82:魂の儀
城下町の夜は深く、静寂に包まれていた。
月明かりも雲に隠れがちな暗闇の中、四人の影が石畳の路地を歩いていく。
レイレイ、エナ、ヴァリア、そしてユクト。
足音だけが、不吉な予感のように闇に響く。
「本当に……もう修復は不可能なんでしょうか」
レイレイの震える声が、夜の静寂を破る。
その手には、粉々に砕け散った聖剣エクスカリバーの欠片が握られていた。月光に照らされた破片は、かつての輝きを失い、ただの金属の切れ端のように見える。
「通常の方法では、無理だ」
ヴァリアは重々しく答える。
先ほど鍛冶屋のガルドを訪ね、修復を依頼したものの、不可能だと告げられたばかりだった。
その言葉が、まだ耳に残っている。
「でも……このままじゃ、マオさんが……」
エナの声が詰まる。暗闇の中でも、彼女の瞳に浮かぶ涙が光っているのが分かった。
魔王の記憶を取り戻し、闇に飲み込まれていく親友。
その姿を、ただ見ているしかない現状。
その無力感が、皆の心を深く抉っていた。
立ち止まった彼らの足元に、夜風が枯れ葉を運んでくる。
それは、まるで希望が散り落ちていくかのようだった。
「もう……マオちゃんを助ける方法は……」
レイレイの声は、今にも泣き出しそうな響きを帯びていた。
その時だった。
夜空を切り裂くような音が響き渡る。
木々が大きく揺れ、地面が震える。
そして、四人の前に一つの影が降り立つ。
「く……っ」
息を切らしたような声と共に、月明かりの中にドラシアの姿が浮かび上がる。
しかし、いつもの威厳に満ちた龍族の長の姿ではなかった。
深い傷に覆われた体、乱れた赤みがかった髪、所々破れた衣服。
漆黒の角にも傷が入り、体からは絶え間なく血が滴り落ちている。
「ししょー!」
ユクトが駆け寄ろうとするが、ドラシアは手を上げて制止する。
「心配には及ばぬ。この程度の傷、龍族にとっては……」
言葉の途中で膝が折れ、地面に倒れこむ。
足元には既に小さな血溜まりができている。
マオとの戦いが、いかに苛烈を極めたものだったかを物語っていた。
「無理をしないでください!」
エナが駆け寄り、肩を貸そうとする。
しかし、ドラシアは再び手を上げて制止した。
「マオとの戦いは……?」
ヴァリアが恐る恐る尋ねる。
その問いに、ドラシアは深いため息をつく。
「あの子の中で、魔王の記憶が完全に目覚めてしまった。もはや……ワシの力では止められん」
その言葉に、全員の表情が暗くなる。
龍族の長ですら太刀打ちできないほど、マオの力は強大なものとなっていた。
それは、取り返しのつかない現実を突きつけられたような絶望感。
しかし、ドラシアの次の言葉が、その絶望を揺るがす。
「じゃが……希望が無いわけではない」
ドラシアは、ヴァリアが握るエクスカリバーの欠片に目を向ける。
「聖剣を修復する術を、ワシは知っておる」
「本当ですか!?」
レイレイの声が弾む。その瞳に、かすかな希望の光が戻ってきた。
「方法というのは……?」
ヴァリアが一歩前に出る。その手に握られたエクスカリバーの欠片は、月明かりに儚く輝いていた。血に濡れた地面に、微かな光が反射する。
「魂の儀じゃ」
ドラシアは咳き込みながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「古より伝わりし、聖剣を復活させる儀式。気高き魂を触媒として捧げることで、聖剣は新たな力を得る」
「魂を……触媒に?」
エナが首を傾げる。その意味を理解できずにいた。しかし、次の言葉で全てを悟る。
「つまりは……命を捧げることと同義じゃ」
「命を……!?」
衝撃的な事実に、四人は言葉を失う。夜風が吹き抜け、木々が不吉な音を立てる。
「そんな……! では、誰かが犠牲に……?」
レイレイの声が震える。
その時、ドラシアの表情が変わる。苦痛に歪んだ表情から、静かな決意に満ちた表情へと。
「ワシが行こう」
「ダメです!」
ユクトの絶叫が、夜の闇を引き裂く。
その声には、これまでに聞いたことのないような悲痛さが込められていた。
「ししょーは今でさえこんなに傷ついているのに! これ以上、ししょーに無理をさせるわけには……!」
ユクトは必死にドラシアの袖を掴む。
大粒の涙が、月明かりに照らされて輝きながら頬を伝い落ちる。
「お願いです……ボクにはまだ、まだ教わりたいことが山ほど……! ししょーの技も、知恵も、もっと……もっと学びたいですです!」
その言葉に、ドラシアの表情が柔らかくなる。
血に濡れた手で、優しくユクトの頭を撫でる。
「ユクト」
その声は、これまでに聞いたことのないほど温かく、慈愛に満ちていた。
「お主は既に立派な戦士じゃ。レイレイを守る強さも、仲間を想う優しさも、全てを身につけた。もう……ワシが教えることなど何もない」
「ち、違いますです! ボクはまだまだ半人前で……!」
「ユクト」
ドラシアの声が、いつになく厳かな響きを帯びる。
「お主は、ワシの最高の弟子じゃ。人を想う心、仲間を守る勇気、全てを身につけた。今のお主を見ていると……ワシは誇りしか感じぬ」
その言葉に、ユクトの涙が更に溢れ出す。
「近くの鍛冶場を借りよう。そこで儀式を……」
ドラシアが一歩を踏み出した瞬間、膝が折れる。
血の滴りが、石畳の上で小さな音を立てる。
「ししょー!」
ユクトが慌てて支えるが、ドラシアは静かに首を横に振る。
「大丈夫じゃ。これしき、問題ない」
立ち上がる時、血の滴りは更に濃くなる。
しかし、ドラシアの瞳には強い意志の光が宿っていた。
鍛冶屋に着くと、ガルドは既に待っていた。
普段の無骨な表情は影を潜め、深い悲しみの色を浮かべている。
炉の火が赤々と燃え、その光が工房内の武具を不気味に照らしていた。
「準備は整えた」
ガルドの声も、いつもの力強さを失っていた。
工房の中央には、特別な炉が用意されていた。普段の仕事で使うものとは異なり、古の文字が刻まれ、神聖な雰囲気を漂わせている。
「エクスカリバーの欠片を、炉に」
ヴァリアが震える手で欠片を投げ入れると、青白い光が工房内を満たす。炎が大きく揺らめき、まるで生き物のように蠢き始めた。
「……これより、儀式を始める」
ドラシアは片膝をつき、古の言葉を唱え始める。
その声は低く、どこか神々しい響きを帯びていた。
血に濡れた体からは、淡い光が漏れ始める。
工房内の空気が震え、目に見えない魔力が渦を巻く。炉の中のエクスカリバーの欠片が、次第に輝きを増していく。
「皆の者、よく聞け」
儀式の最中、ドラシアは静かに語りかける。
その声は弱々しくも、確かな強さを秘めていた。
「レイレイ。お主の精霊魔法は本物じゃ。精霊たちを導く者として、誇りを持って生きよ」
「は、はい……!」
レイレイの返事に、抑えきれない涙が混じる。
「エナ。お主の強さは、決して見せかけのものではない。マオを救えるのは、きっとお主じゃ」
「ドラシアさん……」
エナは、深々と頭を下げる。
涙が石畳を濡らす。
「ヴァリア。勇者の血を引く誇り高き戦士よ。新たな聖剣を託すのは、お主しかおらぬ」
ヴァリアは黙って頷く。
その瞳には、固い決意の色が宿っていた。
「そして……ユクト」
最後の言葉を紡ぐ時、ドラシアの声が僅かに震える。
それは痛みからではなく、深い愛情からくるものだった。
「お主は……ワシの誇りじゃ。最高の、最愛の弟子じゃ」
その瞬間、ドラシアの体が鮮やかな光に包まれ始める。
血に濡れた姿が、光の粒子となって宙に舞い上がる。
「さらば、愛しき者たちよ」
最後の言葉と共に、光の粒子が炉の中へと吸い込まれていく。
ドラシアの体は完全に消え、代わりに炉の中で眩い光が渦巻いていた。
工房内が白い光に包まれる。
それは、まるで夜明けの光のように温かく、清らかだった。
光の中で、エクスカリバーの欠片が一つに結集していく。
最後の光が消えた時、炉の中には一振りの剣が横たわっていた。
それは以前のエクスカリバーとは異なる、より気高い輝きを放っている。
「これが……新たな聖剣」
ヴァリアが恐る恐る手を伸ばす。
その瞬間、剣から不思議な声が響いた。
「リボルカリバー」
その声は、確かにドラシアのものだった。
しかし、どこか若々しく、生まれ変わったような響きを持っている。
剣の中から、二つの魂が姿を現す。
少女の姿に戻ったドラシアと、エクスカリバーの触媒となった青年イクス。
二つの魂が、淡く輝きながら浮かび上がる。
「随分と、待たせたな」
ドラシアの声が、優しく響く。
「ドラシア……俺は……」
イクスは恥ずかしそうに俯く。
その横顔には、青年らしい初々しさが残されていた。
「……バカ」
ドラシアの言葉には、これまでにない愛おしさが込められている。
その一言を言い終えると、少女の姿に戻ったドラシアは、頬を赤く染めながら顔を背けた。
長年胸の内に秘めていた想いを一言に込めたことで、龍族の長としての威厳も、年長者としての落ち着きも、全てが崩れていく。
その仕草があまりにも愛らしく、イクスは思わず柔らかな笑みを浮かべる。
生前、一度も見ることのなかった彼女のそんな表情。
魂となり、本来の少女の姿に戻ったドラシアだからこそ見せる、純粋な感情の表出。
それは彼の心を、これまでにない温かさで満たしていった。
二人の魂が放つ淡い光が、まるで寄り添うように揺らめく。
その光は、言葉では表現できない深い絆を、静かに物語っていた。
工房の窓から差し込む朝日が、二つの魂をよりいっそう輝かしく照らし出す。
かつて伝えられなかった想い。
心の奥底に秘めていた感情。
全てが、この瞬間に昇華されていった。
聖剣リボルカリバーの誕生。
それは、一人の龍族の犠牲によって生まれた希望の光。
マオを救うための、最後の切り札となったのだった。
朝日に照らされた工房で、四人は固く誓う。
ドラシアの想いを無駄にせず、必ずマオを闇から救い出すことを。
新たな聖剣に宿った二つの魂が、その誓いを静かに見守っていた。
空が白みはじめ、新たな夜明けが訪れる。
それは、戦いの始まりを告げる光でもあった。




