79:呪われし者の最期
黒い靄が渦を巻く中、マオの姿は完全に変貌を遂げていた。
額から生えた漆黒の角は月光を吸い込むように輝き、紅く染まった瞳の奥には金色の輝きが宿っている。
全身から溢れ出る魔力は、ドレスのように彼女の体を優雅に包み込み、その姿はまさに闇夜の女王そのものだった。
その佇まいは、もはや人間のそれではない。
しかし、完全な魔物とも異なっていた。
気高さと残虐性を併せ持つ、魔王としての威厳に満ちた存在。
それが、いま目の前に立っている。
「ついに……ついに魔王様が目覚められた! ああ、なんという喜びでしょう!」
ベルカナンは恍惚とした表情で両手を広げ、歓喜の声を上げる。
その瞳には狂信的な光が宿り、長年の夢が叶った喜びに全身を震わせている。
彼女は片膝をつき、まるで女王に跪くかのような仕草を見せた。
「魔王様、私の全ての想いが、ついに実を結びました。この瞬間のために、私は全てを……」
「黙れ」
マオの声は低く、響くような音色を帯びている。
その一言で、周囲の空気が凍りつくように感じられた。
風が止み、夜の闇さえもが息を潜めたかのようだった。
「貴様の声を聞くたび、我の心が穢される」
「え……? 魔王様、どうして……」
「ベルカナン」
マオは一歩、廃墟の地面を踏みしめる。
その足音は、死神の足音のように不吉な響きを放っていた。
「我が人生を弄び、村を焼き、父を殺し、記憶を封印した。そして、エナの記憶まで壊そうとした。よくもまあ、ここまでの蛮行を」
「違います! 全ては魔王様の復活のため。この瞬間のために、私は全てを捧げてきました!」
ベルカナンの声は、まるで恋人に語りかけるように甘く、それでいて狂気を帯びていた。
「教会が焼かれた日から、私は全てを捧げてきたのです。不死の呪いを受け、永遠に生き続ける苦しみさえも……!」
「全てを捧げた、と申すか」
マオの唇が、氷のように冷たい笑みを浮かべる。
その表情には、かつての明るい少女の面影など微塵も残っていない。
「我には見える。貴様の歪んだ『想い』が」
「え……?」
「教会が焼かれた時、貴様は何を思った? 『世界への復讐』だったな。不死の呪いを受けた時は? 『魔王を蘇らせ、世界を滅ぼそう』と」
一歩また一歩と、マオはベルカナンに近づいていく。
黒い靄が渦を巻き、廃墟と化した村の地面が軋むような音を立てる。
「他人の幸せを壊し、記憶を弄び、全ては己の復讐のため。そのような浅ましい行為を『捧げる』などと言い表せると思っているのか」
「違う! 違います! 私は、魔王様のために……!」
「その呪いすらも、結局は己を守るためのもの。死を恐れ、痛みから逃れようとした愚かな人間の策にすぎぬ」
マオの言葉は、鋭い刃のようにベルカナンの言葉を切り裂く。
その瞬間、マオの手が動いた。
漆黒の魔力が渦を巻き、ベルカナンの体を貫く。
「がっ……!」
ベルカナンの体が大きく揺れる。
しかし、その表情には苦痛の色はない。
むしろ、歓喜の色が浮かんでいた。
「ふふ……ついに……私の役目も終わりましたね。魔王様の手によって、この身が滅びるのなら、これほどの喜びはない」
「ほう、そう思っているのか?」
マオは意味ありげな笑みを浮かべる。
その表情には、これから起こる惨劇を予見したかのような残酷さが宿っていた。
「貴様の不死の呪いは解けた。つまり、今まで感じなかった『全ての痛み』が、一度に蘇るのだ」
「え……?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ベルカナンの体が激しく痙攣し始めた。
「うっ……がはっ……!」
突然の激痛が、彼女の全身を襲う。
それは、彼女が不死であった時代に受けた全ての致命傷の痛み。
燃える教会の中で受けた火傷の痛み、戦いの中で受けた無数の切り傷の痛み、そして数えきれない死の痛み。
それらが一斉に、彼女の意識を襲い始めた。
「あ……ああああああっ! お願い、止めて! 誰か、誰か助けて!」
狂気じみた叫び声を上げながら、ベルカナンは地面を転げ回る。
その姿は、もはや気高い聖女のものではなく、一人の哀れな人間のそれだった。
「熱い! 熱いっ! 教会が……教会が燃えている!」
ベルカナンは自分の体を掻き毟りながら、錯乱の叫びを上げ続ける。
「司祭様! シスターたち! 私を置いて行かないで! 一人は嫌だ! 痛い、痛いよ!」
「懐かしき光景よ」
マオは冷淡な目で、地面を転げ回るベルカナンを見下ろす。
「我が村を焼いた時、村人たちもきっとこのように苦しんだであろう。父も、同じように痛みに悶えたはず」
「ごめんなさい……ごめんなさい……! 司祭様、シスターたち、みんな……!」
錯乱の中で、ベルカナンは過去の記憶に囚われていく。
焼け落ちる教会、死んでいった仲間たち、そして自分が犯した数々の罪。
それらの記憶が、彼女の精神を切り裂いていく。
「私は……何を……何のために……」
それが、彼女の最期の言葉となった。
体が完全に朽ち果て、風に舞う灰となって消えていく。
長い年月を生きた不死の魔女は、こうして息絶えたのだった。
マオは、その灰が風に消えるのを見つめながら、静かに目を閉じる。
復讐は果たされた。
しかし、それは新たな破壊の始まりでもあった。
「さあ、次なる段階へ」
黒い靄が更に濃くなり、辺りの空気が重くなっていく。
大地が軋み、木々が枯れ落ち、空が歪んでいく。
魔王の力が、世界そのものを侵食し始めたのだ。
「この歪んだ世界に、相応しき『終わり』をもたらそう」
マオの唇に、再び冷たい笑みが浮かぶ。
彼女の紅い瞳に映るのは、混沌に満ちた新たな世界の幕開けだった。
「全てを壊し尽くし、我が手で新たなる世界を作り上げるのだ」
魔王の時代が、今、始まろうとしている。




