80:彼女たちの選択
月明かりに照らされた廃墟の中で、四人の姿が浮かび上がる。
レイレイ、エナ、ヴァリア、そしてユクト。
全員が息を切らせながら、目の前の光景に言葉を失っていた。
黒い靄に包まれ、宙に浮かぶマオの姿は、もはや彼女たちの知る少女のものではなかった。
額から生えた漆黒の角は月光を吸い込み、紅く染まった瞳からは金色の輝きが漏れ出ている。
全身を包む魔力のドレスは、闇そのものが具現化したかのように揺らめいていた。
「マオちゃん……」
レイレイの声が震える。
親友の変わり果てた姿に、言葉を詰まらせる。
「ようこそ、私の故郷へ」
マオの声は低く、響くような音色を帯びていた。
かつての明るい声色は微塵も残っていない。
「ベルカナンのおかげで、全ての記憶を取り戻したわ。この村で起きた全てを、私の記憶を奪われた理由を」
「記憶を……取り戻した?」
エナが驚きの声を上げる。
しかし、マオは冷たい笑みを浮かべるだけだった。
「そう。私は騙され、利用され、全てを奪われた。だからこそ今度は、この世界の全てを破壊し尽くす」
「違いますわ、マオさん!」
エナが一歩前に出る。
彼女の声には、必死の思いが込められていた。
「記憶を取り戻したからといって、今までの絆まで否定することはありませんわ。演習場で一緒に戦った日々、クッキーを作った思い出、全てが本物だったはずですわ!」
エナの目から涙が零れ落ちる。
その一粒一粒が、月明かりに反射して輝いていた。
「絆、ですって?」
マオは嘲るように言う。
その声には、かつての温かみは微塵も残っていなかった。
「貴様たちなど、我が力の前では塵芥に過ぎぬ。かつての記憶など、意味を持たぬ」
「まおー殿! そんな言葉遣いは似合いませんです!」
ユクトが叫ぶ。
彼の声には、純粋な憤りが込められていた。
キツネ耳を激しく震わせながら、マオに向かって訴えかける。
「ボクは知っていますです。まおー殿は優しい方。たとえ過去を取り戻しても、みんなのことを大切に想う気持ちは変わらないはずです。魔物から学園を守るため、自分の命も顧みず戦った方。それなのに、どうして……!」
「ユクト……黙れ」
一言と共に、マオが手を翳す。
黒い靄が渦を巻き、ユクトの体を打ち付ける。
獣人の体が、まるで人形のように宙を舞う。
「がっ!」
壁に叩きつけられる音が、廃墟に響き渡る。
「ユクト君!」
レイレイが駆け寄る。
しかし、ユクトは既に立ち上がっていた。
獣人特有の瞬発力で、すぐさま体勢を立て直す。
口元から血を拭いながら、再びマオを見据える。
「やっぱり……力ずくでマオちゃんを取り戻すしかないみたいだね」
レイレイの手から、魔法陣が展開される。
精霊たちの力を借り、風と雷を操る術式を組み上げていく。
魔法陣の輝きが、夜の闇を押し返すように明るく光る。
エナも拳銃を構え、マオに照準を合わせる。
魔力を込めた弾丸が、青白い光を放っている。
その手が微かに震えているのは、親友に銃を向けなければならない現実への抵抗か。
ユクトは低い姿勢から、マオへの距離を詰めていく。
体術による近接戦で、少しでもマオの動きを止めようという魂胆だ。
尻尾を大きく揺らし、バランスを取りながら最適な位置を探る。
「仕方ありませんわね。マオさん、少し痛いかもしれませんけど……記憶を取り戻しても、あなたはあなたのまま。私たちの大切な友達なのですから」
エナが引き金を引く。
青白い弾丸が、マオに向かって放たれる。
弾丸は通常の軌道ではなく、蛇行しながらマオに迫る。
同時に、レイレイの魔法陣から眩いほどの稲妻が迸る。
「精霊さん! 私に力を!」
レイレイの叫びと共に、稲妻は更に強さを増していく。
漆黒の空に、青白い光が走る。
ユクトも瞬時にマオの懐に飛び込む。
獣人の俊敏性を活かした体術で、マオの動きを止めようとする。
三方向からの攻撃。
これなら少しは効果があるはずだった。
しかし――。
「愚かな試みよ。我を止められると思ったの?」
マオの周りの黒い靄が、渦を巻くように広がる。
弾丸は靄に吸い込まれ、稲妻は地面に逸れ、ユクトの体術も靄に阻まれる。
まるで、全ての攻撃が無効化されたかのようだった。
「この程度の力で、記憶を奪われ、家族を殺された私の怒りが止められると?貴様らの全てが、余りにも弱すぎる」
マオが両手を広げる。
黒い靄が三人を包み込み、まるで触手のように締め付けていく。
それは単なる力ではなく、魂を絞めるような感覚すら伴っていた。
「くっ!」
「うっ! 苦しい……!」
「うぐっ! まおー殿、まだ、ボクたちの声が……!」
三人の苦痛の声が重なる。
その時、地面に落ちていた聖剣が、ヴァリアの目に留まった。
「エクスカリバー……!」
ヴァリアは咄嗟に聖剣を掴む。
その瞬間、温かな光が彼女の体を包み込む。
『若き勇者よ。我が力を使うがよい。マオは記憶を取り戻し、その痛みに溺れておる。しかし、まだ完全には魔王に飲まれていない。その証拠に、致命傷を与えるような攻撃は避けているのだ』
エクスカリバーの声が、ヴァリアの心に直接響く。
その通りだ。今のマオの攻撃は、相手を殺すまでには至っていない。
どこかで、まだ友を傷つけまいとする意識が働いているのかもしれない。
「マオ! 確かにお前は酷い目に遭った。でも、復讐に走ることが、本当にお前の望みなのか!」
ヴァリアは剣を振り上げる。
聖剣から放たれる光が、黒い靄を切り裂いていく。
レイレイ、エナ、ユクトを拘束していた靄が解かれ、三人は地面に崩れ落ちる。
「ほう」
マオの表情が、僅かに変化する。
それは興味を示したような、そして同時に愉悦を感じているような表情だった。
「勇者の末裔か。その聖剣は確かに、我を傷つけ得る存在だ。この力で、私の復讐を止めようというの?」
漆黒のドレスが風に揺れ、マオの姿がより威厳を増す。
「では、その聖剣で我を倒してみせよ。貴様に、その資格があるものならばな」
「ああ、その通りだ」
ヴァリアは剣を構える。
エクスカリバーが、彼女の決意に呼応するように輝きを増す。
「お前を……記憶に囚われたマオを、取り戻す!」
ヴァリアの一撃が、マオめがけて放たれる。
聖なる光の剣筋が、夜空に弧を描く。
その軌跡は、まるで流星のようにも見えた。
しかし。
「無駄な努力だ。貴様に私は救えない」
マオは片手で、その一撃を受け止めた。
黒い靄と聖なる光が激突し、轟音が響き渡る。
衝突した場所から、光と闇が火花のように散る。
「な……んだと!」
「我は既に、聖剣程度では倒せぬ存在となった。この世界そのものを支配する者、それが今の我だ。全てを奪われ、全てを取り戻した今の我には、誰も立ち向かえはしない」
その言葉と共に、マオの手から漆黒の魔力が放たれる。
エクスカリバーに亀裂が走る。
剣身を走る光が、まるで悲鳴を上げているかのように明滅する。
『若き勇者よ! 早く離れるのだ! 我が力では、もはやマオを止められぬ! 記憶を取り戻した彼女の中で、魔王の力が暴走しているのだ!』
しかし、エクスカリバーの警告は遅かった。
剣身に走った亀裂は瞬く間に広がり、ついには大きな音を立てて砕け散る。
光の欠片が、夜空に舞い散る。
その光景は、まるで星屑のようにも見えた。
「エクスカリバーが……!」
破壊された聖剣の柄を、ヴァリアは震える手で握りしめる。
最後の希望が、目の前で消え去ってしまった。
「さて、貴様らの最期だ。私の過去を知った以上、生かしては置けぬ」
マオが両手を広げる。
黒い靄が渦を巻き、四人に襲いかかろうとする。
その時――。
「このままでは死ぬぞ、若者たち」
低く落ち着いた声が響く。
四人の前に、龍族の長であるドラシアが立ちはだかる。
赤みがかった髪が風に揺れ、漆黒の角が月光に輝いている。
「ししょー!」
ユクトが安堵の声を上げる。
ドラシアは短く頷くと、マオの方へ向き直る。
「マオよ。封印されていた記憶を取り戻し、その痛みに溺れておるのは分かる。じゃが、その悲しみに飲み込まれてはならぬ」
「黙りなさい。あなたに何が分かるというの」
マオの声が低く唸る。
黒い靄が、より濃くなっていく。
「私の村は焼かれ、父は殺され、記憶まで奪われた。その全てが……全てがベルカナンの計画だったのよ。そして、その痛みの果てに私は気付いた。この世界そのものが、間違っていたのだと」
「その通りじゃ。世界は確かに残酷じゃ。じゃがな」
ドラシアは杖を地面に突く。
魔力の波動が、廃墟を包み込んでいく。
「その世界で、お主は確かな絆を育んだはず。魔王の記憶に溺れるな」
「うるさい!」
マオの怒声と共に、黒い靄が爆発的に広がる。
ドラシアは自身の魔力で壁を作り、その攻撃を防ぐ。
「若者たち、急いで逃げるのじゃ。今のお主たちでは、記憶と魔王の力、その両方に囚われたマオには敵わぬ」
「でも! マオちゃんを、このまま!」
レイレイが抵抗しようとするが、エナが彼女の手を強く握る。
エナの瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。
「行きましょう、レイレイさん。マオさんの記憶の重さを、私たちはまだ理解できていない。今は……退くしかありませんわ」
エナの声には深い悲しみが滲んでいた。
ヴァリアも壊れた聖剣の柄を握りしめながら、歯を食いしばる。
「マオ……必ず、お前を闇から救い出す」
四人は、ドラシアの後ろに隠れるようにして後退していく。
マオがその動きを止めようと手を翳すが、ドラシアの魔力の壁がその攻撃を防ぐ。
荒れ果てた道を、四人は全力で走る。
背後では、ドラシアとマオの魔力がぶつかり合う轟音が響いていた。
月明かりの下、彼女たちの影が地面に長く伸びる。
逃げながら、レイレイは振り返る。
そこには、かつての親友の姿はもうなかった。
黒い靄に包まれ、紅い瞳を輝かせるマオの姿は、もはや魔王そのものだった。
記憶を取り戻し、全ての真実を知ったマオ。
しかし、その真実は彼女を深い闇へと導いてしまった。
魔王の力に身を委ね、復讐の道を選んだ親友を、どうすれば救えるのか。
その答えを見つけ出すまで、彼女たちの戦いは続く。
廃墟となった村に、新たな悲劇の幕が下りようとしていた。
そして、それは世界を覆う混沌の始まりでもあった。




