77:とある異世界の、女神のイタズラ
その日、マオは朝から心が弾んでいた。
村の外れの薬草を摘みに行くという任務を、ベルカナンから任されたのだ。
通常ならば、シスターである彼女が自ら採取に向かうところだが、今回は特別にマオに任せてくれたのだった。
それは、マオへの深い信頼の証だった。
「マオなら、きっと上手く見つけられるわ。あなたほど薬草に詳しい子は、この村には他にいないもの」
ベルカナンの褒め言葉に、マオの胸は温かさで満たされていた。
普段から治癒魔法の本を読み漁り、薬草の知識も豊富なマオにとって、この任務は自分の存在価値を示せる絶好の機会だった。
父に認められ、村人たちに感謝される日々。
それに加えて、今度は尊敬するベルカナンからも認められる。
その喜びは、何物にも代えがたかった。
「私に任せて下さい。必ず、良い薬草を見つけてきます」
マオは丁寧にお辞儀をして、村の外れへと向かった。
初夏の陽射しは既に暑く、木々の緑も鮮やかだ。
風に揺れる草花の間を、マオは慎重に歩いていく。
朝露に濡れた草が、彼女の裾を少し湿らせる。
小鳥のさえずりが、静かな山道に心地よく響いていた。
「確か、この辺りに生えているはず……南向きの斜面で、日当たりの良い場所」
治癒魔法の本で読んだ通りの場所を探しながら、マオは周囲を注意深く観察する。
本に書かれていた特徴を、一つ一つ頭の中で確認していく。
そして、日当たりの良い斜面に、ついに目指す薬草を見つけた。
淡い紫色の花が、朝日に照らされて可憐に咲いている。
「見つけた!」
歓声を上げそうになるのを、必死に抑える。
大きな音を立てれば、薬草が持つ繊細な効能が損なわれるかもしれない。
そんなことまで、マオは本で学んでいたのだ。
薬草を丁寧に摘み取りながら、マオは微笑みを絶やさなかった。
一本一本、根を傷めないように注意深く。
茎の角度、土の湿り気、それらすべてに気を配りながらの作業。
ベルカナンの期待に応えられる。
治癒魔法は使えなくとも、こうして少しでも人々の役に立てる。
その喜びが、彼女の心を弾ませ続ける。
青空の下、風に吹かれながらの作業は心地よかった。
時折吹く風が、汗ばんだ首筋を優しく撫でていく。
遠くでは鳥の群れが、悠々と空を舞っている。
そんな平和な光景を目に焼き付けながら、マオは丹念に薬草を摘み続けた。
かごいっぱいに薬草を摘み終えると、マオは村への帰路についた。
初夏の陽気に照らされた道を、軽やかな足取りで歩く。
かごの中では、丁寧に摘まれた薬草が、微かに甘い香りを漂わせている。
今日も父に、良い報告ができる。
きっと父は、いつものように優しく微笑んでくれるはず。
そんな些細な幸せを噛みしめながら、マオは歩みを進めた。
しかし、村に近づくにつれ、異様な気配が漂ってきた。
まず、鼻をつく異臭。
空に黒い煙が立ち昇り、風に乗って焦げた匂いが運ばれてくる。
そして、普段なら聞こえるはずの村の生活音が、まったく聞こえてこない。
代わりに、かすかに聞こえてくるのは、悲鳴のような音。
「まさか……!」
不吉な予感が、マオの背筋を凍らせる。
足を速めるマオ。
小走りから全力の疾走へ。
心臓が早鐘を打ち、不安が胸の内で渦巻いていく。
村の入り口に辿り着いた時、彼女の目に映ったのは、想像を絶する光景だった。
それは、まるで地獄絵図のようだった。
炎に包まれた家々。
赤い炎が、灰色の煙を空へと吐き出している。
血を吹き出して地面に倒れ込む村人たち。
悲鳴と炎の音が入り混じり、平穏だった村は一瞬にして修羅場と化していた。
炎の熱が、マオの頬を焦がす。
「どうして……こんな……」
かごから薬草をこぼしながら、マオは震える足で村の中へと踏み入れる。
見慣れた景色が、全て赤と黒に塗り替えられていく。
噴水のある広場には、無残な姿で倒れている村人たちの姿。
行商人のアダムも、いつも挨拶を交わす隣家のミラおばあちゃんも、誰もが動かない。
世界が、マオの知る色を失っていく。
燃え上がる炎。
上がり続ける黒煙。
地面に広がる赤い血の海。
崩れ落ちる家々の音。
全ての感覚が、マオの心を引き裂いていく。
「父さん……父さんは!」
我が家を目指して走り出すマオ。
しかし、その家も既に炎に包まれ、半ば崩れ落ちていた。
玄関の前には、大きな体が横たわっている。
その姿を見た瞬間、マオの心臓が止まりそうになった。
「父さん……?」
血の海の中に横たわる父の姿。
伐採師として鍛えられた大きな体は、今は冷たく、動かない。
開いた目は虚ろで、もう二度と娘を見つめることはない。
朝、最後に交わした言葉が、マオの耳に蘇る。
「行ってきます」という自分の声。
「気をつけてな」という父の返事。
あの何気ない会話が、最後になるなんて。
「嘘……嘘だよね……父さん、起きて……!」
マオは父の体に触れようとした。
その時、背後から聞き慣れた声が響く。
優しく、温かく、そして何より信頼していた声。
「まあ、マオさん。無事でしたのね」
振り返ると、そこにはベルカナンが立っていた。
いつもと変わらない優しい微笑み。
清楚な黒いローブ。
胸元で輝く銀の十字架。
しかし、その姿は燃え盛る炎を背に、どこか禍々しく見えた。
まるで、死神のような佇まい。
「ベルカナンさん! 早く逃げないと! 村が、村が襲われて――」
「ふふ、逃げる必要はありませんよ」
ベルカナンは、ゆっくりとマオに歩み寄る。
その足取りには、いつもの優雅さが残されていた。
しかし、その一歩一歩が、まるで運命の重みを帯びているかのように、重く響く。
「だって……このように殺したのは、私ですから」
「え……?」
言葉の意味を理解するまでに、時間がかかった。
目の前にいるのは、確かにベルカナン。
マオが信頼を寄せ、憧れを抱いていたシスター。
治癒魔法の素晴らしさを教えてくれた、優しい導き手。
その彼女が、こんな惨劇を引き起こしたという事実を、マオの心は受け入れることができない。
現実が、歪んでいく。
「どうしてですか……私たちを、こんなに親切にしてくれたのに……いつも優しく教えてくれて、村人たちの病気も治してくれて……」
「それはね」
ベルカナンは、まるで当たり前のことを話すように続けた。
その声音は、マオに治癒魔法を教えていた時と、まったく変わらない。
「魔王様に復活して欲しいからですよ。この世界を滅ぼして欲しい。そのために必要なことなんです」
その言葉に、マオの心が凍る。
魔王。世界の破壊。
それは、マオの読んだ本の中にしか存在しないはずの存在。
人々を苦しめ、世界に混沌をもたらす象徴的な存在。
まさか、それが現実となって自分の目の前に現れるとは。
しかも、自分を導いてくれた師の口から。
「嘘です……嘘だと言って下さい……」
「嘘ではありませんよ。あなたは魔王の生まれ変わり。その力を目覚めさせるために、私はここまでやってきたんです」
ベルカナンの声は、依然として優しかった。
それが、状況をより一層恐ろしいものにしていく。
マオの世界が、音を立てて崩れていく。
「でも……でも……」
マオの声が震える。
目の前で起きている現実が、あまりにも残酷すぎて。
信じていた人が、実は最も恐ろしい敵だったという事実。
それは、マオの心が受け入れられる範疇を超えていた。
「お願いです……もう、止めて下さい……」
その言葉に、ベルカナンの表情が変わった。
優しい微笑みが、一瞬で冷たい失望の色に染まる。
まるで、仮面が剥がれ落ちたかのように。
「止めて……ですって?」
「もう十分です……これ以上は……お願いです」
マオの声には、怒りではなく、ただ悲しみだけが込められていた。
目の前の光景に対する憎しみではなく、ただ純粋な悲しみ。
その反応に、ベルカナンは首を傾げた。
「おかしいですね。本当におかしい」
ベルカナンは、マオを観察するように見つめながら呟く。
「こんな状況で、怒りも憎しみも湧かないなんて。村を焼かれ、父親を殺され、それなのに……本当に魔王の生まれ変わりなのかしら?」
「私は……ただの村娘です。魔王なんて……そんな存在とは関係ありません」
「いいえ、あなたの中に魔王の力が眠っているのは確かです。私には分かります。ただ……」
ベルカナンは、何かを思いついたように目を輝かせた。
その瞳は、狂気の色を帯びていた。
「そうか。このままでは駄目ですね。もっと、闘争心を育まないと」
「え……?」
「安心してください。私にいい考えがあります」
ベルカナンが手をかざす。
その掌から、不気味な紫色の光が放たれる。
マオの心の中で、警報のような音が鳴り響く。
「記憶を封印して、学園に通わせましょう。そこで戦いを学び、闘争心を育てる。そうすれば、きっと魔王の力も目覚めるはず」
「や……やめて!」
「大丈夫です。すぐに終わりますから。痛みは、ほとんどありませんよ」
マオは後ずさりしようとしたが、体が動かない。
ベルカナンの魔力が、既に彼女を拘束していたのだ。
紫の光が、まるで蛇のように彼女の体を締め付けていく。
「お願い! 記憶を消さないで! 父さんのことも、村のことも……全部大切な記憶なの!」
記憶が、一つ一つ消されていく感覚。
父との暮らし。
村人たちとの日々。
本を読んで過ごした時間。
全てが、霧の向こうへと消えていく。
しかし、ベルカナンの決意は固かった。
光が強くなり、マオの意識が遠のいていく。
最後の意識の中で、ベルカナンの言葉が響く。
「さようなら、マオさん。次にお会いする時は、もっと強くなっていてくださいね」
「私の……記憶……父さん……村の、みんな……」
言葉が途切れ途切れになっていく。
意識が霞んでいく中で、マオは必死に記憶にしがみつこうとした。
父との朝食の風景。
村人たちとの穏やかな日々。
本を読んで過ごした静かな時間。
それらの大切な記憶が、まるでガラスが砕け散るように、一つ一つ消えていく。
最後に見た光景は、燃え盛る故郷と、優しく微笑むベルカナンの姿。
その笑顔は、以前と変わらず温かく、それでいて残酷だった。
まるで母親が子供を諭すような、そんな慈愛に満ちた表情。
それが、この状況では最大の皮肉に思えた。
紫の光が、マオの体を完全に包み込む。
意識が闇の中へと沈んでいく。
そして全ては、深い静寂の中へと沈んでいった。
平和な村娘だった記憶。
治癒魔法への憧れ。
穏やかで知的な日々。
それらは全て封印され、まったく別の少女として、マオは新たな人生を歩み始めることになるのだった。




