星呑みの湖
怪物と少女と。満点の星空の下、一人と一匹は、特別な夜を迎える。
よく熟成された酒のような、甘くて、清らかで、何時の間にか呑まれてしまう夜を。
……足音が聞こえてきた。一人と一匹の、宴会のようで葬列のような、二人の独りの。
森も星も固唾を呑んで、今宵の行く先を見守っている。
動く運命と生命が動く、短編です。
がさがさ、下草を払いながら、少女は進む。いつになく口数が少なかった。それを見守るように、時折、どし、どし、地響きが鳴る。
手足の汗が淀む頃、少女はおもむろに顔を上げ、振り返った。
「着きました、ここです」
「ほう?」
少女の後ろを辿っていた異形は、少女を見つめ、森の木立よりやや高いその身を高く上げた。暗い夜空よりなお暗く、その巨躯が聳え立つ。
「街などは見当たらないが」
「はい」
少女は再び歩き出す。疑問のつむじ風を吐き出す怪物を背に少し行くと、やがて視界が大きく開けた。
「む、これは」
獣はその長い首を廻し、辺りを見回した。
昏い闇の中、森を土を夜を切り裂いて、星明りを湛えた水面が揺れている。天も広く、この夜でも遠くまで広がる湖面が分かった。
「湖です」
「だな」
少女はその岸辺へと歩いた。黒く枯れた下草が湖畔を囲っていて、少女が近づき杖で払うたびにかさかさと乾いた音を立てる。
怪物は目を細めた。
「我は星詠みは好かんぞ」
「……星詠みをご存知なのですか」
「昔の話になるが」
我も昔はヒトを生きていたとは話しただろう、異形はその身に合わぬ繊細な声で語り出す。
村を襲った疫病。荒れ果てた天麦の畑に、咳き込む農夫が立つのが常だったという。収まらぬ病魔、それが何かの祟りであると囁かれることに時間はかからなかった。
呪いを追い出そう。どうやって。誰かに太古のまじないをかけ、この村の祟りごと消し去って貰うのさ。
「そこで、星詠みは我を指した」
もともと忌み子の気があったなどといって、星詠みは彼の名を挙げた。
すぐに彼には謂れのない罪の証言が集まり、あっという間に村の贄となることが決まったという。
「……誰でもよかったんだろうな。僕が星詠みの子と仲良くなかった、ただそれだけのことなのに」
怪物は俯いた。その影が星空を弓なりに切り取っていて、異形のその背がごつごつと震えているのが残酷なまでに明るく照る。
少女は目を逸らした。
「……済まぬ。我としたことが、少々語り過ぎたな」
「きっとあなたは、昔はお話が大好きだったのですね」
「語り過ぎた」
「はい」不器用な怪物に笑いかけ、少女は湖に片足で触れた。
広がる波紋が、眼下の星空を揺らめかせる。真っ黒な闇が、妖しく揺れた。
風が強い夜だった。
湖をぐるりと囲む森が、少女に異形にざわざわと囁きかける。声なき声は、寄せて返して強まっていく。
少しだけ、一人と一匹は風を聞いた。
「……渇いた」
ややあって、怪物が呟く。静寂を破ることを惜しむように、頭を低く下げた。ごうごうと激しい息の音に、巨大で醜悪な体躯が蠢く。大きな口から生えた鋭い牙が、闇の中を彷徨っていた。地団駄を踏むように動く四つの脚に、その大きく深い足跡が乱れる。
「渇いた」
怪物が唸る。
「はい、わかりました……お酒、ですよね」
少女は頷いた。
怪物は、普段は理性を失う。それは酩酊しているような状態で、普段は言葉を発することも何かを考えることもできないのだった。
理知的に佇むことが許されるのは、酒に酔っている間だけなのだ。
怪物は頷いた。迫りくる凶悪な本能を抑えつけるように、喉の渇きに咆哮を漏らす。
「あなたのために、今日は特別です。まずはこれを」
少女は懐から、小さな瓶を取り出す。少女がそれを地面に置くと、怪物はすぐさま陶器ごと口に含んでばりばりと噛み砕いてしまった。
「こいつは……強くて旨いな」
「甘い匂いがするでしょう。あの日からずっと、持ったままでしたから」
「あの日?」
怪物が尋ねる。少女は驚き、目を見開いた。この異形が他人に興味を持つなんて。怪物の赤く青い双眸を見上げ、少女は暫く瞬きすら忘れる。
少女は迷い、やがて、躊躇いがちに口を開いた。歌うような慈しむような、壊れそうなほど優しい声が湖を漂う。
「村では、年に一度、あなたへの生贄を出していました」
選ばれた者は酒瓶を一つ携えて、怪物の住む谷へと一人で行く。そこから帰った者は、彼女より前には居なかった。
「その者に、おまえは選ばれてしまった訳だな」
「はい」
星詠みの手で。彼女が静かに紡ぐと、怪物は大きく息を吐いた。
「やはり、あの村は救えないな。そう思うだろう」
「わたしは」
あの村が好きです、とは、彼の前では言える理由があるだろうか。
少女が何も言えないと、怪物はその大きな顎を地面に擦り付けて少女の顔を覗き込んだ。
「そんな顔をしてくれるな。今宵は月が美しい」
「……ふふ、慰め下手ですね」
少女は破顔して、月を見上げた。十六夜、少しだけ歪な輪郭が、闇に漂う。
再び静寂が二人を抱いた。
このままだったらいいのに。少女は眼を瞑る。異形もじっと静まり、静謐に身を委ねているようだった。
しかし、いくら強いといえど、小さな瓶の酒には限界がある。やがて、怪物の呻きが洩れた。
「すまない」
「いえ、いいんです。つらいですよね」
少女は怪物を労わると、おもむろに湖面を指差した。
「実はこれは、ただの水ではないんです」
「酒、か?」
少女は手はず通り頷こうとして、そして――硬直した。
「酒なのか」
怪物は冷静にゆっくりと歩き出す。闇を湛えた湖は黒い。
どし、どし、地鳴りの足音は荒い。
少女の喉を通る息はいま熱を帯びて、心臓を激しく揺らした。
「……待って!」
叫ぶ。煩かった風すら息を呑んで、怪物は少女に向き直る。
「どうした。我を止めるか」
「待って。お願いだから、待って」
少女は怪物と湖の間に走って入ると、両手を横に広げた。
「この湖の水は、飲んじゃ駄目」
怪物は目を細めた。
「飲ませる予定だったのではないのか」
「そう、だけど」
居心地の悪い静けさだった。
その怪物の射抜く視線に、彼女は、全てを察されていたことにようやく気付く。
この地を満たすは、清浄な水でも酒でもなく、植物を黒く枯れさせる猛毒の水なのだ。知っていて騙そうとした彼女の前に、怪物の背が動く。
「昔はこの湖は綺麗だったのだが」
怪物は大きな背を伸ばし、首を高くもたげている。人の手で湖が汚されるとは嘆かわしいことよ、異形は呟いた。
「村の指図か?」
「……はい」
「連中の考えそうなことだ」
怪物は吐き捨てる。その屈強な前脚に、少女の細い手が触れた。
熱と熱が交わる。
ぴくり、異形の前脚が、――彼の腕が震えた。
「僕を……」
声が響いた。怪物にしては違和感があるというようなものではなく、もはや完全に人間の、一人の青年のそれだ。
波打つ。
彼は自分自身の声に言葉に驚いて、言葉を失っているようだった。少し呼吸を整えるようにしてから、彼は恐る恐る言葉を繋ぐ。その度に震える背は黒い水面に溶けてしまいそうだった。
「僕を、殺そうとしているんだね」
ああ。
少女は大きな影に、凪いだ水面のような和やかな男を見出した。
「……騙そうとして、ごめんなさい」
少女は深く頭を下げた。彼は青年のように笑う。
「結局騙せなかったじゃないか」
「騙そうとした」
「そんな程度では、僕は騙されないよ」
彼はにこり微笑みかけると、少女を傷つけないよう半歩下がり、少女を躱して湖に近づく。
「待ってよ、どうして飲もうとするの」
少女は彼の不気味な後足を掴んだ。鱗が生え硬くなった感触には、体温を感じない。
「お前、あの村が好きなんだろ」
「うん」
「だったら僕がここで手筈通りに死なないと、帰れないでしょう」
今あなたはどんな目をしているの。少女からは、彼の顔は見えない。
「……何を言っているの」
「お前は異形の僕の話を聞いてくれて、僕のためにお酒を探して集めに行ってくれて」
優しすぎるんだよ、彼は一歩進む。どしん。枯れ切った草を踏みつけて、がさがさと音が響いた。
「待ってよ、あなたこそ身なりはこうなっちゃったけど、優しいし、人に危害を加えたりなんてしないじゃない」
「理性のあるうちは、ね」
彼が間髪入れずに答えると、少女は返事に窮して呆然とする。そんな彼女の目の前に、彼は唐突に前脚を振り下ろしかけた。悲鳴すら出ない少女の目の前で、醜悪な鍵爪が止まる。
「酔いが醒めたら、僕はお前を、あの村を滅ぼすよ」
前脚を戻し、それでも動けない少女に、彼はごめんねと詫びた。
「お前を傷つけたくない。あの村は嫌いだけれど、お前があの村を愛するというのなら、村も」
そういって一歩。ざぶん、水の音がして、少女はやっと我に返る。
「待って、待ってよ」
少女の縋る声に、しかし、彼は振り返らない。
「待ってよ。わたし、あなたを失いたくない。どうか」
彼は大きく息を吸った。
「もしお前と僕が同じ時代に生きて、お前が星詠みだったら」
彼は空を見上げる。星は、何も言わない。
「……きっと、僕は星詠みを恨んだりはしなかったさ。愛する人の声は、星より眩しい太陽の光だ」
どういう。
動きを止める少女の前で、異形の影をした男は、戻れない一歩を踏み出した。
水を掻く音。
だから、お前のために。深くなった湖の中に足が沈み、その体躯がゆらり揺れて。
ざばん。
飛沫を上げて、毒の水に怪物が沈む。
茫然。湖面が波打って、映った星空が歪の闇に落ちる。跳ねた水が少女の顔に触れて異臭を放っても、少女は何も言えず動けずに居た。
遠くはない村には、帰ろうとは思えなかった。少女の住処はもうそこではなかった。
朝はまだ来ない。一人になった少女を、静寂が締め付ける。
絵本のような星空が騒がしい夜だった。
朝は、まだ来ない。
読んでいただき、ありがとうございました。