72:一人、進む
日が昇り始める頃、マオは学園の門をくぐっていた。
背中には簡単な荷物を背負い、腰には聖剣を携えている。
振り返れば、まだ眠りに包まれた学園が、朝もやの向こうにぼんやりと佇んでいた。
『お前の選択は……間違いではない』
エクスカリバーが静かに語りかける。
しかし、マオは答えることができなかった。
(ごめんね、みんな。でも、このままじゃ私が消えちゃう)
昨夜の演習場での出来事が、マオの脳裏によみがえる。
魔王の力を使った時の快感と、その後の自己嫌悪。
レイレイの心配そうな表情。
エナとヴァリアの、自分たちが強くなると誓った決意。
そのすべてが、今の彼女を追い詰めていた。
「みんなのために、私は……」
言葉が途切れる。自分がしようとしていることは、本当にみんなのためなのか。
それとも、自分自身を守るための逃避なのか。
その答えは、マオ自身にも分からなかった。
「……行こう」
マオは北東の山々を目指して歩き出した。
ユクトの言葉を頼りに、三つの山を越えた先にある谷間の村。
そこに、自分のルーツがあるはずだった。
最初の山道は、比較的歩きやすかった。
しかし、高度を上げるにつれ、道は険しさを増していく。
岩がごつごつと突き出た山道を、マオは黙々と登っていった。
時折吹く風が、彼女の髪を揺らす。
「あの時、スレインが言ってたことも分かるけど……」
マオは独り言のように呟く。
演習場で魔物と戦った後、レイレイは涙ながらに訴えかけてきた。
『マオちゃんが狂ったように笑うの、怖かった……。まるで、私の知ってるマオちゃんじゃないみたいで』
その言葉を思い出すたび、マオの胸は締め付けられる。
自分でも覚えている。魔物を追い詰める時の異常な高揚感。
自分の中から湧き上がってくる残虐な喜び。
それは確かに、普段の自分ではなかった。
その時、風に乗って、魔王の囁きが聞こえてくる。
『なぜそこまで我の力を拒むのだ?』
「うっ……!」
立ち止まり、マオは頭を抱える。
魔王の声は、まるで心の奥底から湧き上がってくるようだった。
『我の力があれば、お前は誰も失わずに済む。友を守ることもできる』
「違う……! その力を使えば、私が消えちゃう……!」
必死で否定するマオ。しかし、その声は震えていた。
自分でも気付いている。魔王の言葉には、確かな説得力があることを。
『消えるのではない。お前は我と一つになるのだ』
魔王の声は甘く、誘惑的だった。
まるで母親が子供を諭すような、優しさすら含んでいる。
『我々は元々一つの存在。お前が我を受け入れることは、本来の姿に戻ることに過ぎない』
「違う……違う! 私は私で……私のままでいたいの!」
マオは岩に寄りかかり、必死に抵抗する。
額から汗が滴り落ちる。それは単なる疲労からではなく、魔王の誘惑との戦いによるものだった。
『思い出せ。アイミーとの戦いを』
「っ!」
『お前の力では、エナの記憶を守ることすらできなかった。我の力があれば、あんな人形など一瞬で粉砕できたというのに』
記憶が痛みとなって、マオの胸を突き刺す。
エナの虚ろな瞳。
記憶の欠片が砕け散る音。
アイミーの嘲笑う声。
全てが鮮明によみがえってくる。
その時の自分の無力さ。
友を守れなかった後悔。
そして、最後に力を使った時の、あの圧倒的な充実感。
「でも……でも……! 私の中のあなたは、ただ壊すことしか考えていない!」
『それが何か? 弱き者は淘汰される。それが世界の摂理だ』
「違う! 私は……私は誰かを守りたいの!」
『守るためには、時として壊すことも必要なのだ』
魔王の声は次第に大きくなり、マオの意識を支配していく。
それは単なる声ではなく、彼女の血の中を流れる力そのものだった。
『お前にはまだ分かっていない。この力こそが、お前の本質なのだということを』
「私の本質なんかじゃない! 私は……!」
マオは岩を強く握りしめる。
その力で、現実に繋ぎとめようとするかのように。
『ドラシアとの戦いも、デサイスとの戦いも、結局は我の力を借りなければ勝てなかったではないか』
それは紛れもない事実だった。
ドラシアの圧倒的な力の前で、自分がいかに無力だったか。
デサイスとの戦いでも、結局は魔王の力に頼らざるを得なかったこと。
その度に、確かな手応えがあった。
力を使えば、誰でも倒せる。
誰でも守れる。
その誘惑が、少しずつマオの心を蝕んでいく。
「スレイン……エナ……ヴァリア……」
友人たちの顔が浮かぶ。
彼女たちは、自分のことを心配して、必死に強くなろうとしている。
その思いに応えたい。
でも、このままでは自分が消えてしまう。
『さあ、我の力を受け入れよ。そうすれば、もう迷うことはない』
「私は……私は……」
マオの声が震える。
魔王の力は、まるで暗い海の底に彼女を引きずり込もうとするかのように、重く、そして深かった。
『受け入れるのだ。それこそが、お前の運命なのだから』
「運命なんて……運命なんて……!」
叫び声が山肌に響く。
それは抵抗の叫びでもあり、自分を鼓舞する声でもあった。
マオはよろよろと立ち上がる。
魔王の存在が重くのしかかる中、一歩また一歩と前に進む。
故郷へと続く道を、必死の思いで歩き続けた。
山道の途中、一陣の風が吹き抜けていく。
その風は、魔王の誘惑に揺れるマオの姿を、静かに見守っているかのようだった。




