74:故郷の果てに
三日目の夕暮れ時、マオは山々を抜け、ついに谷間の村へとたどり着いた。
疲れ切った足を引きずりながら、彼女は村の入り口に立っていた。
空は茜色に染まり、長く伸びた影が彼女の足元から伸びている。
三日間の山道は、想像以上に過酷なものだった。
食料は底を尽き、水筒の中身も残りわずか。
それでも、ここまで来られたのは、聖剣の導きがあったからだろう。
途中、何度も迷いそうになった山道で、エクスカリバーは正しい道を示してくれた。
しかし同時に、魔王の誘惑との戦いも続いていた。
山を登るたびに聞こえてくる魔王の囁き。
その度に頭痛に襲われ、時には立ち止まることもあった。
それでも、マオは前に進み続けた。
自分の出生の謎を解くため、そして魔王に頼らない道を見つけるために。
「ここが……私の故郷」
声に力はなく、それは独り言のように風に溶けていった。
しかし、目の前に広がる光景は、マオの心を凍りつかせるには十分すぎるものだった。
廃墟。
それ以外の言葉では表現できない惨状が、そこにはあった。
倒壊した家々が、朽ち果てた歯のように並んでいる。
屋根は崩れ落ち、壁は焼け焦げ、かつての生活の跡形もない。
錆びついた看板が風に揺られ、キィキィと不気味な音を立てている。
地面には雑草が生い茂り、かつての道さえ分からないほどだった。
廃墟と化した家々の間を、夕暮れの風が冷たく吹き抜けていく。
空には、不吉な黒い鳥の群れが旋回していた。
その鳴き声は、まるで死者の嘆きのようにも聞こえる。
足元には、焼け焦げた木片や、割れた瓦が散乱している。
一歩踏み出すたびに、何かが砕ける音が響いた。
「嘘、でしょ……こんなの……」
マオは震える足で一歩を踏み出す。
砂利を踏む音が、異様なほど大きく響いた。
その一歩が、まるで永遠のように感じられた。
『気をつけろ。この場所には、まだ何かが残っている』
エクスカリバーの警告に、マオは首を縦に振る。
確かに、この廃墟からは生気が感じられない。
それどころか、何か得体の知れない気配が漂っているように感じる。
しかし、その警告の意味を理解する余裕は、彼女にはなかった。
今は、目の前の光景を受け入れることで精一杯だった。
朽ち果てた民家の一つ一つを、マオは丁寧に見て回る。
ここで暮らしていた人々の気配を探すように、瓦礫の中を覗き込む。
朽ち果てた椅子、錆びついたフライパン、割れた人形。
かつてここにあった日常の痕跡が、無残な姿で転がっている。
半壊した家の中に、小さな子供部屋らしき場所があった。
壁には焼け焦げた絵が掛けられ、床には埃をかぶったぬいぐるみが転がっている。
マオはそのぬいぐるみを手に取り、優しく埃を払う。
かつて、このぬいぐるみと一緒に眠った子供は、どうなってしまったのだろう。
考えただけで胸が締め付けられる。
マオは一つ一つの品物に触れ、そこに刻まれた記憶を探ろうとした。
しかし、目に入るのは焼け焦げた家具や、割れた食器の破片ばかり。
生活の痕跡は、全てが燃え尽きていた。
村の中心らしき場所に、噴水の跡が残っていた。
水は涸れ、石造りの装飾は崩れ落ちている。
緑青に覆われた銅像が、無言で空を見上げている。
それでも、かつてはここで子供たちが遊び、大人たちが談笑していたのだろう。
噴水の周りには、踊りを踊った跡のような円形の石畳が残っている。
祭りの日には、村中の人々がここに集まって歌い、踊ったのかもしれない。
そんな光景を想像しようとするが、記憶は何も戻ってこない。
「私の家は……私の家はどこ……? どこかに、何か残ってるはず」
記憶を手繰り寄せようとするが、何も思い出せない。
自分がこの村で生まれ育ったはずなのに、一つとして見覚えのある建物がない。
それどころか、この村での生活の記憶そのものが、霧の向こうにあるようでつかめない。
まるで、誰かが意図的に記憶を消し去ったかのように。
風が吹き抜け、焼け残った柱がきしむ音を立てる。
その音が、まるで村の呻き声のように聞こえた。
夕陽は次第に傾き、廃墟の影が長く伸びていく。
黒い影は次第に濃くなり、マオの足元を飲み込もうとしているかのようだった。
「何かおかしい。私の記憶が……何も……」
マオは頭を抱える。
記憶を探ろうとすればするほど、頭の中が靄がかかったようになる。
まるで、誰かが意図的に記憶を封じているかのように。
頭の中で、記憶の欠片が霧散していく感覚。
それは、あの時のエナの記憶が破壊された時と、どこか似ている気がした。
その時、背後から声が聞こえた。
「お帰りなさい、マオさん」
振り返ると、そこにベルカナンが立っていた。
夕陽を背に、彼女の影が長く伸びている。
その姿は、まるで死神のようにも見えた。
長い黒髪が風に揺れ、その動きは蛇のようにも見える。
「ベルカナン……!」
マオは咄嗟に聖剣を構える。
剣を握る手に力が入り、刃が夕陽に赤く輝いた。
その輝きは、まるで血に染まったかのような色をしていた。
「ここで何を企んでいるの?」
「企むですって? 私はただ、あなたをお迎えに来ただけですよ」
ベルカナンは微動だにしない。
むしろ、慈しむような目でマオを見つめていた。
その表情には、どこか哀しみの色が混じっているようにも見えた。
まるで、これから起こることを予見しているかのように。
「私に近づかないで!」
マオは剣を振るう。
その一撃には、これまでの全ての怒りと苦しみが込められていた。
剣筋は美しく、空気を切り裂いていく。
しかし、ベルカナンは軽やかにその攻撃をかわした。
その動きは、まるで舞踏のようだった。
「そんなに警戒することはありませんよ。私は、あなたに真実を教えに来たのです」
「真実?」
「ええ。この村で、全てが始まったのですから」
「何が、始まったっていうの!」
マオは再び剣を振るう。
今度は横一文字に薙ぎ払うように。
夕陽に照らされた剣が、赤い光の帯を描く。
しかし、ベルカナンは一歩後ろに下がり、その攻撃も躱した。
彼女の動きには、少しの無駄もない。
「あなたの全ての物語が、ここから始まったのです」
「私の……物語?」
剣を構えたまま、マオは問いかける。
その声には、僅かな揺らぎが含まれていた。
何か重要なことが、今まさに明かされようとしている。
そんな予感が、マオの心を締め付けていた。
「でも、私には何も思い出せない。この村のことも、自分の家族のことも……」
「それは当然です。封印されているのですから」
「封印……?」
マオの声が震える。
自分の中の空白。
思い出せない記憶。
全ての謎を解く鍵が、目の前にあるような気がした。
その時、魔王の存在が再び心の中で蠢く。
まるで、今こそが目覚めるべき時だと告げるかのように。
「私が、その封印を解きましょう」
ベルカナンは右手を掲げ、何かの呪文を唱え始める。
その声は低く、まるで地底から響いてくるような響きを持っていた。
空気が震え、廃墟の中に魔力が渦巻いていく。
黒い靄が、ベルカナンの周りを取り巻いていく。
「待って……! 私の記憶を、勝手に――」
マオは剣を振り上げ、ベルカナンに向かって駆け出した。
しかし、既に遅かった。
呪文は完了し、ベルカナンの手から放たれた光が、マオの額に触れる。
その光は、まるで意思を持っているかのように、マオの意識の奥深くへと潜り込んでいく。
「うっ……! あぁっ……!」
激しい頭痛が走る。
まるで、頭の中で何かが砕け散るような感覚。
聖剣が地面に落ち、金属音が響く。
その音は、これから始まる悲劇の序曲のように響いた。
そして――記憶の洪水が、マオの意識を飲み込んでいった。
幼い頃の記憶。
この村での生活。
優しい両親との日々。
母との死別。
父の大きな背中。
平和な日々の輝き。
そして、ある日訪れた破滅。
焼け落ちる家々。
叫び声。
血の匂い。
絶望的な光景。
全てが、鮮明に蘇ってくる。
「あ……ああ……!」
マオは膝をつく。
両手で頭を抱え、うずくまる。
記憶が、まるで熱した鉄のように、彼女の意識を焼き付けていく。
体が震え、冷や汗が額を伝い落ちる。
それは、単なる記憶の再生ではなかった。
封印されていた真実が、彼女の心を根底から揺るがそうとしていた。
「さあ、思い出すのです。全てを」
ベルカナンの声が、どこか遠くで響いているような気がした。
しかし、マオの意識は既に、過去の記憶の渦に飲み込まれていた。
その渦は、彼女の存在そのものを呑み込もうとしているかのようだった。
夕陽は次第に沈みゆき、廃墟となった村を、深い影が覆い始めていた。
その暗闇の中で、マオの封印された記憶が、一つずつ解き放たれていくのだった。
解き放たれる記憶は、彼女の心に新たな闇を刻み込もうとしていた。




