ、そう……なのね」
こんな感じで、話しかけても会話がぶった切られて話の糸口を失ってしまう。
というか、ぶった切った瞬間にエリオットの表情と口が毎度固まり、次にはぴゃっと逃げられてしまうのだ。
そうなるとしばらくは逃げ回られて、捕まらなくなる。
向こうに用があるときはいつもノアの背後に隠れてやってきて、必ずノアに切り出させる。お母様と呼ばれることはもちろん、名前で呼ばれたこともない。
ノアにも「どうすれば心を開いてくれるんだろう」と相談したことがあったが、彼女は困ったように「うーん、もう開いてはいると思うんだけどなぁ……」と唸り、あまり話が噛み合わない。
進展がなかったとしても、私はエリオットに構い続けた。
家の中に仲良くできない相手がいると寂しい。胸にぽっかり穴が空いたような悲しい気分になる。
でも、それがますます彼との心の距離を開かせてしまったのかもしれない。
私はあの兄にさえくっついて回った剛の者だから、エリオットにとっては度を超してしつこい存在だったのだろうか。
いやそもそも、たった七歳しか違わない義母が来て、愉快な気分になるはずがなかった。
忘れちゃいけないが、ノアもエリオットも、母親を亡くした子どもだ。
新しい母親ってだけでキツイだろうに、この年齢、この出自。
なんの隔たりもなく仲良くしてくれるノアが珍しいのだ。
ただ、私とはうまくいかなくても、エリオットとノアの関係が良好なのはなによりだった。
同居している異母きょうだいとなれば、多少なり確執があってもおかしくないだろうに、ふたりは本当に仲が良く、信頼し合っていた。
エリオットの体調はどうか、日々の暮らしで我慢や無理はしていないか、その様子をノアから聞けるからこそ、私としてもまだ安心できていた。
エリオットに関しては、ずっと悔やんでいることがひとつある。
私が嫁いで一年目の彼の誕生日、ぬいぐるみが好きなんだろうと踏んで、軽はずみにも猫のぬいぐるみをプレゼントに選んでしまったことだ。
「エリオット、お誕生日おめでとう! ほらこれ可愛いでしょ、猫さんよ~!」
ウキウキでぬいぐるみを踊らせる私の目の前で、エリオットはみるみるうちに青ざめて固まった。
「……え、エリオット?」
「……」
ケーキを切り分ける準備をしていたノアとキーランも、エリオットの異変に気づいて驚いた顔をした。
エリオットはいつもの熊のぬいぐるみをぎゅううと抱きしめながら、
「……っい、要らない。新しいのも、代わりのも、要らない!」
絞り出すように叫び、ぼろぼろと大きな両眼から涙をこぼし始めた。
「俺、ほしいなんていってない!」
「……あ、っ……ごめ、」
「これっ、これはっ、お母様がくれたんだから! だから、これだけで、いいっ!」
しゃくり上げながらエリオットはそう言い、そのまま本格的に泣き出した。
彼があんなに大きな声を出すのも、長文を喋って自己主張したのも初めてのことだった。
やってしまった。私は真っ青になって猫を背後に隠した。ノアとキーランも、血相を変えてエリオットを宥めにかかった。
当時私は知らなかったのだが、エリオットの熊のぬいぐるみは、亡くなったお母様が最後に彼にプレゼントしてくれたものだったらしい。
おそらく、私とエリオットとの間の亀裂が決定的なものになったのは、このことがきっかけだったのではないだろうか。
新しいのも、代わりのも要らないというエリオットの言葉は、きっと「お母様」だって同じだったのだろう。
私のせいで最悪の誕生日にしてしまった。私は「ごめんね、ごめんね」と平謝りに謝り倒し、キーランにさえ「知らなかったんだろ? 気にしなくていい」と慰められる始末だった。
次の年から、私はお誕生日ケーキ作りの担当を買って出た。
いちおう食べてはもらえていたが、喜んでもらえていたかは分からない。
あんな失態を犯しておいてもなお私は諦めきれず、どうにかして彼の気持ちを分かるようになりたくて構うことは続けたものの、もっと他にやりようがあったのかもしれない。
エリオットは十一歳になる少し前に、唐突にぬいぐるみを抱えて歩くのをやめた。
結局、私にはそれがなぜか分からなかった。
明らかな事実はひとつだ。
エリオットは、「ボロボロになってきたから、繕ってほしい」と私に頼み、大切なぬいぐるみを預けてくれた。
私はできる限り綺麗に修繕して洗濯もし、彼にぬいぐるみを返却した。
エリオットが突然ぬいぐるみを持ち歩くのをやめたのは、その翌日のことだった。
……だから、また、私は失敗したのかもしれない。
よかれと思って余計なことをしたのかも。疑い出すと、自分が縫った糸の一本一本が怪しく思えてくる。あれじゃ気に入らなかったのかな。縫っちゃ駄目なところを縫ってしまったとか?
エリオットはなにも言ってこなかったけれど、繕ってもらった以上気を遣って文句を言い出せなかったのかもしれない。
「珍しいな」
悶々と考え続けて眠れなくて、打ち明ければ自分の味方をしてくれると分かっているだけにノアにも相談できず、夜中にキッチンでお茶を飲んでいるとキーランがふらりと現れた。
まぁ、夜中のキッチンで出くわすなど、彼が夜な夜なお酒をあさりにさまよい出ていた時期を除けばなかったことだ。
「いつも夜の九時には眠くなってるのに、どうしたんだよ」
「……」
本当に、珍しいことばかり起きる夜だった。
いつもの私は絵に描いたような快眠だし、いつものキーランはこんなこと訊いてはこない。
だからいっそ珍しいことをし尽くそうと思い、私は口を開いた。たまにはキーランに相談してみてもいいだろう。
「どうすればエリオットと仲良くなれるのか、分からなくて眠れないのよ」
キーランは目を丸くした。
「なんで? 仲いいだろ?」
私のほうこそ目を剥く発言だった。
「どこがよ? 私フツーに嫌われてるわよ」
「はぁ?」
キーランは素っ頓狂な声をあげる。
「……いや分からん、なんで? どこが?」
「全部よ! ……もっとよく見ててよ、自分の子どもなんだから……」
「見てるから分からないんだろうが……」
昔ならまだしも、とキーランは心底不可解そうにしている。
確かに、出会った当初に比べたらキーランはずっとまともになった。
小説だってときおりスランプに悩まされつつも執筆し続けているし、断酒も継続中、ノアとエリオットと親子らしい交流を持つようにもなって関係も改善した。
育児放棄も同然のだらしなさもなくなった。
エリオットのことも普段から見ていて父親として「そんなことはない」と断言している様子だ。
でも、私には納得できない。同じ家に暮らしている人間でも、すべての顔を知ることはできないのがほとんどだ。キーランの知らないエリオットの顔があるというだけのこと。
言わなきゃよかったか。
私が黙り込んでいると、キーランは居たたまれなくなったようだ。急に慌てだして、
「……あ、そ、そうだ。今度の休み、あれだ、行ってみるか? ピクニックとか……」
私はぱちくりと目を瞬いた。キーランが子どもたちではなく、私にこういうお誘いをしたことはそれまでなかったからだ。
そして次のまばたきをするときには勘違いを悟った。
行ってみるか、というのは、みんなで、という言葉が頭につくのだろう。
私はなんだか気が抜けて、軽く笑えてきた。
「みんなで?」
キーランはなぜかたじろいだ。
「……あ、あぁ、そう。みんなで。流行ってるだろ、家族でピクニック」
「……楽しそうだけど、エリオットのことはあなたから誘ってね。私が言うと断られると思うから」
「そんなことないだろ」
「あるの。……難しいのよ」
「大丈夫だって」
「ダメ」
「…………」
キーランは首の後ろに手をやって、仕方ないなというように溜め息をついた。こんなときばかり年上ぶるのだ。
「……分かったよ、俺から言う。ったく、お前らしくないな。ぬいぐるみのことがあって心配なのは分かるが、あいつに遠慮しすぎなんじゃないのか」
「……」
らしいとからしくないとか、キーランには決めつけられたくないとなぜか無性にムカついた。
つま先で臑を軽く蹴ってやると「いてっ、なにすんだ」と抗議される。
私はそれには反応せずに、「おやすみなさい!」と言い残して部屋に戻った。
ムカついていたけど、それ以上にむずむすした嬉しさが胸を弾ませていた。最初にキッチンで出くわしたところから、たぶん偶然ではなかった。それくらい分かる。心配されていたのだ。
キーランはぶっきらぼうでデリカシーがなく、私とは趣味も合わないが、こういう繊細で優しいところもあった。
……この頃には、私はもうキーランを好きだったのだと思う。
一緒に暮らしてすっかりその気になっていたというか、……奥様という役割を演じるうちに、本気になってしまったのか。人恋しかったのかもしれない。
相手はあんなダメダメ男爵子持ちおじさんなのに。あんなに苦労させられたのに、なんでこうなっちゃったのか、我ながら全然分からない。
だいたい、好きだといったって脈は絶無なのだ。
キーランはいまだにぼうっと食堂の肖像画を眺めながら食事をする。他の物事などいっさい目に入らないというように。
いいなぁ、羨ましいなぁとつい思った日、本気で自分で自分が嫌になった。
夫と子どもを残して亡くなった人たちに「いいなぁ」なんてそんな残酷なこと、ちょっとでも思ったことが悔しくてたまらなかった。
なのに、それでも、「いいなぁ」と思う心が止められない。
ライリー家という閉ざされた聖域に、私は入れずにいた。
姓がライリーになろうが、キーランとエリオットに家族だと言われたことは一度もなかった。
ピクニックのお誘いだって、「家族みんなで」とは言われなかったし。たびたび話題にのぼる前の奥さんたちの思い出話にも、ただ聞いていることしかできない。
肖像画はもはや、ライリー家における私の疎外感の象徴だった。
次第に、食堂の肖像画は私にとって密かなフラストレーションになっていった。
食事をする手が止まりやすくなっていく。
その頃に久しぶりに兄から届いた手紙にはこう書いてあった。
――――近頃、お前の魔力がときおり不安定なるのを感じている。同じブラッドフォードの精霊憑きとして、お前の末路は私の沽券に関わる。らしくもなくストレスを溜めるな。弱味を見せれば、精霊に目を付けられるぞ。