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70:恐ろしき力、呼び覚ます悪夢

 演習場での戦いから数時間が経過していた。

 夕暮れの学園は不気味なほどの静けさに包まれ、寮の廊下にも人気はなかった。

 生徒たちは恐らく、先ほどの戦いの余韻に震えながら、自室に籠っているのだろう。


 マオの寮室に差し込む夕陽は、深い茜色に染まっていた。

 レースのカーテンを通して射す光は、ソファーに腰掛けたマオの青白い顔を浮かび上がらせている。

 普段は活気に満ちた彼女の瞳が、今は虚ろに宙を見つめていた。


 レイレイは友人の異変を案じながら、静かにマオを観察していた。

 午後の戦いの疲れが癒えていないのは明らかで、マオの肩は小刻みに震えている。

 机の上に置かれた紅茶は冷めたまま、一口も手をつけられていない。


「マオちゃん、大丈夫?」


 レイレイの声は、深い憂いに満ちていた。


「うん、もう平気だよ」


 マオは精一杯の笑顔を見せようとしたが、その表情は硬く、どこか不自然だった。

 頬の筋肉が引きつっているのが分かる。

 いつもの明るい笑顔とは似ても似つかない、仮面のような表情だった。


 レイレイは友人の様子を気にかけながら、数時間前の戦いの光景を思い返していた。

 あの時のマオは、まるで別人のようだった。

 黒い靄に包まれた姿は、普段の明るく優しい友人の面影など微塵も感じられなかった。

 残虐な笑みを浮かべながら魔物を殺戮していく姿は、まるで闇そのものが具現化したかのようだった。


 その笑い声が今でも耳に残っている。

 狂気じみた高笑いは、レイレイの心に深い傷を残していた。

 魔物が断末魔の叫びを上げる度に、マオの笑い声は高く、そして歪んでいった。


「でも、マオちゃん。あの魔王の力を使うのは、本当に危険だと思う」


 レイレイの声には切実な懸念が込められていた。

 彼女は椅子から立ち上がり、マオの近くまで歩み寄る。

 カーペットを踏む足音さえ、この静寂の中では大きく響いた。


「私、怖かった。マオちゃんの笑い声が、どんどん狂っていくみたいで……まるで、私の知ってるマオちゃんが消えていくみたいで」


 レイレイの声が震えている。

 親友を失うかもしれないという恐怖が、その声に滲み出ていた。


「そうだったんだ……」


 マオは俯き、自分の手のひらをじっと見つめた。

 その手は、かすかに震えている。

 魔王の力を解放した時の感覚が、未だに体に残っているかのようだった。

 力を使った後の陶酔感と、それに対する嫌悪感が、彼女の中で複雑に絡み合っている。


「でも、スレイン。あの時は仕方なかったんだ。あの子たちを助けなきゃいけなかったから」


 マオの声には弱々しい正当化の響きがあった。

 自分に言い聞かせるような、そんな調子だ。


「分かってる。でも……」


 レイレイは言葉を選びながら、慎重に続けた。

 友人を傷つけないよう、でも大切なことは伝えなければという思いが、彼女の胸の内で葛藤していた。


「魔王の力を使うたびに、マオちゃんが少しずつ変わっていくの。それが、すごく怖いの。私たち、マオちゃんを失いたくないの」


 マオは黙って聞いている。

 レイレイの言葉の一つ一つが、彼女の心に重くのしかかってくる。

 窓の外では鳥の影が過ぎ、一瞬部屋に影が落ちた。


「私も気付いてる」


 マオの声は掠れていた。

 まるで、喉の奥に何かが詰まっているかのように。


「魔王の力を使うたびに、何かが変わっていくんだ。でも、どうしたらいいか分からなくて……」


 彼女は自分の胸に手を当て、そこに潜む異質な存在を感じ取ろうとするかのようだった。

 心臓の鼓動が、通常よりも強く、そして遅く感じられる。

 まるで別の生き物の心臓が、自分の中で脈打っているかのようだ。


「最初は、自分の意思で力を使えてたんだ。でも、今は違う」


 マオの声が震え始める。


「力を使おうと思う前に、体が勝手に動いちゃうの。気付いた時には、もう魔王の力が暴走してて……」


 記憶が断片的になっていく感覚。

 意識が靄がかかったようにぼやけていく感覚。

 それらは確実に増えていた。


「それに、力を使ってる時の記憶が、だんだん曖昧になってきてる。まるで、誰かが私の体を借りて戦ってるみたいで」


 マオは自分の両手を見つめながら、恐怖に震える声で続けた。

 その手は、まるで他人の手のように感じられた。


「私の中で、誰かが目覚めようとしてるの。その存在が、少しずつ私を支配しようとしてる」


 レイレイは、マオの震える肩を優しく抱きしめた。

 温かい体温が、マオの緊張を少しだけ和らげる。


「私、怖いよスレイン。このまま私じゃなくなっちゃうんじゃないかって」


 涙が、マオの頬を伝い落ちる。

 それは、自分を失うことへの恐怖と、戦いの中で感じた暴力的な快感への後悔が混ざり合った、複雑な感情の表れだった。


「私、あの時……」


 マオの声が掠れる。

 告白することへの恐れが、その声を震わせている。


「魔物を殺すのが楽しかったの。力を使えば使うほど、心が高揚して。気が付いたら、笑いながら魔物を追い詰めてた」


 自己嫌悪の色が、マオの表情に浮かぶ。


「私の中にいる魔王は、暴力が好きなの。誰かを傷つけることに、快感を覚えるみたい。そんな存在が、少しずつ私の心を蝕んでいくんだ」


「でも、マオちゃんは魔王じゃない。マオちゃんはマオちゃんだよ」


 レイレイは強い口調で言った。

 その声には、親友を決して手放したくないという強い意志が込められていた。


「私たちがいるでしょう? 私とエナちゃんとヴァリア先輩が、マオちゃんを支えるから」


 レイレイの言葉に、マオは小さく頷いた。

 しかし、その表情には依然として不安の色が残っていた。


「ごめんね、スレイン。私、もう魔王の力を使わないようにする。だって、このままじゃ本当に私が消えちゃいそうで……」


 その言葉を口にした瞬間、マオの心の中に低く冷たい声が響いた。

 まるで氷の欠片が心を切り裂くような、鋭い響きだった。


『本当にそれでいいのか?』


 マオは思わず体を震わせる。

 その声は、まるで自分の心の奥底から湧き上がってくるようだった。

 意識の深層に潜む何かが、ゆっくりと目を覚ましたかのように。


『お前の力じゃ、誰も守れないことを忘れたのか? 友を失うことになってもいいのか?』


 アイミーとの戦いの記憶が、鮮明に蘇ってくる。

 魔王の力を使うことを躊躇った結果、目の前でエナの記憶が破壊されていく様子を、ただ見ているしかなかったあの時の無力感。


 エナの虚ろな瞳と、記憶の欠片が砕け散る音が、マオの脳裏に焼き付いている。

 アイミーの嘲笑う声、エナの切なげな表情、そして自分の無力さ。

 全てが鮮明に蘇ってくる。


『あの時、もっと早く私の力を使っていれば、エナの記憶は守れたはずだ』


 破壊される直前のエナの記憶の欠片。

 あの時、もし少しでも早く決断していれば、親友の大切な記憶は守れたはずだった。

 その後悔が、マオの心を深く抉る。


 そして、ドラシアとの戦いの記憶も押し寄せてくる。

 圧倒的な力の差。

 自分の力では全く歯が立たず、魔王の力を借りなければ勝てなかったあの戦い。

 デサイスとの戦いでも、結局は魔王の力なしでは何もできなかった。


 次々と襲いかかる敵。

 そのたびに、自分の無力さを思い知らされた記憶が、マオの決意を揺るがしていく。


『優柔不断な判断が、お前の大切な人たちを傷つけることになる。アイミーの時のように、また見殺しにするつもりか?』


「う……」


 マオは頭を抱える。

 魔王の声は、彼女の中で最も弱い部分を的確に突いてくる。

 アイミーとの戦いで、エナを守れなかった後悔。

 あの時の無力感が、今の決意を大きく揺るがしていた。


 拳を握りしめる。

 爪が手のひらに食い込むほどの力で。

 でも、その痛みでさえ、心の中の声を消し去ることはできなかった。


「マオちゃん!?」


 レイレイが心配そうにマオを支える。

 マオは必死に笑顔を作り、


「う、うん。大丈夫。ちょっと頭が痛くなっただけ……」


 言葉は空虚に響いた。

 マオは約束した。もう魔王の力は使わないと。

 でも、本当にそれで良いのだろうか。

 また誰かが傷つくことになるのではないか。

 エナの記憶が破壊されたように、今度は取り返しのつかない事態になってしまうのではないか。


 あの時、魔王の力に頼っていれば、エナは苦しまなくて済んだ。

 デサイスとの戦いでも、もっと早く力を使っていれば、犠牲は少なくて済んだかもしれない。

 そんな後悔が、マオの心を蝕んでいく。


 レイレイはマオの手を強く握った。

 その手の温もりが、マオの心を少しだけ落ち着かせる。

 しかし、マオの心の奥底では、魔王の存在が確実に大きくなっていた。

 それは、暗闇の中でゆっくりと目覚めようとする巨大な意思のように、じわじわとマオの意識を侵食し始めていた。


 窓の外では、夕日が沈みかけていた。

 その赤い光が、マオとレイレイの影を部屋に長く伸ばしている。

 その影は、まるでマオの心の中の闇を象徴しているかのようだった。

 レースのカーテンが風に揺れ、影が波打つ。

 それは、マオの心の中で揺れ動く迷いそのものを表現しているかのようだった。

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