76:シスター・ベルカナン
記憶は、次の光景へと移り変わる。
村の広場に集まる人々の喧騒。それは、魔法都市からの行商人が訪れる日の風景だった。
「今日も本、持ってきてくれてるかな」
マオは期待に胸を膨らませながら、広場へと急ぐ。
手には、父から託された大切な銀貨が握られていた。
普段は質素な生活を送る父だが、本だけは買うことを許してくれた。
広場には既に多くの村人が集まっており、行商人の荷車を取り囲んでいた。
色とりどりの布や、輝く装飾品、珍しい調味料など、魔法都市からの品々が並ぶ。
しかし、マオの目は本棚のある荷馬車に釘付けになっていた。
「おや、マオちゃん。また来てくれたね」
行商人のアダムは、優しい笑顔でマオを迎える。
白髪交じりの髭を蓄えた中年の男性で、マオはお気に入りの客だ。
「今回も、良い本持ってきましたよ。特にこれなんか」
アダムが取り出したのは、薄い青色の表紙の本だった。
『実践・治癒魔法入門』という文字が、金色で輝いている。
「これは魔法都市の学校で使われてた教科書です。少し傷んでますが、内容は本物ですよ」
「本当に?」
マオは目を輝かせる。
魔法都市は治癒魔法の研究で有名だと聞いていた。
実際の教科書なら、きっと貴重な知識が詰まっているはずだ。
「幾らですか?」
「うーん、新品なら金貨3枚はするんですが……マオちゃんなら、銀貨2枚でいいですよ」
「ありがとうございます!」
マオは大切そうに本を受け取る。
その瞬間、彼女の指先が本の表紙に触れた時、不思議な感覚が走った。
まるで、本の中の知識が自分を呼んでいるような。
家に帰ると、すぐに本を開く。
治癒魔法の基礎理論から、実践的な術式の解説まで、びっしりと書き込まれていた。
挿絵も多く、魔法陣の形や、エーテルの流れまで詳しく説明されている。
「こんな風に、誰かを癒せたら……」
マオは夢見るように呟く。
彼女の書斎には、既に治癒魔法の本が何冊も並んでいた。
特に基礎理論や歴史に関する本を好んで集めている。
実際に魔法は使えなくても、この知識が将来、何かの役に立つと信じていたのだ。
「父さんの腕の傷も、お隣のミラおばあちゃんの腰の痛みも、全部治せたらいいのに」
次第にマオの中で、夢が形作られていく。
いつか術師になって、困っている人を助けたい。
そんな小さな、でも確かな願いが、彼女の心に芽生えていった。
そんなある日のこと。
村に一人の旅人が訪れた。
黒いローブに身を包んだシスター。
銀の十字架を胸元で輝かせ、優雅な立ち振る舞いで村人たちの注目を集めていた。
「あら、あなたが噂の本好きな女の子?」
シスターベルカナンは、広場で本を読んでいたマオに声をかけた。
その声は優しく、温かみのある響きを持っていた。
「私は各地を旅しながら、人々を癒やすことを使命としているの」
「癒やす……術師なんですか?」
マオの目が輝く。
ベルカナンは穏やかに微笑んだ。
「そうね。でも、私の力はまだまだ未熟。だからこうして旅をしながら、学びを深めているの」
「私も、いつか誰かを癒やせるようになりたいんです」
マオは思わず本音を漏らしてしまう。
普段は誰にも話さない夢。
でも、このシスターなら分かってくれる気がした。
「その本は……治癒魔法の本?」
「はい。魔法は使えないけど、少しでも知識を……」
「知識は大切よ。それに、あなたには素質があるわ」
「え?」
「癒やす者に必要なのは、優しい心。あなたの瞳を見れば分かるわ。その中に、人を想う気持ちが満ちているもの」
ベルカナンの言葉に、マオは頬を赤らめる。
初めて、自分の夢を認めてもらえた気がした。
それからというもの、ベルカナンは村に滞在し、毎日のようにマオを訪ねてきた。
治癒魔法の話を聞かせてくれたり、マオの集めた本について語り合ったり。
時には、遠い街の話を聞かせてくれることもあった。
病人が出ると、ベルカナンは実際に治癒魔法を使って助けた。
その姿を見るたびに、マオの憧れは強くなっていく。
村人たちも、この優しいシスターを信頼するようになっていった。
「ベルカナンさんは、本当に素晴らしい魔法が使えるんですね」
「ふふ、あなたにも必ずその力は備わっているわ」
マオは、このシスターの存在に心惹かれていった。
外の世界を知る人物との出会いは、彼女にとって新鮮な喜びだった。
そして何より、自分の夢を真剣に聞いてくれる存在。
それは、マオにとって特別な意味を持っていた。
ベルカナンは完璧だった。
優しく、知的で、人々を癒やすことを使命とする聖女として。
そして、誰よりもマオの心に寄り添う理解者として。
だが、この出会いは運命の糸を大きく揺さぶることになる。
記憶は更に先へと続いていく。
そこには、マオの心を大きく揺さぶる、残酷な真実が待ち受けているのだった。




