69:破られた日常、力を求めて
学園の演習場に、異様な空気が漂っていた。
空は灰色の雲に覆われ、普段なら心地よいはずの風も、今日は妙に冷たく肌を刺す。
今日は通常通り、演習の授業が行われるはずだった。
マオたちは戦闘訓練に備え、演習場に集まっている。
しかし、訓練相手となる魔物が、いつもと明らかに様子が違っていた。
檻の中の魔物たちの赤い瞳が、異様な輝きを放っている。
獣のような呼吸音が、不規則なリズムを刻んでいた。
「マオさん。おかしいと思いませんこと?」
エナが低い声でマオに話しかける。
彼女の瞳には、不安の色が浮かんでいる。
手には既に拳銃が握られており、いつでも戦える態勢を整えていた。
通常、学園の教官が管理する魔物は檻の中で大人しくしている。
しかし、今日の魔物たちは尋常ではなかった。
鋭い爪で鉄格子を引っ掻き、耳障りな金属音が演習場に響き渡る。
獣じみた唸り声を上げながら、檻に体当たりを繰り返している。
まるで、外に出ようとしているかのように。
「うん。今日の子たち、なんか怖いかも」
マオも、魔物たちの異様な様子に首を傾げていた。
普段なら人なつっこい目をしている魔物たちが、今日は明らかに殺意を宿した眼差しを向けてくる。
近くで見守っていたレイレイは、心配そうに魔物を見つめている。
「先生。今日の演習、やめた方が良くないですか?」
レイレイの声には、切実な懸念が込められていた。
しかし、担当の教官はレイレイの心配をあっさりと否定する。
長年の経験から来る過信が、彼の判断を鈍らせていた。
「大丈夫だ。ちゃんと管理している。今までだって問題なく――」
その言葉が終わらないうちに、激しい金属音が響き渡る。
檻の中の魔物たちが一斉に暴れ出し、鉄格子を引き裂くように破壊していく。
教官は慌てて制御の魔法を放つが、魔物たちの体が不気味な紫色に光り、その魔法を無効化してしまう。
「逃げろ!」
教官の叫び声が演習場に響き渡る。
低学年の生徒たちは悲鳴を上げながら、演習場から逃げ出そうとする。
慌てて走る足が縺れ、転んでしまう者もいる。
解き放たれた魔物たちは獲物を見つけた捕食者のように、瞳を血走らせながら生徒たちを追いかけ始めた。
「くっ! このままじゃマズい!」
マオは迷うことなく、聖剣を手に取る。
剣が放つ淡い光が、暗くなりかけた演習場を照らす。
エナは素早く拳銃を構え直し、レイレイは魔法陣を展開しながら詠唱を始める。
三人は本能的に円陣を組み、背中合わせになって魔物たちと対峙する。
「近づけさせないよ!」
マオの声が響く。
彼女は聖剣を振るい、生徒たちに襲いかかろうとする魔物を切り倒す。
剣筋は美しく、魔物の体を両断する。
しかし、一体倒すごとに、その数倍もの魔物が押し寄せてくる。
まるで湧き出るかのように、次々と魔物が現れる。
「まさか、檻の中にこんなにいたとは!」
エナが驚きの声を上げる。
彼女の拳銃から放たれる魔力の弾丸は、青白い光を放ちながら魔物たちを次々と倒していく。
正確な射撃は、エナの実力を如実に物語っている。
しかし、それでも魔物の数は減る気配がない。
レイレイは炎の魔法で魔物たちを焼き払おうとするが、魔物の数が多すぎて追いつかない。
赤く燃え上がる炎が、次々と魔物たちを焼き尽くしていく。
しかし、それも一時的な効果しかない。
三人で懸命に戦っても、なかなか状況は好転しない。
「みんな! このままじゃダメだよ!」
マオの声が焦りを帯びる。
汗が彼女の頬を伝い落ちる。
疲労が蓄積し、動きが鈍くなってきている。
そんな中、彼女の脳裏に、一つの選択肢が浮かぶ。
魔王の力を使えば、この窮地を打開できるはずだ。
しかし、その力を使えば、自分の存在が危うくなる。
マオは一瞬、躊躇いを見せる。
その時、悲鳴が響き渡る。
振り返ると、一人の女生徒が魔物に追い詰められていた。
巨大な魔物が、鋭い牙を剥き出しにして迫っている。
「もう、こんなの――!」
マオの声が荒々しく響く。今までの彼女らしからぬ強い語気に、エナとレイレイは一瞬、動きを止めた。
「え? マオさん?」
エナが不安げに声を上げる。しかし、マオの耳にはその声も届いていないようだった。
「邪魔な魔物は……消えろ!」
マオは魔王の記憶を呼び覚まし、その力を解放する。
瞬間、彼女の周りに黒い靄が立ち込める。マオの髪が揺れ、次第に空を舞い始める。
その靄は徐々に広がり、やがて巨大な闇の波となって魔物たちを飲み込んでいく。
「グルルル……」
魔物たちは危険を察知したのか、一歩後ずさりする。今までの荒々しい様子は消え、恐怖に怯えた獣のように身を縮ませていた。
「逃がさない。一匹残らず、消し去ってやる」
マオの瞳が赤く輝き、その瞳孔が縦に細長く変化していく。彼女の声は低く、どこか別の存在が混ざったような二重音になっていた。
黒い靄は渦を巻きながら、魔物たちに襲いかかる。靄に触れた魔物たちは、まるで溶けるように消滅していく。断末魔の叫びが演習場に響き渡る。
「ハハッ! もがけ! もがけ!」
魔物たちは必死に逃げようとするが、黒い靄は容赦なく追いかける。魔物の体が靄に触れると、まるでロウソクが溶けるように、肉体が崩れ落ちていった。
「マオちゃん、それ以上は……!」
レイレイが叫ぶ。しかし、マオの笑い声は止まらない。
むしろ、その声は次第に大きくなっていく。
「何が『それ以上は』だよ! こんな下等生物、全て消し去ってやる!」
マオの周りの黒い靄が更に濃くなり、渦を巻きながら天へと昇っていく。空が黒く染まり、雷鳴が轟く。
「マオさん! もう十分ですわ! 魔物はもうほとんど倒れましたわ!」
エナが必死に声を上げる。だが、マオの耳には届かない。
「まだ足りない……もっと力を……もっと……」
マオの体が宙に浮かび始める。黒い靄が彼女の体を包み込み、まるで闇の女王のような姿に変貌していく。
その時、レイレイが咄嗟にマオの手を掴んだ。
「マオちゃん! お願い、戻って! 私たちのマオちゃんに戻って!」
レイレイの必死の声が、マオの意識を現実へと引き戻す。
「え……? スレ……イン?」
マオの瞳から赤い光が消え、黒い靄も徐々に薄れていく。
気が付くと、演習場の魔物は一匹も残っていなかった。地面には黒く焦げた跡が残り、空気は死の匂いで充満している。
「ほら見なよ。私の力があれば、こんなの朝飯前……って……あれ?」
突然、マオは自分の言葉に違和感を覚えたように口を押さえた。
「マオさん!」
エナが駆け寄り、揺れるマオの体を支える。その目には深い懸念の色が浮かんでいた。
「う、うん……大丈夫。ありがと、エナ」
マオはようやく正気を取り戻したように、普段の口調に戻る。しかし、その瞳には依然として異質な色が残っていた。
「今のマオちゃん、まるで別人みたいだったよ……」
レイレイが震える声で言う。彼女の目には涙が浮かんでいた。
「そう、でしたわね……まるで、その……」
エナも同意するように頷くが、その後の言葉が紡げない。その声には深い悲しみが滲んでいた。
「ごめん、みんな。でも、これでみんなは助かったから……」
マオは弱々しく笑う。しかし、その笑顔の裏には、どこか打算的な影が見え隠れしていた。
生徒たちは、マオたちの活躍に感謝の言葉を口々に発する。
しかし、レイレイとエナの心配そうな視線は、マオから離れることはなかった。
二人は分かっていた。魔王の力を使うたびに、親愛なる友人が少しずつ変わっていってしまうことを。
演習場には、戦いの痕跡だけが残されていた。
地面には無数の焦げ跡が残り、空気には魔物の消滅した後の異臭が漂う。
そして、マオの心には消えない闇が刻まれていた。
太陽が雲の間から顔を覗かせ、演習場を照らす。
しかし、その光はマオの心の闇を晴らすことはできなかった。
魔王の力を躊躇いなく使ったことは、彼女の中で何かが確実に変化し始めていた。
そして、その変化に気づきながらも、レイレイとエナには、大切な友人を止める術がなかった。




