記憶のない殺人 ~後編~
それから間もなくのこと、再び事件が氷川神社を巻き込んだ。
事件の渦中にいたのは、またもあの男である。
一年前に殺人事件を起こしながらも無罪となった男は、あろうことか、再び殺人の罪で捕まった。今度は、かつての上司を殺したらしい。
そして、またも、時折記憶喪失になることを理由に無罪を主張しているとのことだった。
「嘘よ」
澪が思わず立ち上がる。
「あの人は、もう黄泉の国にいるのよ。今さら、誰かの体と記憶を奪うことなんてできないわ」
「……そうだな」
「そうでしょう? なら、やっぱり嘘をついているのよ」
「いや、そうとは限らない」
「え……」
「今回のことにあの人が関わっているとは思っていない。だが、他の浮遊霊に憑依されているということは考えられる」
「他の浮遊霊……?」
「一年前にたびたび憑依されていたことで、霊媒体質になってしまったと考えることもできるだろう」
父の言葉に納得しかけた澪だったが、ふるふると首を振った。
「でも、この間会った時には、最近では記憶が飛ぶこともなくなったってそう言っていたのよ」
それについては、父も何やら考え込んでいる様子であった。
そんなある日のこと。
澪は、道でばったりと男に会ってしまった。
「おや、氷川神社の巫女さんじゃないか」
男が軽い口調で声をかけてくる。
「セーラー服か。ふうん。君は高校生だったんだね」
「あなたは、どうしてこんな所に?」
「ここは公道だよ。僕がいたっておかしくはないだろう? ああ……もしかして、警察署に拘留されているとでも思っていたのかい?」
俄かに顔を伏せた澪を前に、男はケタケタと笑った。
「証拠不十分というヤツでね。拘留まではされなかったんだ。毎日、うんざりするぐらい事情聴取はされているけれどね」
「……何が、そんなにおかしいの」
思わず口をついて出た言葉に、男がさらに口角を釣り上げたような気がした。
「最近、仕事がはかどるからねえ」
「仕事って何のことです? 会社をお辞めになったと伺いましたが」
「辞めた……ねえ」
男は、歪んだ笑みを浮かべた。
それからの男は、一人でただひたすらに話し続けていた。
まるで澪がいることを忘れているかのように。
まるで独り言かのように。
そして澪は、ただただ、その呟きに耳を傾けていたのである。
男の話した内容は、こうだ。
一年前、男が妻を殺した時、男にはしっかりとした意識があったのだ。つまり、男は自分の意思でもって妻を絞め殺したのである。
男と妻との関係は、もうだいぶ前から冷え切っていたらしい。また、いつまでも昇進しない男を、妻は悪しざまに罵ることもあったという。
ある日、男は耐え切れずに妻を殺そうとしたことがあった。ナイフを手に、背後から妻へと近づく。だが、ナイフを突き刺そうとしたその瞬間から、ぷつりと記憶が途絶えてしまった。次に気がついた時には、公園のベンチに座っていたらしい。
また別の日、妻から激しく罵倒されたことにかっとなった男は、手近にあったガラス製の置物を手に取った。しかし、それを振りかざそうとした瞬間からの記憶がなく、再び気がつけば、今度は家の近くの道に佇んでいたのだという。
気味悪く感じた男は、あらゆる病院や寺社仏閣を訪ねては原因を突き止めようとした。しかし、結局のところ、どこに行っても原因はわからなかった。
何度かそんなことが起こったある日、男はついに妻を殺すことに成功する。そして、気がつけば、それ以来記憶を失くすことはなくなっていたのだという。
男の話を聞きながら、澪は思った。
――あの人は、妻殺しをさせたくなかったのではないかしら。あの人は、たぶん、優しい旦那さんだったのでしょうから。たとえ他人であっても、夫が妻を殺すことを許せなかったのね。
そう解釈するとともに、沸々と怒りが沸いてくる。
――あの人を、利用したのね……。
一年前の事件にて、男は記憶喪失になることを理由に無罪となっている。男が妻を殺したことが男のせいではないというのなら、一体誰のせいなのだろう。男から記憶を奪ったもの……それは、つまり、あの人のせいということではないだろうか。
――あの人に罪をなすりつけるだなんて……。
「許せない」
怒りに打ち震える澪を前に、男はケタケタと笑い続ける。
「許せない? そうはいってもね、一年前の事件はもう解決しているんだよ」
「今回の事件は、まだ解決していないわ。今回だって、記憶喪失なんて嘘なのよね」
「うん、そうだね」
男は悪びれた様子は微塵もない。
「でも、誰も君の言うことなんて信じないと思うよ。僕には医師の診断書もあるし、過去に責任能力なしと判断された実績もあるのだから」
「なんで笑っていられるの? あなたは、自分の奥さんと、一緒に働いていた人と……二人も殺したのよ」
「あれは酷い女だった。口を開けば罵声ばかり。ずっと殺してやりたかったんだ。上司にしたってそうだ。裁判沙汰になったとはいえ、無罪になったというのに僕をクビにしたんだからな」
「その人が、あなたを辞めさせたの?」
「決定したのはもっと上の連中さ。けれど、あいつがかばっていれば、僕は辞めずに済んだはずなんだ!」
「そんな……それは、逆恨みじゃない」
途端に、男の目が険しいものへと変わった。
男は、澪に歩み寄る。澪は危険を感じ、後ずさった。
男が、服のポケットからナイフを取り出す。その鈍い光を前に、澪は大きな目をさらに見開いた。
その時である。
「澪」
聞き慣れた声に、ほっと息をつく。見れば、そこには父の姿があった。
「帰りが遅いので迎えにきたよ」
父は、普段通りのしぐさでこちらに向かってくる。
「さあ、帰ろう」
そう言って手を差し伸べる父に、
「やっぱり、この人だった」
澪が叫んだ。
「一年前の事件も、今回の事件も、すべてこの人が自分の意思でやったことだったの」
そこで、父は動きを止め、ナイフを手にした男に目を向ける。
「お前は、もう関わってはいけない」
男を見据えながら澪に言い聞かせた。それを聞いていた男が下卑た笑い声を上げる。
「ここまで関わっておいて、今さら逃がすとでも思うのか」
「お父さん、私も逃げるつもりはないわ」
澪は、きっと男を睨みつけた。
「引きなさい、澪」
父が澪を制して言う。
「お前の中には夜叉がいる。そんな心であの男と対峙してはいけない」
「……夜叉……?」
「お前はあの人を想えば想うほど、あの男を許すことができないのだろう。だがな、神職に就く者は、いついかなる時でも清らかにあらねばならない。澄み切った湖面のような心持ちでなければならない。そうでなければ、お前自身が闇に取り込まれることにもなりかねないのだ」
「……でも……っ」
「それに、見なさい」
父の視線を辿り、澪は男に目を向けた。
澪は目を見張る。
……男の体には、何やら黒い靄のようなものがまとわりついていた。
「お前が手を下さずとも、あの男はもうじき裁きを受ける」
父の言葉が終わるか終わらぬかのうちに、目の前の男が突如として苦しみ出した。
その苦しみようは、実に異様なものだった。
男は、声にならない声を上げ、首筋をかきむしった。血が滲んでもやめる気配はない。また、全身を大きくくねらせ、うずくまり、息も絶え絶えに悶え苦しみ出したのだ。
「お父さん……何が起こっているの? あの黒い靄は何?」
ぼんやりとしか視えていない澪に、父は目の前で起きているありのままのことを語って聞かせた。
「あの男にはふたつの影が取り憑いている。ひとつは女……おそらくは奥さんだろうね。そして、もうひとつは男で、あの男の上司だった人だろう」
「……何をしているの?」
「女があの男の首を絞め、男がナイフで滅多刺しにしている」
澪は息を呑む。
「そうやって殺されたのだろう。あれが、あの男の業の報いだ」
父の言葉を聞きながら、澪はそっと顔を伏せたのだった。
その後、裁判において、男はまたも無罪となった。
今回も、責任能力がないとして……。
男は、間もなく施設に送られることとなっていた。
裁判の最中も、それ以外においても、男は何を聞かれても何ひとつまともに答えることなく、常に宙を見据えていたらしい。
時折、何かに怯えたようになり、奇声を発することもあった。かと思えば、突然狂暴になり、周囲の人や物に殴りかかることもあったという。また、ナイフで自分を切りつけるという自傷癖も見せた。
よって、男は責任能力がないとして、重度の精神疾患患者の集められた施設に送られることが決定されたのである。
事件が解決したある日、澪はいつものように氷川神社の境内を掃除していた。
何気なく空を見遣る。雲ひとつない青空が、どこまでも続いていた。
「夫が妻を殺すことを許せなかったのね」
ふと、澪が呟く。
「あなたが犯人から記憶を奪ったのは、夫婦喧嘩を止めたかったからなのよね」
風が吹いた。
柔らかい風がそっと澪の頬を撫でる。
澪が目を伏せる。
そして、澪の周りをひとつ巡ったあと、優しい風は、そのまま天高く吹き抜けて行ったのだった。