水平線
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波は絶えず揺らめき、直線ではまるでなく、極めて複雑に千変万化するのに、彼方にある水平線は、本当ににまっすぐだった。本当にまっすぐに見えた。人間の視覚などいいかげんなものだ。しょせん近くにあるものしか、しっかりと見ることが出来ないのだ。
「――不完全な生き物なのよ、人間っていうのは」
「そうだね」
彼女の静かに諭すような言葉に、ぼくは特に反論するでもなく、あっさり首肯した。
ぼくのそんな態度が気に入ったのか、あるいは元々そうだったのか、定かではないが、彼女は微笑んでいた。その微笑は、可憐な花のようだった。それも、けばけばしい色の花ではなく、白とか、薄紫とか、そういった落ち着いた色の花だった。
長い、風と仲良しな髪。あらゆる物事を知悉し、あらゆる悩みに対してまるで動じなさそうな、涼しげな、いくぶん細いまなこ。
海に張り出したどこかの、家か、お店のバルコニー。そのへりの手すりのところに、ぼくと彼女はいた。ぼくは両腕を組むように、前かがみ気味に。他方彼女は、腰の後ろで手を組んで、伸びをするように。
今は何時だろう。
生憎、腕時計を屋内に置いてきて、時間が不明だ。
チラと、彼女の腰の後ろの手に目をこっそりやる。流し目。しなやかな腕。色白な腕。
腕時計は、同じくなさそうだった。細い腕時計が似合うだろう。似合うに違いない。そんなことをふと考えた。
すると、ドキッとする。ぼくのいかがわしい流し目に気付いたのか、彼女はこそこそ動くぼくの目を捉える――あぁ、何だろう、この良心の呵責に覆いかぶさる、妙な快さは……
何も、彼女は発さなかった。ただにっこりするだけだった。
「夕日、綺麗ね」
「うん」
夕日――太陽はほとんど沈んだようだ。水平線の上を火輪が転がっている。巨大な眼差しは、たったひとつの眼差しは、海の上で、物言わず、僕等を見つめている。眩しかった。
だが、彼女を直視するよりは、目の負担は軽かった。
涼しい風が吹く。秋口の海風は物悲しくなるほどの憂愁を帯びていた。藍色の風。夜を運んでくる風。長い眠りへと誘う暗いゆったりとした流れ。
「人間は不完全」ぼくはぽつりと呟く。彼女は微動だにしない。「じゃ、君も、やっぱり不完全なんだね」
「完全さを追求するその気持ちは分かるつもりよ。不完全を知るからこそ、完全に憧れる」
「理の当然だね」
「不確かなものより、確かなものが欲しい」
――あぁ。
ぼくは果然妙な快さを感じつつ、彼女の言葉、否、彼女の声に聞き入っていた。
――あぁ、今、何時なのだろう。腕時計。腕時計を取りに行くべきか。
ぼくは両腕を手すりより上げ、きびすを返そうとする。振り返ろうとする。すると、彼女は賢者めいた明晰な話を、息を呑むように、ずいぶん不自然な形で中断し、ぼくの腕をその色白な手で掴んだ。ぼくはぎょっとした。
ぎょっとして、彼女の目を見つめる。彼女は美しい顔でぼくを見つめ返している。ぼくは目線を下げる。ぼくの腕を掴む彼女の腕に、ぼくは見誤ったのだ、腕時計が付いている。しかも、ぼくが理想的と思った細い腕時計だった。だが、その円盤に針はなかった。単に、数字が円状に配列されているだけで、現在を示す針は欠如していた。
ぼくはぼんやりし、顔を上げる。だが焦点は最早美しい顔には合わない。遠くがなぜか鮮明に見えてくる。差すような夕日の光線。放射状の光線。
その光線は、彼女の時計が失った針に、何となく見える気がした。夕日は時計の中心だった。だが、その針はめちゃめちゃに伸びてはめちゃめちゃに動き、すぐ夜になるのに眩しく、が一方でやはり暗く、ぼくは混乱してしまった。
『不確かなものより、確かなものが欲しい』
――そうだ。その通りだ。ぼくは今、物凄く不確かなものに囲まれている。更に言えば、ぼくそのものが不確かになってしまっている。
『不完全な生き物なのよ、人間っていうのは』
『そうだね』
さっきした会話のリフレイン。新しい会話? 古い会話? 意味などあるのか、繰り返される問答。
立ち眩みでもしてしまっているのだろうか。ぼくは足元が覚束なくなる。
しかし、ぼくの腕に伝わる柔らかい感触と、微弱なぬくもり。そしてかろうじて聞こえる吐息の音。
じんわりと形状を忘失していくぼくの眼界にある全て。
さっとぼくの足元にくる流れ。風。あるいは海の水。
そしてぼくは彼女のことが分からなくなる。一人になる。あらゆる近くに存在していたものが遠く退いて離れる。
波は絶えず揺らめく。絶えず揺らめき続け、一定などなく、永遠に変化する。常に生誕し、常に死に絶える。常に肯定され、常に否定される。
水平線という境を、太陽がとうとう下る。夜が訪れる。
波は静まり、海は凪ぐ。
世界はその瞳をゆっくりと閉じ、安らぎの床に横たわる。
***