散歩
もう一度私が目を覚ましたのは翌日だった。ぼろきれが体に掛けられていて昨日とはうってかわって暖かかった。くろねえさんの心遣いだろうか。あたりを見渡すと、くろねえさんは見当たらず、そこにはすっかり溶けてしまっているが、新品のカップアイスが置いてあった。ちょうど腹をすかしている私は、むさぼるようにそれをなめた。カップのすみまで、きれいになめとり、一滴もあまさず食べた。きれいに食べることができたことに満足して、ふと顔を上げると、くろねえさんがいた。
きれいになったアイスの容器を見たくろねえは嬉しそうに、私の顔をなめた。なぜ嬉しそうかと思ったのか、その理由はわからないが、なんとなくそう思った。人間だったころは同じように見えていた猫の顔も、その時々で表情が違うように見える。
「あんたえらいねえ。そんだけ食べられるようになったらもう安心だよ。最近のちびってのはまったく食べようとしないのが多くて苦労するんだ」
くろねえさんはそういうと、地面に寝転がり枯れかけた猫じゃらしを手ではじき、それがまたもとの場所に戻るともういちど手で叩いた。大人になっても猫じゃらしで遊ぶようだ。
「あんたもやってみなよ。面白いんだよ」
くろねえはそういって、何度も何度も猫じゃらしをたたいていた。私も、猫の世界になれないといけないと思い真似をしてみた。猫になったのだからもしかしたら面白いのかもしれない。手をぴょんと前にだして猫じゃらしをはていてみた。ちっとも面白くない。やり方が悪いのかと、何度か試してみたが、やっぱりまったく愉快な気持ちにはなれなかった。
「くろねえさん、ちっとも面白くないです」
私は、嘘をつくのも申し訳が無かったので、正直に言った、と同時に勝手にくろねえさんと声をだしてしまったことに気づき少し慌てた。
「あっはっは。くろねえか、いいじゃないか。それにしてもあんたは珍しいねえ。ちびってのは大体、一日中こうやってるもんなのに。あたしだって今でも好きだよ、これ。あたしのちびたちも狂ったみたいにこれやってたんだから」
そういうと、また猫じゃらしを叩き始めた。くろねえさんは、しばらく猫じゃらしを叩いていた。
「そうだ。あんたこの町を案内してあげる」
私が暇を持て余していることに気付いたらしい。
姉さんの縄張の町だそうで、一定の場所ラインの外には出なかった。風景をみていると半径百メートル程のテリトリーなんだと思う。いつもえさをくれる家、近寄ると水をかけられる家、窓をあけっぱなしにする確率が多い家、などを事細かにレクチャーしてくれた。
特に子供と犬がいる家は要注意だと言っていた。ひどい目に遭うことが多いらしい。あとペットボトルが置いてある家は、猫嫌いが済んでいるから近づくなとも教えてくれた。あれは、猫が嫌がるから置いてあるんだとテレビで見たことがあるが、実際は違うらしい。私も見てみたが特に気持ち悪くならないし、目もちかちかしない。
「ニンゲンはなんだか知らないけどあたしたちがあれのこと嫌いだと思ってるらしいんだよ。別に嫌なわけじゃないんだけど、猫嫌いの印だから近づかないほうがいいよ」
くろねえさんはそう言って少し笑った。一日一緒にいると、さらに表情がよく分かるようになった。確かに姉さんは笑っている。
猫になった以上、猫界の常識を早く身につけなければならない。どうせなら、人間に生まれ変わりたかったという気持ちは、勿論あるが、裏切ったり裏切られたり、もう、うんざりだ。仕事で大きな失敗をしたり、浩平と喧嘩をしてしまったとき、猫か鳥にでもなってしまいたいって、呟いていたから神様がそれを聞き入れたのかもしれない。
私は三十三にもなって特にしっかりした信念も夢も目標も何もなく、ただ日々の食い扶持を稼ぐためだけに仕事をしていた。しいていえば、浩平との結婚だけが楽しみだった。あの仕事は心底嫌いだったけど、だからと言って資格を取ってスキルアップし、やりたい仕事を見つけて転職しよう、という気概もなかった。
どちらかといえば昔の、お茶くみコピー取りが仕事の腰かけOLにあこがれていた。ただ毎日が平穏に過ぎていけばいいと思っていた。週に三回、彼が来る日を楽しみに生きていた。仕事と浩平、それだけの日々だった。それでも幸せだった。このまま彼と結婚して平凡だけど、日々の生活が満ち足りている、そんな家庭を築くつもりだった。何も知らずにその生活を甘受していたかった。
五年も付き合った男に裏切られていたことがわかり、何もかもが面倒だ。彼もその妻も憎い。だが、それが激情となっているわけではない。ただただすべてが面倒だった。彼の裏切りを知った今、東京に住んでいる意味もない。かといって、今更地元に戻るほどの愛着もない。友人は皆結婚をし、家族中心の生活となったために、昔のように電話をしたり、飲みに行ったりすることは殆どなかった。東京の友達も地元の友達も、今ではすっかり疎遠になっていた。私も彼と仕事が、私の生活のほとんどを占めている。朝起きて会社に行き、家に帰る。その繰り返しだ。家で映画を見るわけでもなく本を読むわけでもない。ただテレビを眺めていた。
彼が来る日はいそいそと食事を支度していた。それだけが楽しみの生活だった。しかしもうあの生活には戻りたくない。みんな忘れてしまいたい。そもそも私は死んでいるから戻りたくても戻れないけど。