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2.とある舞踏会にて

 そしてまた、とある舞踏会でのこと。


「君との婚約を、破棄する!」


 すっかりおなじみになってしまったその言葉に、アリスは凍りついていた。隣でレイモンドが心配そうにしているのも、彼女の目には入っていないようだった。


 それもそのはず、着飾った男女たちに囲まれて大広間のど真ん中で声を張り上げていたのは、アリスのよく知っている人物だったのだ。


「トーマス……また、あなたなの……」


 アリスの震える唇から、そんな言葉がこぼれ落ちる。


 かつてアリスを理不尽に捨てた男、それがトーマスだった。


 そして今彼の向かいに立っている女性、ベスは、アリスが婚約破棄された時にトーマスの隣にいた人物、つまるところ彼の新しい恋人だった。


 けれど今の彼女は、見るも哀れなほどに青ざめている。アリスからトーマスを奪い取ったはいいものの、まさか自分まで捨てられるとは思っていなかったのだろう。


 早く姿を変えて、トーマスを止めなくては。ベスを救わなくては。アリスはそう思ったが、彼女の足はその場に縫いつけられたかのように動かなかった。


 自業自得だ。そんな考えが、アリスの頭の片隅をよぎる。


 どうせトーマスは、婚防法違反で処罰される。第六条三項の規定により、その罰にはかつて私に突きつけた婚約破棄の分も加算される。


 ようやっと彼は自らの行いの報いを受けるのだ。あの日の自分の涙が少しだけ救われる、そんな気がする。


 ベスだってそうだ。あの日、トーマスが私にどんなにひどい言葉を投げつけたのか、その全てを彼女は一番近くで聞いていた。彼がどんな人物なのか、彼女は分かっていたはずだ。


 その上で彼女は、トーマスを選んだ。いずれ自分も捨てられるかもしれない、その可能性に気づいていなかったとは言わせない。だから情けをかける気には、あまりなれない。


 そこまで考えて、アリスは身震いした。自分は愚かな婚約破棄をなくすために、監査委員として日々活動しているのだ。そこにそんな私情を挟むなんて。


 行かなくては。アリスとして立ち尽くすのではなく、エル・シーとして進み出なくては。


 けれど、やはり足は動かなかった。立ちすくんだまま震えるアリスの耳に、静かな声がそっと届いた。


「アリスさん、あなたのかたきは私が取ります」


 それはレイモンドの声だった。いつも優しく穏やかな彼の声は、ひどくこわばっていた。


 はじかれたように、アリスが隣を見る。しかしそこには、ついさっきまでいたはずのレイモンドの姿はなかった。


『そこまでです。トーマス殿、あなたには婚約破棄防止法違反の容疑がかけられています』


 金属質の声が、辺りに響く。いつの間にか、黒装束の者たちがトーマスを囲んでいた。声を上げたのは、ビー・ディーだった。


「婚約破棄防止法……ああ、あれか」


 不敵な笑みを浮かべているトーマスに、ビー・ディーが告げる。いつも冷静なビー・ディーの声が、少しばかり震えていた。

 

『あなたが今宣言した婚約破棄は、処罰の対象となる可能性が高いものです』


 ビー・ディーは静かに、しかし堂々と言葉を紡いでいく。


『そして罰を決定する際には、過去の行い、すなわちあなたがかつてアリスさんに宣言した婚約破棄の件も加算されます。そのことは、婚防法第六条三項に記されています』


 しかしトーマスは少しもたじろがなかった。ふっと不敵に笑い、ビー・ディーをまっすぐに見つめる。それから自信満々に、言葉を返した。


「婚防法第六条二項の規定によれば、違反者の罪は、『事情を鑑みて』決められることになっている。その事情には、婚約破棄の相手方の女性の意見も含まれるだろう?」


『はい、もちろんですが……』


 そういえば、トーマスは法律のたぐいにはやけに詳しかった。嫌な予感がして、アリスはぎゅっと手を握りしめる。


 ビー・ディーは、思わぬ反論に戸惑っているようだった。そんな彼を見下すような顔で、トーマスはとんでもないことを言い放った。


「ベスはいずれ、私に婚約破棄を突きつけられるという覚悟をしていた。なにせ彼女は、以前に私が婚約破棄を突きつけたところに同席していたのだからな」


 その言葉に、黒装束たちがざわめく。トーマスはそちらを見ることなく、さらに続けた。


「明日は我が身、彼女もそれくらいのことは分かっていたはずだ」


 そうしてトーマスは、ひどく柔らかな笑みを浮かべた。今までの高慢な表情とはまるで違うその顔に、黒装束たちがぴたりと口をつぐむ。


「そうだろう、ベス?」


 泣き崩れ床に座り込んだベスに、トーマスはやけに優しく声をかける。ベスは震えながらトーマスを見つめていたが、やがて絶望したようにうなずいた。


 トーマスは満足げな顔で、ビー・ディーに向き直る。


「そして、私がかつて婚約破棄したアリスについてもそうだ。彼女はあの時も、そしてそれ以降も、何一つ異議を申し立てなかった。つまりこちらも、円満な婚約破棄だったということだ」


 その言葉を聞いた時、アリスの体は勝手に動いていた。人をかき分け、黒装束をかき分け、ビー・ディーのそばに立つ。エル・シーとしてではなく、アリスとしての姿で。


「……ふざけないで!!」


 見るからにしとやかな彼女が張り上げた場違いな叫び声に、その場の全員の目がそちらに向けられる。アリスはひるむことなく、さらに言い放った。


「私が異議を申し立てなかったのは、そんなことができないくらいに傷ついていたからです! そして私は、あなたがその行いの報いをきちんと受けることを願っています!!」


 その言葉を最後に、辺りはしんと静まり返った。しかし居心地の悪い静寂は、少し調子外れの笑い声に打ち破られた。


「ああ、おかしい。突然現れて何を言うかと思えば、そんなことしか主張できないのか」


 トーマスのあきれたような声が響く。彼は頭痛がすると言わんばかりに、額に手を当てていた。優雅な、しかし人をいらだたせる仕草だった。


「まったく、淑女たるものおとなしく男に付き従ってこそだろう。知っているぞ、君が最近、あちこちの集まりに顔を出していることを!」


 余裕しゃくしゃくといった顔で、彼はアリスをちらりと見る。


「……そうやって、新たな出会いを求めているということか? 私との婚約が駄目になって傷ついている人間のふるまいとは、とても思えないな」


 アリスは言い返せなかった。彼女があちこちに顔を出しているのは、監査委員としての仕事のためだった。


 だがそのことを、ここで明らかにする訳にはいかなかった。監査委員の面々は、その正体を隠しておく決まりになっている。それを破れば、おそらく監査委員の任を解かれてしまうだろう。


 そうなったらきっと、自分は耐えられない。トーマスに捨てられて打ちひしがれた自分を救ってくれたのは、監査委員としての仕事と、ビー・ディーの存在だったのだから。


 黙り込むアリスに、トーマスは蔑むような視線を投げかける。


「しかしそうまでしても、君を引き取ってくれる奇特な人間はいなかった。哀れだな、アリス」


 さすがに耐えきれなくなって、言い返そうとアリスが口を開きかける。


 けれど彼女は、何も言うことができなかった。聞き覚えのある穏やかな声が、アリスとトーマスの間に割って入ったから。


「ここにいます。少なくとも、彼女に思いを寄せている人間はいるのです。アリスさんを侮辱するのはやめていただけますか」


 それは、レイモンドの声だった。それも、アリスのすぐ近くから聞こえてきた。


 はじかれるようにそちらを見たアリスの目に飛び込んできたのは、にっこりと笑うビー・ディーの姿だった。


 彼は顔を隠すヴェールを少しだけ持ち上げて、アリスとトーマスだけに顔を見せていたのだ。声をゆがめる音の魔法も、一時的に解除したらしい。


「……ビー・ディー……あなたが……」


 驚きと歓喜に、アリスは声を震わせる。そんな彼女に、レイモンド、あるいはビー・ディーが首をかしげる。


「アリスさん? どうしてあなたが、その名を知っているのですか」


「……エル・シーよ、私」


 ほとんどの人間には、そのやりとりの意味は分からなかった。しかし黒装束たちは、驚きの目で彼女を見る。


 ビー・ディーもまた、驚きをあらわにしていた。そしてその整った顔に、じわじわと喜びが広がっていく。


 やがて彼はまた顔を隠し、金属質の声で続けた。


『アリスさん、私はあなたのことを愛おしく思っていました。初めてあなたに会った、その時からずっと』


 人間味を感じさせないきんきんとした金属質の声には、しかし明らかな優しさがにじみ出ていた。彼はゆっくりと、言葉を続ける。


『ですが、あなたは婚約破棄の痛手を引きずっていた。今私がしゃしゃり出てしまえば、さらにあなたを苦しめてしまうかもしれない。そんな思いから、私は黙ってあなたを見守ることにしました』


「ほう、良かったな、アリス。どこの誰かも分からない馬の骨風情が、君のことを好いているようだぞ? お似合いと言えば、お似合いか」


 トーマスが見下した顔で、アリスとビー・ディーを交互に見る。ねっとりとした、性格の悪さがそのままにじみ出たような視線だった。ビー・ディーはひるむことなく、懸命に言葉を返している。


『私は訳あって、正体を明かすことができません。馬の骨と呼ばれても、仕方がないでしょう。けれどアリスさんへの思いは、何一つやましいところのないものであると断言します』


 アリスはそんな二人のやりとりを、ふわふわした頭でぼんやりと聞いていた。


 ビー・ディーとレイモンドが同一人物だった。その奇跡のような偶然に、彼女は衝撃を受けていたのだった。


 けれど彼女の胸のうちには、困惑はなかった。そこには、ただ温かい思いだけが満ちていたのだ。トーマスの仕打ちに傷ついたままの彼女の心を、その温かさは優しく包み込んでいった。


「ああ、そうか。おいアリス、君はどうだ? 馬の骨といえど、一人前の人間だ。せっかく君を好いてくれていてくれるのだ、じゃけんにするのも悪いだろう?」


 馬鹿にしきった声で、トーマスがアリスに呼びかける。


 つい先ほど婚約破棄が宣言されていたことも忘れて、周囲の人間たちはじっとアリスを見ていた。その視線は、時折トーマスとビー・ディーにも向けられる。二人を値踏みするように。


 婚約破棄がもてはやされる今の社交界において、トーマスは間違いなく流行の最先端をいっている。


 そして、彼に向かい合っている黒装束――ビー・ディー――は得体の知れない人物だった。先ほど少しだけ聞こえてきた声からすると、おそらく彼は若い男性なのだろう。


 けれど、と周囲の人間たちは同時に思う。貴族のトーマスは恐ろしく高慢で、誠実さのかけらもない。そして謎の黒装束の男性は、アリスへの愛情と誠意に満ちていた。


 周囲の人間たちは大いに戸惑ったまま、食い入るようにアリスを見ていた。


「……私は、彼のことをほとんど何も知りません」


 アリスの静かな声が、大広間に響く。


「けれど私は、彼のことをもっと知りたいと思っています。彼は私の心の傷を理解して、寄り添ってくれる人なのだと思えるから」


 そうしてアリスは、ビー・ディーに向かい合う。目の端にトーマスのしかめっつらが見えているのも、もう気にならなかった。


「黒装束のあなた、私を好いてくれてありがとう。どうかこれから、あなたのことを知るための時間をいただけるかしら?」


 彼女は彼の本当の名前を知っている。けれどその名前をここで言う訳にはいかない。アリスは注意しながら、言葉を紡いでいった。


「……きっと私も、あなたのことを好きになれると思うの」


 確信を持って、彼女はそう付け加える。顔を隠したヴェール越しに、ビー・ディーが微笑む気配がした。


『ありがとう、アリスさん。どうかこれから、よろしくお願いします。あなたに振り向いてもらえるよう、努力しますから』


「こちらこそよろしく、黒装束さん。……トーマスに捨てられた時は、とても悲しかった。良いことなんて、もう二度と起こらないんじゃないかって思ったわ。でもこうして、あなたと知り合うことができた」


 ずっと気になっていたビー・ディー。ずっと気にかけてくれていたレイモンド。その二人がまさかの同一人物で、しかも自分に愛を告げてくれた。こんなに嬉しいことがあるだろうか。


 アリスの顔に、笑みが浮かんでいく。晴れやかな、曇りひとつない笑みだ。ついさっきまでトーマスと言い争っていたとは思えないほど、見事な笑みだった。


 そうして、アリスとビー・ディーは歩み寄り、そっと手を取る。その姿はまるでつがいの小鳥のようだと、居合わせた者たちはそんなことを思う。


 たくさんの人がいるとは思えないほど、大広間は静まり返っていた。しかしやがて、黒装束たちが手を叩き始める。


 その拍手の音は次第に大きくなり、大広間いっぱいに広がっていった。気づけばその場のほぼ全員が、割れんばかりの拍手を二人に贈っていた。


 納得のいっていない顔のトーマスを置き去りにして、拍手は続いていた。新たな恋人たちの誕生を、祝福するかのように。

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