真実と事故
そもそも私は昨日何をしてた?思い出せない。まるで、したたかに酒を飲んだあくる日に自分がどうやってここに辿り着いたのかさっぱりわからない時の感覚に似ている。飲みに行ったのかな。ちがう、昨日は飲んでない。
少しずつ記憶の糸を辿ると、ぽつりぽつりと思い出してきた。私はあの日彼の会社の前で待ち伏せをしていた。高橋浩平、いま付き合っている男だが、あまりにも連絡をよこさないので彼の会社の前で待ち伏せをしたのだ。大体平日の夜は週に三日は会っていたのに、この一か月というもの、仕事が忙しいというのを口実に全く会おうとしてくれなかった。だから会社の前で彼が出てくるのを待っていたのだ。あまり近くで待っていると彼の同僚たちに見られてしまうから、少し離れた植え込みに座って待っていた。彼はいつも細身のスーツに身を包み、パステルカラーのシャツをきている。遠くからでもすぐにわかる。その端正な顔立ちを、他の脂じみた、小太りの中年男性と見間違う筈がなかった。その日は、仕事を定時で切り上げ、五時半には浩平の会社に到着したがまてど暮らせどでてこなかった。忙しいというのもあながち嘘ではないのかもしれないと思った。
八時になってようやく入口から吐き出されるように、くたびれた浩平が現れた。いつもの浩平と違いよれよれの、使い古したタオルのような雰囲気をまとっていた。隣には、背が低く頭の禿げあがった三十代後半とみられる男がいた。二人はどうやら一緒に帰るようだが、疲れているのか会話もなくよたよたと歩いていた。一緒に帰るというより自宅が同じ方向にあるから、ただ歩いているだけという雰囲気だ。
せっかく三時間も待っていたのに、結局話かけることができなかった。会社の同僚がいるのに話しかけるほど私は馬鹿じゃない。しょうがないから、少し、距離をとって浩平たちの後を歩いた。追いかけているわけではなくて、駅がひとつしかないから、しょうがなく、後を追っているだけだった。
しかし駅に到着すると浩平は家とは反対方向のホームに向かった。浩平の家を訪れたことは無いが、池袋だと聞いていた。なのに、彼は逆方向に向かっていた。慌ててあとをつける。これはストーカーじゃないと心に言い聞かせて、こっそりと後をつけた。浩平が降りたのは、閑静な住宅街で有名な町だった。若禿げはいつのまにかいなくなっていたので、尾行は簡単だ。
十分も歩いたところで、浩平は建てたばかりであろう、一戸建ての前で立ち止まりドアを開けて中に入った。そっと近づくと、やわらかく漏れる光の隙間から屋内を伺うと、地味な女と、これまた地味な顔をした子供たちが笑顔で、おかえり、と浩平を迎えいれているのが見えた。私は、その光景を呆然とみつめながら、それが浩平の家族であることを悟った。
『高橋 浩平 路子 真由 高志』
私はあの日、五年も付き合っていた男に妻子があったことを知ったのだ。そこからの記憶は曖昧で、とぎれとぎれだ。体の強い痛み。それと地味な女の悲鳴、子供たちの泣き声、浩平の怯えたような目。
あの日何が起きたのかはっきりは分からない。ただ確かなことは全く気付きもせずに五年も不倫をしていたこと、猫になってしまったことだけだった。私は死んだのだろうか?そう言えば、急に死んだ人間は自分が死んだことに気付かないと、怪談話で聞いたことがあるから、私はそうなってしまったのかもしれない。しかし、それもどうでもいい。すべてが億劫だ。心底眠い。