ヒステリー
ローレンは船に戻ると、まず手に持っている一枚の新聞を自室にしまった。
それから、いつもの場所で黄色新聞もどきを読み始めた。日光が眼を刺してくるので、日除けにもちょうどよかった。むしろ、内容が内容であるから新聞としては悪かったと言うべきだろう。
彼は一通り読み終えると、新聞をポケットに押し込んで、足を組んだ。
そして、財布を取り出して、小刻みに振った。音はほとんど聞こえない。彼は財布の中を見ることもなく、ポケットにしまった。
ローレンは燃えるような夕日に照らされながら、ゆっくりと伸びをした。どうにも動きがもっさりとしていた。軍服が心持ち縒れており、水滴が零れ落ちていた。彼のすぐ下は水たまりになっている。目を開けると、目の前でアンジュー中佐が唖然として立ち尽くしていた。
「ああ、おはよう」
とローレンがあくびをしながらいうと、
「困りますよ司令官。風邪でも引いたらどうするんですか」
ローレンは寝起きであったが、それでもわかるくらい水浸しになっていた。ひとつ叫び声をあげて飛び上がる。と言っても、体が錘をつけたように重たいので、のっそりとした飛び上がり方であったが。
「先程大雨がやんだところです。心配になって来てみたら案の定だったので、着替えを持ってきました。どうぞ」
アンジューが予備の軍服を出してきたので、ローレンは「ありがとう」と言って受け取る。着ようとして服を脱ぐと、触れたところから滝のように水が流れてきた。相当水を吸っているらしい。アンジューは額に手をあてて、
「それにしても、よく寝て入られましたね。あの雨の中で」
そう言われて、ローレンはポケットから原型を留めていない新聞と雨で理想的な重さになった財布を取り出した。
「こんなものを読んでいたら起きてられないよ」
「その紙くずが何か?」
「紙くずとは失礼な。立派な黄色新聞さ」
と言って、ローレンはその新聞たちを広げた。もう、文字はくしゃくしゃになっていて読めない。
「残念ながらもう読めそうにないですね」
「いいよ、二度も読むような内容ではないし」
と言うと、彼は辺りを何度か見回して、
「そういえばみんなはどこに行った? さっきはまだいたのに」
と言って、アンジューに目線を戻した。
「みんな風呂屋にいきましたよ。今日は特別に安いらしくて」
「そうか。私も行こうかな、そろそろ」
「司令官は先程一生分の水を被ったじゃないですか」
するとローレンはアンジューの方へ体を寄せて、
「一生分とは失礼な、結構お湯はかぶってるよ。それより、これでもまだ体は臭ってるから、行った方がいいんじゃないかと思って」
アンジューは言われて、ローレンの軍服と体を嗅いだ。確かに、うっすら汗と糞尿の混ざったような臭いがする。
「司令官は水兵と絡みすぎでは?」
と中佐は鼻を触りながら厳しく言った。ローレンは軍服についているゴミを払いながら、「いいじゃないか」と言った。
中佐は頭をかきむしった。戦いの時はそれなりに働いていたが、終わってみれば何も変わっていない。呆れる彼に、休む間もなくローレンがとどめをさした。「平時だから」と言ったのである。中佐はついに限界を迎えた。前と同じように消極的にならざるを得なかった。
結局、何を話していたのか有耶無耶になった。そこで、二人は仲良く肩組んで風呂屋に行くことにした。道中、「どうせ風呂屋の脱衣所で脱ぐんだから船上で着替える必要はなかったんじゃないか」とくだらない屁理屈を唱えるローレンを中佐が適当にあしらいながらであったが。
二人が脱衣所につくと、あちらの方から手を振って寄って来るものがいた。中佐は特に意識していないようであったが、ローレンは短く歓声を上げると、向こうから来る彼と同じように手を振った。脱衣所がそれほど広くないからなにかと鈍いローレンでもすぐにわかったのだ。向こうにいるのは、ルイスだった。
二人は手を取り合うと、
「まさかこんなところでも会うとは」
と言うと、口を開けたまま、中佐が話に割って入るまでずっと手を取り合っていた。
中佐が、「この方は?」と聞くと、まずルイスの方が反応した。
彼はローレンの腕を引っ張って、耳打ちした。曰く、部下にバレると色々と面倒くさいから適当に誤魔化してほしいということだった。
ローレンはまたも因縁めいたものを感じた。そのせいか、少し顔を赤らめた。ルイスはなぜかニヤニヤしている。まるで恋人同士だった。
「司令官、どうされました?」
と中佐が催促してくる。ローレンは、「ああ、そうだった」と言って中佐の方へ振り返ると、
「彼はヴィンセント・ルイス……その、ええと、そうだそうだ新聞仲間なんだ。たまたま出会ってね。いや、どうも小説の勉強にために新聞を買ったようで」
彼は、なぜ新聞を簡単に書いに行けるのか、そんな身分なのかと思われないように、なんとか誤魔化した。彼に取っては上出来な言い訳だったが、どういうわけか中佐は合点がいっていないような顔をしている。首をかしげる中佐を見て、彼も首を傾げた。
彼が一息つくと、後ろからルイスが軽く背中をつつく。
そして、ルイスは一つ息を吐いて、
「申し訳ない。正直に言いましょう。私は駐在武官です。でも、内緒でお願いします。部下に怒られるので」
と言って一礼した。中佐は納得したような声を出して、頷き、一礼した。
中佐は顔を上げ、ルイスとローレンを交互に見比べた。確かに、これなら仲の良さも納得がいく。失礼な話だが、小説の勉強のためにわざわざ新聞を買いに行くような勤勉な人がローレンと恋人のようになれるわけがない。自分という証拠がある。
そのようにして、勝手に頷いている中佐を見て、二人は困惑したように顔を見合わせた。
風呂から上がってさっぱりすると、ローレンと中佐はルイスにある場所に案内された。そこには便所と井戸があった。
「糞尿は船内だけで沢山だ」
とローレンは顔をしかめて、固辞したが、無理矢理連れてこられた。
ここでルイスが見せたのは溜め込まれた糞尿でも異臭のする痰壷でもなく、壁だった。
その壁にはびっしりと紙が貼られている。大抵の紙には顔と名前が書いてあった。
「ほら、選挙ポスター。こんなにびっしり貼ってるものだからびっくりしたよ。我が国では見たことないな」
確かに、よく見ると公約やらなんやらが書かれていた。また、重ねて何枚も貼られている
ものもあった。きっと、対立候補のポスターの上に貼っているのだろう。
「よくこんなものを知っていますね」
と中佐が感心したように言った。
「いや、ちょっと便所に来たらたまたま見つけたんだよ。ところで、選挙ポスターについてのルールを教えて欲しいのだけど」
「いや、何もない。どこに貼っても剥がしても自由さ。いつになったら規制するんだろう」
「それは良かった。さっき、便所に拭くものがないし、井戸は汲むのが遅いから拝借したんだよ」
と言ってルイスは頭を掻いた。ローレンはやや笑ったのち、
「こんなものは包装用の紙と一緒一緒。街頭のやつだって鼻をかんだり汚れを拭いたりするのに拝借されているんだから、何十枚も」
そう言うローレンの表情は笑っておらず、口調は暗澹としていた。
三人が風呂屋を出るとすぐに、頭と首に冷たいものを感じた。見上げると、糸雨がしとしと振っていた。大したことのない雨だったが、少しずつ糸が太くなっているような気がした。
「これは早く戻った方がいいな」
とローレンが頭の上に手を被せながら言った。残りの二人は頷いたので、いささか大雑把な解散になってしまったが、別に彼らは派手な解散など望んでいなかったから、これでよかった。
さて、ローレンと中佐が来た道を戻っていくと、向こうの方から男や女の怒号が聞こえて来た。夫婦喧嘩でもしているのかと思ったが、すぐにそんなある意味生易しいものではないことがわかった。
旗と松明を掲げて、何か文句を言いながら行進する一団が向こうからやって来たのだ。旗の文字をよく見て見ると、「王国と内閣を打倒せよ」と書いてあった。他にも、朝読んだ新聞が書いていた文句の出来の悪い焼き直しのようなものが沢山書かれたいた。思わずローレンは目をそらした。そして、
「我が国の新聞は公正公平だな」
とつまらぬ皮肉を言ったが、あまりの一団のうるささに掻き消され、中佐はなんとも反応しなかった。
その一団は結構な数がいたようで、しばらくの間、二人は会話もままならなかった。
比喩がすごく少ない気がして来た。なんとかしたい。