勝利なれども
ルイ少将の部隊が引き上げた頃には第五艦隊も敵艦隊を視認できるほどに近づいていた。煙を上げ、艦列を乱している敵艦隊を見たドゼー中将は、一つため息をついて、
「ルイの奴め、結構痛めつけたようだな。まともに撃ち合うだけでも充分勝機はあるな」
参謀達も奇策を弄する必要はないと異口同音に言った。しかし、無策というわけではない。進行方向が正反対であるから、このままだと反航戦になってしまう。それでは戦果の拡大が望めない。そこで、敵に対してT字を描くことにした。艦隊は第14部隊、第16部隊、第13部隊、第15部隊の順に舵を切り始めた。
第五艦隊は、敵艦隊がノロノロと進んで行く中、一斉回頭の形に入った。敵艦隊の動きが、不意に止まったように見える。こちらの動きに動揺しているのだと第五艦隊の面々は確信した。
「敵の反応がにぶいですな」
と参謀長のラージュ少将ですら気の緩んだような事を言う始末であった。だが、実際に敵艦隊は第五艦隊がT字を描いた時まで、反対側に変針することも、同航戦に持ち込むこともしなかった。ゆっくりと前進するだけであった。まともに統率が取れていないのだろうと判断されても仕方がなかった。だが、司令部とは違った見方をするものもあった。第13部隊司令官のローレン少将である。彼は、
「もし統率が取れていないなら半狂乱になってしまう艦があるはず。『何もしない』というのは、高度な統率なしでは成り立たないことだよ」
と言って、敵はこちらの油断を誘っているだけだと判断していた。特に、彼が最も危惧していたのは敵が機を見てこちらに衝角攻撃を仕掛けて来ることであった。司令部が強固な統一命令を出している今、敵が衝角攻撃を行えば必ず犠牲が出てしまうだろう。アンジュー中佐が、
「考えすぎですよ」
と諌めるのも聞かず、彼は司令部に意見具申を行った。
「敵の指揮は正常。敵の行動は欺瞞の可能性大なり。敵は衝角攻撃を行う可能性あり。ここはあえて乱戦に持ち込むことが最善の策なり」
というものである。乱戦が最善の策というのはいささか過大表現であるが、全体的に筋は通っていた。しかし、ドゼー中将は報告書を投げ捨てると、
「いささか考えすぎではないかな。敵の指揮が健在なら逃げるか立ち向かうかはっきりするだろうし、乱戦などすれば艦数において不利な我が方が劣勢になるのではないか」
と面倒臭そうに言った。参謀長は慌てて報告書を拾って、
「しかし、何もしてこないというのも妙ですし、敵艦は損傷艦もありますから乱戦も有りかと。それに、先ほどの空襲でローレン少将は正しい報告をしてくれました。彼の見立てはある程度評価すべきと考えますが」
が、ドゼー中将は手を左右に振って、
「いや、あれは事実を報告したまで。今回の報告は彼の見立てに過ぎない。まだ事実と決まった訳ではない。やはり、現行動を続行すべきだ」
参謀長もそう強固にローレンの意見に賛同しているわけではなかったので、「御意」と言うまでで、それ以上の反論はせず、一礼をした。参謀長が顔を上げると、彼の瞳には艦首を東に向けつつある敵旗艦が映った。
ーーやはり、杞憂だったか
「砲撃開始」の号令が艦上を駆け抜けて行く。
敵の旗艦はなんとか回頭を終えたが、同時に旗艦としての一生を終え、新たに第五艦隊専用の標的艦としての生涯を全うすることになった。ただし、ほんの数分だけである。同艦は数え切れないほどの砲弾を受け、乗組員の9割と司令部要員を失った上、誘爆を起こして海中に身を横たえたのだ。7隻の戦列艦は敵の二番艦「サン・マルチーニョ」を次の標的とした。既に数発の砲弾が彼の艦を直撃している。艦首を向けている敵に対してこれだけの命中弾を出せる第五艦隊の練度は白眉であろう。既に敵艦は先の一番艦同様の惨状を辿ろうとしている。完全勝利の夢が徐々に現実になりつつあった。ドゼー中将も時折笑みを見せていた。だが、
「敵艦直進してきます」
という1水兵の報告が彼を蒼白にさせた。振り返れば、敵艦が直進を続けている。まさか、と思って目を擦ってみるが変わらなかった。
「いかん!」
彼の叫びとほぼ同時に第16部隊の「マゼンタ」が敵艦に喫水線下をえぐり取られた。「マゼンタ」は断末魔のような軋みを立てて沈んでいった。敵の二番艦は少し進んだ後、向きを変えて、またしても突撃を行おうとしている。ドゼー中将は後甲板に立ち竦んで、呆然としていた。だが、幸いなことに部下の報告を聞けるくらいには冷静さが残っていた。
「アントワーヌ少将から報告です。乱戦を望む、と。ローレン、ヴィッテ両少将も同様の報告を上げております」
「そ、それでいい。全艦に通達。『これより乱戦に入る。各艦の奮戦に期待する』」
と中将は命じて、以前の命令を中止した。そして、戦闘が終わるまで統一命令を出すことはなかった。
敵には乱戦へと持ち込もうとする第五艦隊の行動を止めるほどの余力はなく、案外あっさりと乱戦に持ち込めた。いざ乱戦に入ると流石に第五艦隊の方が有利であった。砲弾の精度が全く違うのである。敵艦「サン・ロレンソー」は第14部隊の「ラ・エミル」の衝角攻撃を受け沈没。「ロサリオ」は第13部隊の猛撃を受けて爆沈、「マテオ」は第15部隊の移乗攻撃を受けて拿捕された。見事な衝角戦術を見せた敵であったが、乱戦では1時間も経たないうちに敗退を余儀なくされた。二番艦「サン・マルチーニョ」のみはかろうじて離脱に成功したが、その他は3隻が拿捕、3隻が撃沈され、文字通り壊滅したのである。対して、第五艦隊の損害は乱戦においては特筆すべきものはなかった。
「ルイ少将より報告です。敵フリゲート1隻を拿捕、味方艦は8隻全て揃ったようです」
「わかった」
ドゼー中将は虚ろな目で沈みゆく太陽を見つめた。奥で水兵達が馬鹿騒ぎしているのが聞こえるが、彼含め司令部要員にとっては、全くそのような気分にはなれなかった。結果としては戦術的にも戦略的にも充分な勝利を得たと言っても良いが、後味の悪さが残る戦いであった。