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75:記憶の中の、違う私

 頭痛と共に、記憶が溢れ出す。

 それは、マオの知らない日常の光景だった。


 朝もやの立ち込める村。

 小鳥のさえずりが、静かな空気を震わせている。

 まだ薄暗い空の下、一軒の質素な石造りの家の中で、少女が目を覚ました。


「今日もいい天気だな……」


 優しい声で独り言を呟く少女。

 それは紛れもなくマオだったが、今の彼女とは全く異なる雰囲気を纏っていた。

 長い黒髪は綺麗に整えられ、シンプルな麻のワンピース姿も端正だ。

 彼女は慌てることなく、ゆっくりと支度を始める。


「父さんを起こさないと」


 服の襟を正し、マオは父親の部屋へと向かった。

 階段を上がる足音も控えめで、まるで別人のような所作だ。

 今の彼女からは想像もできないような、物静かな立ち振る舞い。


「父さん、朝だよ」


 木製のドアをそっと叩いて、優しく声をかける。

 中からは、まだ寝ぼけた様子の返事が聞こえてきた。


「ん……ああ、マオか。すまないな、また寝過ごしてしまった」


「いいよ。昨日は夜遅くまで仕事だったもの」


 マオはキッチンへと向かう。

 朝食の支度を始めながら、彼女は記憶の中の父親の姿を思い返していた。

 伐採師として働く父は、村一番の腕の良さで知られていた。

 山で育つ魔法の木を見分け、適切に伐採する難しい仕事だ。

 しかし、その日々の労働は過酷で、体には常に疲れが溜まっている。


「今朝はスープと、昨日の残りの煮込み。あと、父さんの好きな燻製も」


 手際よく朝食を用意するマオ。

 その動きには無駄がなく、長年の経験が滲み出ている。

 台所仕事に慣れた手つきで、皿に食事を盛り付けていく。


 記憶の中のマオは、どこか儚げな雰囲気を漂わせていた。

 しかし、その瞳は知的な光を湛えている。

 空き時間には本を読み、知識を蓄えることを日課としていたのだ。


「マオ、いつも悪いな」


 父が食卓につく。

 その大きな背中は、長年の労働で少し丸くなっていた。

 手には深い傷跡が刻まれ、指の関節は太く固くなっている。


「何言ってるの。私にできることは、これくらいしかないんだから」


 マオは父の隣に座り、静かにフォークを取る。

 その所作には、知的な落ち着きが感じられた。


「そうだな。お前がいてくれて、本当に助かっている」


 父は優しく微笑む。

 その表情には、娘への深い愛情が滲み出ていた。


「でも、お前には学園に行かせてやりたかったんだがな」


「そんな贅沢なこと、考えたこともないよ」


 マオは微笑みを絶やさず答える。

 しかし、その瞳の奥には、かすかな寂しさが浮かんでいた。


 彼女の小さな書斎の片隅には、本が積み上げられている。

 村で手に入る本は限られているが、行商人から借りられるものは全て読破していた。

 特に魔法や剣術の本を好んで読んでいたという。

 実際に使うことはできなくても、知識として蓄えておきたかったのだ。


「今日は村の用事があるね」


「ああ。でも、お前に任せっきりで申し訳ない」


 村の用事。それは、村の共同作業や雑用を引き受ける仕事だ。

 マオは父の代わりに、その仕事を担っていた。

 重労働は避けられているものの、朝から晩まで様々な仕事をこなす必要があった。


「お手伝いの仕事、私なりに楽しんでるよ」


 確かに、マオは仕事を楽しんでいた。

 村人たちと接する機会は、彼女にとって大切な社交の場でもあった。

 特に、お年寄りたちの昔話を聞くのが好きだった。

 その中には、魔法や魔物についての話も多く含まれていて、マオはそれらを熱心に覚えていったという。


「でも、マオ。もっと自分の時間を……」


「父さん。私は今の生活で十分だよ」


 マオは父の言葉を遮るように告げる。

 その声には、強い意志が込められていた。


「ただ、少しだけ。本を読む時間は欲しいかな」


 そう言って、マオは小さく笑う。

 その表情には、書物から得られる知識への純粋な憧れが映し出されていた。


 記憶の中のマオは、決して不幸ではなかった。

 父との温かな生活があり、村人たちとの交流があり、本を通じて世界を知る喜びがあった。

 それは、つましくも充実した日々だった。


 朝食を終えると、マオは身支度を整える。

 髪を丁寧に編み込み、実用的な服に着替える。

 仕事に出かける準備を、手慣れた様子で進めていく。


「行ってくるね」


 父に軽く手を振って、マオは家を出る。

 朝日が昇り始め、村が徐々に活気づいていく。

 石畳の通りを行き交う村人たちが、マオに声をかける。


「おはよう、マオちゃん」


「今日もよろしくね」


「いつも助かってるよ」


 マオは、それぞれに優しく挨拶を返していく。

 その姿からは、知的な佇まいが感じられた。


 村の中を歩きながら、マオは時折立ち止まって空を見上げる。

 遥か遠くにある学園のことを、きっと想像していたのだろう。

 高くそびえる塔と、その周りを舞う魔法の光。

 村人から聞いた話では、そこでは選ばれた者たちが魔法を学んでいるという。

 しかし、その表情に後悔の色はない。

 ただ、静かな憧れを胸に秘めているだけだった。


「さて、今日も頑張ろう」


 マオは深く息を吸い、背筋を伸ばす。

 そして、一日の仕事に向かって歩き始めた。

 その足取りは軽く、充実感に満ちていた。


 この記憶の中のマオは、現在の彼女とは全く異なる人生を送っていた。

 学園には通えず、魔法も使えず、剣も振るえない。

 しかし、その分、知識を蓄え、教養を身につけ、内面の美しさを磨いていた。

 それは、もう一人のマオの人生だった。


 朝もやの中を歩む少女の姿が、次第に霞んでいく。

 それは確かに存在した記憶。

 しかし、何者かによって封印され、忘れ去られていた日々。

 その記憶が今、鮮明に蘇ってきたのだった。


 記憶の中の光景は、まるで古い絵本のように、一コマ一コマが鮮やかに浮かび上がる。

 それは、マオが失っていた自分自身の一部。

 穏やかで、知的で、優しさに満ちた少女の姿。

 その記憶は、現在のマオの心を大きく揺さぶっていった。

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