49:うたかたの夢、一抹の驕り
「レイレイ殿! どうしたですか! レイレイ殿!!」
倒れ込んだレイレイを必死に揺さぶるユクト。
彼女の虚ろな瞳が、何も見ていないかのように空を見つめている。
青ざめた頬、微かに開いた口元からは涎が垂れ、草の上にしたたり落ちていく。
「えへへ……マオちゃん……弱いなぁ……私がいなきゃダメだね……」
レイレイは意味不明な言葉を呟く。
まるで夢の中から聞こえてくるような、か細く掠れた声だった。
「レイレイ殿! よし、こうなったらボクが目覚めさせるです!」
ユクトが奮起する、その時だった。
背後から聞き覚えのない声が響く。
「止めなよ。そっとしておいてあげて。彼女は今、素敵な夢の中なんだから」
「――誰です!?」
風を切るように振り向くユクト。
そこには信じがたい光景が広がっていた。
目の前に佇むのは、水が人の姿を模したかのような不思議な存在。
透明な水でできた肉体は、陽光を浴びてキラキラと輝いている。
まるで、水の精霊が実体化したかのように。
ユクトは思わず息を呑み、一歩後退する。
だがすぐに、事態を飲み込むように瞳を見開いた。
「もしかして……精霊なのですか?」
「ああ。そうだよ。そこの少女に力を与えた者さ」
水の存在は穏やかに告げる。
だが、その声色には冷たさが潜んでいた。
「なら何故! レイレイ殿にこんなことを!」
ユクトの声が、悲痛に森に木霊する。
「人は力に溺れやすいものだよ。幻想の夢を見せれば、誰だって喜んで闇に堕ちるものさ」
水の精霊は涼しい顔で言い放つ。
その青く澄んだ瞳は、ユクトの怒りをあざ笑うかのようだ。
「そんなこと……ありえないです……! レイレイ殿は優しく、強く、力を正しく使える人間です!」
ユクトは拳を握りしめ、全身で精霊を拒絶する。
「ふぅ、それはキミが彼女を特別に思っているからだろう? 恋は盲目、そんな言葉もあるんだよ。キツネ君」
「なっ!? ボクがレイレイ殿のことをどう思おうが関係ないです!」
動揺を隠せないユクト。
精霊の言葉は、彼の心の奥深くに突き刺さる。
「さてと。彼女はもう二度と目覚めないけど、キミはどうする?」
「必ず目覚めさせてやるです! レイレイ殿を必要とする人間がいるです!」
ユクトの瞳が、決意に燃え上がる。
彼は低く身構え、いつでも飛びかかれる態勢を取った。
だが水の精霊は、その様子を見てクスリと笑う。
「キツネ君程度じゃ、精霊に敵わないな。せいぜいドラシアでも呼んできたらどうかな」
「ふざけるなです! ししょーの一番弟子なんですよボクは!」
怒りに任せ、ユクトは一瞬で精霊の懐に飛び込む。
石のように硬く握り締めた拳が、水の体へと叩き込まれた。
しかし、水飛沫が舞うだけで、何の手応えもない。
まるで、水の中に拳を突っ込んだかのようだ。
それもそのはず、泉の水を借りて、精霊は目に見える形で登場しているに過ぎない。
実態がないのだ。
「なっ!?」
拳を見つめ、ユクトが絶句する。
「ほら、無駄だろ?」
精霊が冷笑を浮かべる、その刹那。
目にも留まらぬ速さで、無数の水の刃がユクトに襲いかかる。
「くっ!」
咄嗟に飛び退き、受け流すユクト。
だが、怒涛の追撃は止まない。
「なら、これはどうだい?」
精霊がその言葉を放った瞬間、ユクトの着地点めがけて水の激流が迸る。
避ける間もなく、彼は水流に飲み込まれ、空高く打ち上げられた。
「ぐはっ!」
絶叫と共に、ユクトの体が地面に叩きつけられる。
砂埃が舞い上がり、視界が遮られる中、彼は這いつくばった。
「くっ……レイレイ殿……!」
震える手を精一杯伸ばし、レイレイに触れようとするユクト。
その細い腕を、精霊が残酷にも踏みつける。
「彼女はようやく『人間』になれたんだ。力のない自分には価値がないと、彼女は思い悩んでいた。それがやっと力を得た。力を得た人間がどうなるか、分かるだろう? おしなべて愚かになるんだよ」
「レイレイ殿を……なめないほうがいいです……!」
ユクトが歯を食いしばり、精霊を睨みつける。
「その強がりもいつまで続くか面白いね、キツネ君。キミは早くその聖水を届けた方がいいんじゃないの?」
「レイレイ殿を助けなきゃ……ダメなのです」
膝をつき、なおもレイレイに手を伸ばすユクト。
「精霊魔法を使える人間が稀で、キツネ君の一族と仲が良かったのは分かるけど、それは昔々のおとぎ話さ。今はどうだい? 人間が我が物顔で歩く世界だ。獣人は隅に追いやられてて、いつかは絶滅するよ」
「……分かったです」
ユクトが俯き、小さく呟く。
「物わかりのいいキツネ君は嫌いじゃないよ」
精霊が勝ち誇ったように告げる。
「――です」
「ん?」
顔を上げたユクト。
その瞳は、真っ直ぐに精霊を捉えていた。
「好きです! レイレイ殿のことが! 他に理由なんていらないです!!」
途端、精霊の顔が歪む。
期待した答えではなかったのか、激昂した精霊はユクトを蹴り飛ばした。
「ぐっ!」
地面を幾度と無く転がりながらも、ユクトの瞳は希望の輝きを失っていない。
ようやく止まった彼は、ゆっくりと立ち上がる。
「――すっきりしたです。ボクの本心を言葉にできて」
清々しい表情を浮かべるユクト。
「キツネ君。愛じゃ彼女は救えない」
精霊が冷ややかに言い放つ。
「ボクの愛は届かないかもしれないです……でも、諦めたくないのです!!」
ユクトは強く拳を握り、改めて構える。
レイレイへの想いが、彼の全身に勇気を灯していた。




