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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

家守神

作者: 小城

 甲斐武田の古府、躑躅ヶ崎館には、家守と呼ばれる忍がいた。

「かような者がいるはずないであろう。」

信玄の弟、逍遥軒信廉は、そう言った。

「ところで、お主、誰にその話を聞いた?」

 翌日、信廉の屋敷で、信玄の小姓の二人が、密かに、謀叛の罪で切腹させられた。

『家守』とは、やもりのことである。人家や周辺の林に生息し、壁や天井を這う爬虫類である。しかし、信廉の言う家守は、それとは別である。それは、爬虫類の家守のように、屋根裏に生息し、天井や壁を這うが、歴とした哺乳類であり、人である。

 武田氏の居館躑躅ヶ崎館は、広い。今で言えば、200㎡程の敷地の中に、幾棟もの建物が建ちならび、主棟と支棟は廊下で連結されて、それらに離れとなる別棟が四方に点在している。家守は、その屋根裏に暮らしている。

「(ん…?)」

 躑躅ヶ崎館の敷地内の信廉の屋敷にある一室は、彼の書院となっている。その文机の三段目の引き出しが、ほんの少しだけ、微かに開いている。

「(家守…。)」

 引き出しの中には、置き手紙がある。そこには、淀んだ筆跡の仮名文字で、ある人物の名前が書かれていた。翌日、信廉は、その者を呼び出して、詰問すると、相模の北条のもとに手紙を送っていたことが判明した。彼は、さらに翌日、打首とされた。

 信廉の元に届く年貢米には、毎年、一定の欠損米とそれに宛がわれる欠米が計上されている。

「これは、毎年これで良い。」

 新規の勘定役が仕事を引き継がれるとき、必ず、そのことが伝達される。それは帳簿の上だけの、帳尻合わせの数字であり、実際のどれだけの量の欠損米があり、欠米が宛がわれたのかは、誰にも分からない。例え、それが分からなくても、誰も困る者はいない。しかし、唯一、その行方不明の計上がなければ困る者がいたとすれば、家守であった。

「(またか…。)」

 領内の視察を終えた信廉が屋敷に戻ると、書院の三段目の引き出しが、ほんの少し開いており、その中には、淀んだ仮名文字の置き手紙が入っていた。

「(此の月は多いな…。)」

此度で二度目である。

「(虫が入り込んだか…。)」

 手紙には、相模からの行商人と伴に、館に入り込んだ虫を一匹食べたということが、書かれていた。そして、その虫が言うには、近頃、武蔵岩槻の城は、北条に不満を持ち、一族で内紛が起こりそうであり、北条家も、武蔵に多くの忍を放っているという。

「(北条か…。)」

 この頃、武田と北条は、表向きお互い同盟を結んではいたが、腹の底では、何を考えているかは分からない。というのも、桶狭間で今川義元が討ち死にして以来、甲斐、駿河、相模の三国同盟の意味は、揺らぎつつある。かくいう武田からも、多くの忍が相模や駿河へ入り込んでいる。透波や乱波と呼ばれる彼らは、山伏や行商人に紛れて、他国へ潜入して、情報を持ち帰る。戦場で働くこともあり、火付や偵察、陣地の警戒などに従事した。一方で、家守は、他国へ行くことはない。彼らは、躑躅ヶ崎館の屋根裏で、謀叛の兆しや間者の探索と言った家中の内偵を行っている。

「(不気味なものだな…。)」

 信廉は、灯台の灯りで、手紙を燃やすと、天井を凝視した。彼自身も家守の姿を見たことはないし、家守が、いつから屋根裏にいて、何人いるのかも知らない。信廉が、躑躅ヶ崎館の屋根裏に徘徊する家守のことを知ったのは、二年前のことである。兄の信繁が、川中島で討ち死にして、武田一門衆筆頭の立場になったとき、兄の信玄から伝えられた。

「これからは次郎に代わり、孫六が彼らの世話役となるのだ。」

 このことは、信玄と信廉の他には知る者はいないし、知られてはいけないということだった。やりとりは、家守の方から、報せてくるし、信廉の役目といえば、年貢米の中から、家守の取り分だけ、一定の欠損米と欠米の計上を帳簿の上で行い、帳尻合わせをすることぐらいであった。実際に家守たちが、どれくらいの米をもらっていったのかは、信廉も分からない。彼らは、勝手に蔵へ降りてきて、勝手に米を掠め取って行く。

「(なんだこれは…?)」

 初めて信廉が、家守からの報せを受け取ったのは、家守の存在を知らされてから、ひと月程経ったあとのことだった。信玄に同行して、恵林寺へ、信繁の四十九日の法要に行った帰りであった。屋敷の書院に入ると、文机の三段目の引き出しが開いていた。中には、仮名文字の手紙が入れられていた。

「(くわうづけよりの、むしいちひきたいじそうろう。)」

 翌日、館の外堀で、旅人の亡骸が発見された。検分すると、商人風の身形をしているが、肉の付き方や腰刀の指し具合から侍であろうと思われた。笈の中身は、組紐や木工品などの商品に紛れて、小刀や筆紙が入っており、品物から見て、上野辺りから来た者だと思われた。

「(こういうことか…。)」

 昨夜の手紙も、家守からの者であろうことは見当が付いていたが、実際にその働きを見て、納得した。亡骸からは、刺し傷と伴に、金品が盗られており、強盗の仕業として落着させた。その次は、亡骸は、館の横を流れる川の岩場から発見されて、三度目は、山裾に発見されてから後は、手紙だけで、亡骸は発見されなくなった。家守が間者の亡骸を、わざと目に付くようにしたのは、おそらく、信廉に自らの働きを報せるべくしたことで、それは初めの内だけのことだったのだろう。それも、そのはずで、兄の信繁が彼らの面倒を見ていたであろうときは、それほど間者が家守に討たれていたのかも知ることはなかったのである。彼らは、秘密裏に、間者を見つけ、退治し、亡骸を葬る。そして、それを知らされるのは、信廉だけだった。家守の報告であっても、信玄に報せるのは、重要なことだけであり、他は、信廉が知るだけで、事は済む。

「むままわりさこんこひと。じんすけ。さひさくこれあり。」

 半年程が経ったあと、そのような手紙が、文机の三段目の引き出しに入っていた。

「(馬廻りの左近の小人の甚助が細作…?)」

 細作とは密偵のことである。

「(兄に聞いてみるか…。)」

信玄の馬廻り衆のことであるので、信玄本人に相談した。

「彼らがそう申すのであれば、そうなのだろう。」

「いかがしますか?」

人払いをした部屋で兄弟二人だけで談合する。

「彼らに任そう。」

左近は信玄の気に入りの者でもあり、公に問えば、左近が責任を感じて、腹を斬りかねなかった。

「彼らとは、どのようにして、こちらからやりとりをすればいいので?」

「もう承知したであろう。」

 翌日、小人の甚助は、厩で馬に蹴られて死んでいるのが見つかった。

「(あのとき家守は、屋根裏で、某と兄の話を聞いていたのか…。)」

 そう思うと恐ろしくもあった。得体も知れず、実態もない。その存在さえ知らなければ、彼らのした働きは、自然の事故や事件として捉えられるしかない。実際、家中のほとんど、信玄と信廉を除いては、そのことを知らない。

「(神仏や物の怪のようだ…。)」

 彼らは、我々とは、別の世界の住人で、願い、思うだけで、結果をもたらす。そして、その代わりに、幾分かの米を奉納する。信廉には家守が、そんな存在のように思えた。

 それから、信廉と家守の付き合いは十年以上続いたが、十二年目の夏に、信玄が病に没した。家督は、四男の勝頼に継がれたが、信廉は、家守のことは、勝頼には伝えなかった。というのも、信廉は、信玄の他に唯一、家守の存在を知る人物ではあったが、家守のことを知ってから九年経ったとき、信廉は信濃国高遠城に赴任された。それ以来、躑躅ヶ崎の家守のことは、信玄が見ていただろうし、そして、おそらく、死に際して、信玄は、勝頼に、家守のことは伝えなかったと思われた。それは、何故かは、分からないが、それ故に、信廉も、また、あえて、自ら、躑躅ヶ崎館の屋根裏に生息する家守という存在を、甥に伝えることはなかった。

 信玄没後も、信廉は、躑躅ヶ崎館に戻ることはなく、信濃国にとどまった。その間、勝頼は、古府躑躅ヶ崎館から新府城へと、武田の館を移した。移住に際して、勝頼は、躑躅ヶ崎館を破却した。

「(そういえば、あの者たちは、どうなったのだろうか。)」

 そのことを信廉が聞いたとき、ふと家守のことを思い出した。信玄の死から、九年が経過していたこのとき、既に、出家をして、逍遥軒と名乗っていた信廉は、彼ら家守のことを、全くといって言い程、思い出すことはなく、忘れていた。

「(家守も、新府の城に移ったか、それとも、もうとっくの昔に離散していたか…。)」

 絵筆を持つ、逍遥軒の手が、一時だけ静止したが、そのあとは、また、何事もなかったかのごとく、絵を描き出した。

 勝頼が新府の城に移ってから、間もなくして、織田信長が甲斐、信濃へ、武田を攻め滅ぼすべく、進軍した。織田の大軍を前に、武田の城も落ち、一族、重臣も離反した。八方塞がりとなった勝頼は、新府城に火を放ち、天目山に自害した。逍遥軒信廉も、また、甲斐国に潜伏しているところを、発見されて、斬首されたという。家守が、どうなったのかは、誰も知る人がなかった。ただ、勝頼によって、躑躅ヶ崎館が破壊されたとき、鳥獣や虫と伴に、得体の知れない影が、崩れていく屋敷の屋根裏から、逃げて行く姿を人足の幾人かが見たという。人々は、それを、躑躅ヶ崎館を守っていた家守神ではなかっただろうかと、武田家が滅んだ今になって、噂しているのである。

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