市長の矜持
レンジの話を聞いた蟻命はしばらく、大広間奥にある扉、井坂がアイズと共に逃げ込んだ広間奥の扉を見つめ続けた。やがて、大広間外縁近くで身を寄せ合いおびえる人たちを見渡し蟻命は口を開いた。
「井坂がいる場所を教える」
「何っ」
蟻命の言葉に思わずレンジの口から驚きの声が漏れた。
それと同時に奥の扉からも「何っ」という声が漏れたのが蟻命の耳に聞こえたのだが、蟻命はそれを気のせい、ということにした。
「それは本当か」
レンジの目が今までにないほど鋭く、瞳の色が底の見えないほどの黒で染まっていく。
「ああ」
蟻命の背筋に冷たい電流が走る。だが、レンジのこの反応は蟻命の想定通りだった。蟻命は震えそうになる唇を嚙み殺し、レンジにある交渉を持ち掛けた。
「だが教えるには一つ、飲んでほしい条件がある」
「条件」
蟻命の言葉に、先ほど蟻命の腹へ銃口を突き付けた短気そうなセイム構成員の男が再び下ろしていた銃を引き上げ、蟻命の額中央に照準を向けた。
「てめぇ、この期に及んでンなこと言える立場だと思って――」
今までの蟻命の態度に苛立っていた男は危うく引き金を引きそうになる。それをレンジは男の肩をぐいっと掴み静止した。
「待て」
レンジに止められ男は再び銃を下ろした。照準を蟻命の額に合わせたまま。
「その条件とやらを聞こう」
レンジの言葉に、蟻命は視線を周りでおびえうずくまる人々へと向けた。
「この場にいる人たちを全員開放してほしい」
蟻命の言葉を聞き、レンジはあからさまに眉をひそめた。どうやら、レンジたちにとって蟻命の提案は喜ばしいものではなかったらしい。
だが、蟻命は折れるわけにはいかなかった。
「この場にいる人たちは皆ただの一般人。君たちとは関係のない人たちだ」
この交渉、一歩も譲歩することはできない。
「そんな都合のいいこと言って本当はてめえが逃げたいだけなんじゃ」
短気そうな男の言葉に蟻命は間髪入れず返す。
「僕はここに残る。人質なら僕一人で十分だろ」
勢いでどうにか押し通そうと試みるがレンジの反応は鈍い、冷ややかと言ってもよいほどだった。
しばらく無言でおびえる人質たちを眺めた後、レンジはそっと口を開いた。
「関係ないと言ったな」
シンッとする大広間にレンジの、聞く者全員寒気がするほどに落ち着き払った声が響く。
「この世に本当の意味で関係のない人間なんていねえんだよ」
刃物のように冷たいレンジの声。それに少しづつ、苛烈な熱が帯びていく。
「今世の中で起こってること、世界で起こってること全て俺たちは関係者なんだ。無関係なんて言ってる奴らは異人(俺たち)を迫害しているくそ野郎どもと何も変わらねえ。暴力や差別を黙認してることと同じなんだよ」
レンジの声が、声に乗せれられたレンジの想いが大広間にいる全員を圧倒する。
誰もレンジの主張に反論できなかった。
正しいからではない。レンジの言葉には重みがあった。凄惨な経験を悲惨な現実を何度も経験した、決して見聞きしただけの傍観者には出すことのできない当事者にしか纏わせることのできない覇気のような得も言えぬ凄みがレンジの言葉に宿っていたからだ。
それでも蟻命は口を閉ざさなかった。
「……それでも、君たちはここにいる彼らを傷つけるべきではない。君たちの信念が正しいならなおのこと」
蟻命の言葉にもまた、市長としてこの有魔町の王としての強い責務と覚悟が宿っていた。
蟻命がレンジの言葉から強い想いを感じ取ったように、レンジもまた蟻命の言葉から強い想いを感じ取った。
無言で二人は向かい合う。誰も、二人に話しかけることはできない。誰も二人の世界に立ち入ることはできなかった。
強い想いと信念を持つ者たちの正面からのぶつかり合い。それは目には見えずとも確かに二人の間で火花を散らせ、ごりごりと石と石をこすり合わせるようにその存在を削り取っていた。
時間にして数秒後、一分にも満たない時間だったが周りにいたものは全員、十分近く息を止めていたような息苦しさを感じていた。
「わかった」
そう言ってレンジは瞳を閉じた。
「レンジ……」
仲間の中にレンジの決断に異を唱える者はいなかった。
「井坂のいる場所に案内しろ。確認次第、他の奴らは解放しろ」
蟻命はレンジを連れ、背後にある扉へと真っすぐ足を進めた。数人のセイム構成員を残して、他のセイム構成員もレンジと共に大広間奥にある有魔市議会、会議場へと足を踏み入れた。
「蜂王君、君……」
蟻命たちが会議場へ入ると、井坂はまず蟻命の名を呼んだ。
「自分が一体何をしているのかわかってるんだろうね」
井坂の目には明らかに蟻命を非難する色が強く浮き出ていた。
「わかっていますよ」
相手は総理の懐刀でこの国のナンバーツー。誰がどう見ても蟻命の政治家生命はすでに終焉を迎えている。
「守るべき市民を守れるのであれば僕のこの、取るに足りない政治家人生など容易く棒に振ってみせますよ」
それでも蟻命の目に、
「相手がテロリストだろうと市民の命を守れるのならば僕は交渉に応じます。たとえそれでどんな汚名をかぶることになったとしても」
後悔や惑いは一切なかった。
「市民を守る。それが市長である僕の務めですからね」




