私を病院につれてって
明日から仕事の俺は、いつものチキンカレー五辛を食うためカレー屋を目指していた。
左耳にはイヤホンで、NHKラジオニュースのキャスト音声が流れている。
空は晴れた夕暮れで、いわゆる逢魔が時の風景。
実はこの時間、昔から俺は嫌いだったりする。
この時間帯になると俺は、心が錆びるような無力感に襲われる。自分が孤独であり、今後も孤独であり、ひとりで飢えて野垂れ死ぬのだと耳元でささやき続けられている気持ちになる。
もしかしたら、自分が鬱病なんじゃないかと思うこともある。
こんな時、気分を切り替える方法は色々あるけど、俺的にはスパイスたっぷりの辛いカレーがいい。
人とは単純なもので、心身をホットにすることで、今にも飛び降りたくなるような鬱な気分も切り替えられるんだ。
人間、空きっ腹抱えていたらロクなことを考えないもんだ。
君がもし朝食を食べない人で、もしも暮らしで憂鬱を抱えていたら、思い切って朝からスパイスのきいたパワフルなものを食べてみることをおすすめする。
もしかしたら、たったそれだけで世界が全然違って見えるかもしないよ?
そんな俺だったんだけど。
「あのー、すみません」
「……ん?」
まさか俺じゃあるまいと思って横を見ると、そのまさかだった。
「えと、俺?」
「はい」
子供を抱いたお母さんみたいだ。
ただし外国人なのか、どうもそこいらの人と雰囲気が違っている。
「あの、このあたりに武心医院という病院があるはずなのですが、ご存知ないですか?」
「武心?」
その名に覚えはあった。
「んーどうだろう、一件知ってるけど、あそこ閉鎖されてるはずだよ。
なに、お子さんを連れて行くの?」
気がつけば、俺は状況を尋ねていた。
ここは新宿区牛込の近くであり、はっきりいえば都会のど真ん中だ。
こんなところで積極的に他人に関わる事のは、俺みたいな田舎からきた人間にはトラブルの原因になる事もある。
でも俺は、お母さんの不安げな顔に、つい尋ねてしまったんだ。
「いえ、その武心病院で間違ってません。どこにありますか?」
「ええ、ちょっと……!」
もうやってないよ、別の病院にしないと。
その言葉を続けるつもりだった俺は、ふと気づいたことがあった。
……この母子、耳が水かきみたいになってる。
ということは?
ああ、そうか。ふたりは人間じゃないんだ。
思わずためいきをついたけど、そういう事なら話は別だ。
念の為に確認する。
「本当に武心医院でいいんだね?」
「はい」
「わかった、なら案内する」
「え、いいんですか?」
「子供の調子悪いんだろ?心配だから俺もついてくわ、こっちだ」
「え、でも」
「いいから来なって!こっち!」
「あ、は、はいっ!」
お母さんは驚きながらも、急いで俺についてきた。
問題の武心医院が近づいてきた時、俺は「やっぱりか」という思いでいっぱいだった。
「……マジかよ、ホントに営業してやがる」
廃墟じゃなかったんか、ここ。
入り口に顔を突っ込むと、中は前に隙間から覗いた通りの殺風景な間取りだった。
ただし、ガランドウの何もない廃墟の面影はなく、普通に営業している古めかしい町医者だった。
LEDでない、ひとめで古い型とわかる蛍光灯の光に照らされたフロア。
「どうなさいましたか?」
白衣のナースさんが顔をのぞかせたので、後ろの母子を指さした。
「すんません急患です!この子!」
「まあ大変、先生、せんせー!」
少しすると、白衣の爺さんが診察室のドアをあけ出てきた。
……すんげー年寄りだな、院長先生かな?
「細かい話はあとだ、あがんなさい。ん、君は?」
「あ、俺は」
「そうか……いや」
説明しかけた俺を爺さんは止めると母子をみて、それから俺をジっとみた。
「病気によっては伝染った可能性もある、念の為に君も診よう。予定はあるかね?」
「いや、晩飯食らって飲むだけです」
「よろしい、ではきたまえ」
「あ、はい」
案内されて、一緒の診察室に入った。
中は古びていたが、中は普通だった。むしろ子供の頃に世話になった田舎の医者を思い出す雰囲気で、懐かしさすら覚えた。
爺さんはさすがのベテランだった。
機材の古さが気になるものの、慣れた手つきで子供を診察していた。
「ああお母さん、こりゃ都会疲れじゃよ」
「都会疲れ、ですか?」
「田舎で生まれ育った者が、都会の緊張感に参ってしまうんじゃ。
最初は好奇心いっぱいで気づかないんじゃが、徐々に体力気力を奪われよるでな。
子供は特に加減を知らぬから、一気に倒れるんじゃ。
……だが、大人の基準で軽く考えてはいかんぞ?
子供は大人より基礎体力が低いから、本当にまずい状況になったら一気にいくこともあるんじゃ」
「あの、どうしたらいいでしょうか?」
「なに、今は休ませてやることじゃ。
で、お母さんや親しい者が時間をとって遊んであげなさい。
それから一緒に食事をしてやりなさい。
一時的に甘えが出るかもしれんが、じきに元気になるじゃろ」
「そうですか、ありがとうございます!それでその、お代の方は」
「薬も出さんような病じゃ金もとれんが、ま、じゃあ診察料に100円ももろうておくかのう」
安っ!
金額に驚いたけど、すぐにその意味に気づいた。
たぶん、このお母さんがお金ないのに気づいてるんだろう。
だいいち人間じゃないってことは保険証もないだろうし。
そんなことを考えていたら。
「次は君だ、ちょっとここ座りなさい」
「あ、はい」
言われるままに座って診察をうけた。
しかし、金属製のベラみたいなので舌を押さえて中を診られたり、なんかやっぱり昔のお医者様だな。
「うむ、とりあえず問題なさそうじゃな。
しかしちょっと体が弱っておる、運動不足がたたっておるな?
加護にかまけて体調管理を怠っておるようじゃが、あまり感心せんぞ?」
「面目ないです……って、加護なんてあるんですか?」
「あるようじゃぞ……ああ、どうやら少しは心当たりもあるようじゃな?」
「ええ、まぁ」
例の『印』なんだろうなきっと。
俺もそろそろ、印とやらの意味がわかりはじめていた。
どうやら。
霊感もないはずの普通の人間だった俺だけど、妙な世界につながるパスポートじみたものを手に入れてしまったらしい。
つまり、印とはそういうものなんだろうな。
「ありがとうございました」
「いやいや、気にしないで。何度も言うけど俺が気になっただけなんで」
場面はかわり、病院を退去した俺たちはふたりの家の前にいた。
え、なんで俺がついてきてるのかって?
そりゃ、お母さんの荷物をもってあげたからだよ。
本来なら俺が子供をしょってやればいいんだろうけど、俺はあえてお母さんに任せた。
俺はその時に言ったんだ。
『母ちゃんにおんぶされて帰ったのって、覚えてないようで覚えてるもんですよ。
事実、俺がそうですからね。
……だから。
体力に問題あれば代わりますけど、できればお母さんがしょって帰ってあげてください』
先生が言ったのって、要はスキンシップで子供を安心させてやれってことだろ。
だから俺は、おんぶして帰ることを勧めた。
そういったら彼女は、なぜか優しげに俺を見て。
そして俺が荷物もちをしての家路になったわけだ。
ちなみに二人の家、下町みたいなとこの木造アパートだった。
意外に俺んちに近くてビックリした。
このあたりにこんな古いの残ってたんだなぁ。
「さて、そんじゃ帰りますかー」
「あの、お食事前だったんでしょ?できれば」
「いやいや、お母さんは子供の看病に専念してください。じゃ、おやすみなさい」
「……ありがとうございます」
格好つけた挨拶に、ぺこりとおじぎをされて。
俺はちょっとだけ自己嫌悪になった。
「それじゃ」
それだけ言うと、背後に視線を感じつつ俺は家路についた。
帰りの途中、武心医院の前を通ったんだけど。
「……だよなぁ、そうだよなぁ」
改めて見るとやっぱり廃墟だった。
途中、コンビニでビールとカット野菜セットを買って帰りつつ、スマホで武心医院の情報を調べてみたら。
「……やっぱり」
あれ院長先生だわ……何年も前に亡くなってるけど。
「これは……やっぱりそういう事なのかね?」
たぶん、あのナースも亡くなった昔のスタッフとか奥様なんだろうな。
つまり先生はなくなった今も、ちょっと位相の違う場所に病院を開き、患者さんを診ているってわけだ。
おそらく、人ならぬ患者さんばかりだろうけども。
「……はぁ」
本来、これってこわい体験だよな?
でも。
俺はなぜか、とてもやさしい気持ちになっていた。
ああ。
今夜はビールがとてもうまそうだと、そう思った。