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春の残滓  作者: シャット
3/3

眼前の少女


   9



 桜吹雪が舞い散っていく。

 満開を過ぎて、春が終わっていく。


 そんな風景のなかを、夏輝たち三人は歩いていた。


 呼びだしたのは夏輝だった。夏輝と紅葉が終了式を終えてから落ち着いて話をしよう、と。

 そうして、ここにやってきたのだ。例のトンネルに。かつて下校に利用した地下道の、小学校とは反対側の入口に。


「話してくれないか、雪奈」


 その手前で振り返って、夏輝は雪奈と正対した。昏い瞳で彼女を見据える。紅葉に雪奈が言ったことを聞かされてから、夏輝の思考は澱んでいる。


「知っていることを。……お前が、桜花さんを殺したのか」


 その問いに、雪奈は儚く微笑した。


「せんぱいは──そうお思いになるのですね」

「正直、信じたくはないが。……だけど俺には、他に何も思いつけなかった。だから、それも含めて。肯定か否定か。お前が知っている桜花さんのことを──教えてほしい」

「…………」


 頭を下げる夏輝の前で、雪奈は迷いを見せていた。最後の一歩を踏みだして、一線を越える。その勇気を持てない彼女の瞳を、紅葉はまっすぐに見つめて、頷いてみせる。そのことでようやく、覚悟が固まったようだった。


「……顔を上げてください、せんぱい」


 そう、声を掛けて。改めて夏輝と顔を合わせて。口を開こうとして、少しためらって。その戸惑いをごまかすように再び微笑んで、雪奈は言った。

 ──昔話をさせてください。



   ◇



 今城雪奈には居場所がなかった。


 今となってはありふれた話だ、と彼女は思う。その状態を語る言葉をいくらでも知っている。児童虐待、育児放棄、毒親だとか云々。名前をつけることが状況を言語化して理解することだとしたら、かつての彼女にはそうする余裕すらなかった。そんなことを考えられるような落ち着きすら、与えられなかった。

 自分が置かれた状況をわかっていなかったのだ。思考が理解を拒んでいた。だから今も、具体的なことは上手く言い表せない。自分がされていたことを記憶に刻めなかった。


 それほどに酷い状況だった、というわけではない。


 そのことだけは否定できる。物心ついた今の彼女は、自分以上に酷い虐待の例をいくらでも知っている。それに比べたら、雪奈の置かれた環境はたいして悪くなかった。

 ──その理由は明瞭だった。


 だって、姉が自分を庇ってくれたから。


 だから雪奈自身はそれほど傷ついてはおらず──そしてだからこそ、傷ついていた。大好きな姉が自分のために傷を負っていく、そのことが何よりも苦しかった。


 今城桜花は、雪奈の世界に唯一存在していた人間だ。それ以外を彼女は知らなかった。家の外に出ることは許されなかったし、親のことを同じ人間とは思っていなかった。それは家の中の外敵であり、脅威そのものだったから。

 したがって、桜花という姉は雪奈にとって誰よりも特別な存在だった。だって、それ以外には存在を知らなかった。結果として彼女は、姉に対してあらゆる感情を向けることになる。愛情も親愛も感謝も信頼も罪悪感も、憧憬も。


 雪奈が小学校へ入学する以前の話である。


 しかし、突然事情が変わった。ずっと閉じこめているのは世間体に悪い、と考えたのだろうか。親が何を思ったのかは不明だが、雪奈は小学校へ通うことを許可された。

 いや、学校に行くことを認められていた点では桜花も同様だったのだが、雪奈はそれに気づかなかった。毎日、家に誰もいない時間帯を無感動に過ごしていたのだ。ともあれ、彼女もまた学校に通うことになり。


 そして雪奈は世界を知った。


 とはいえ、たいした変化があったわけではない。クラスには馴染めなかった。人との接し方がわからなかった。同級生は彼女を異物として遠ざけた。環境が悪意ある虐待から無邪気な無関心に代わった、それだけのはずだった。

 けれど雪奈は、ふたりの上級生と出会った。


 後藤夏輝と前原紅葉に。


 彼らは雪奈が知る誰とも違っていた。親とも同級生とも教師とも、そして姉とも違っていた。彼女に好意的な点は姉と近しいが、しかし似て非なる存在だった。


 姉は雪奈を守った。庇護した──それで手一杯だった。


 けれど夏輝は、雪奈を見守ってくれた。学年の壁を越えて交流する機会は数多くない。でもそのたびに、いろいろなことで助けてくれた。ひらがなもカタカナも知らない、人との話し方もわからない、何もかも駄目な雪奈のことを根気強く見ていてくれた。


 一方で、紅葉はそれほど雪奈に優しかったわけではない。どちらかといえば、夏輝との時間を奪う彼女に嫉妬を向けるほうが多かったように思う。でも、それを理由に見放したりはしなかった。雪奈に勉強を教えようと手を焼く夏輝の姿に呆れながらも、ときには彼の間違いを正した。同性の視点からも彼女のことを助けてくれた。それに礼を言うと、真っ赤になって否定したりもしたけれど。夏輝ほど雪奈に好意的だったわけでもないのに、根が優しすぎるのだ。


 その三人が、雪奈にとっての特別だった。夏輝と紅葉のおかげでいろいろなことを学んでも、世界が広いことを知っても──他にたくさんの人を知っても、三人は彼女のなかで色褪せなかった。


 登下校班で馴染むことができたのも、上級生ふたりのおかげだ。とはいっても、雪奈は彼らのあとをついて歩くだけだったけれど。夏輝にも紅葉にも、雪奈以外の人との交友がある。そのことを知って、少しだけ傷ついたりもして、それでも楽しかった。帰り道に薄暗い地下道を歩いていくと、自分が小さな探検家のようで。夏輝と紅葉のあとを追うだけの、それでも大冒険だったのだ。


 けれど。


 そんなある日に、雪奈は不思議に思った。不思議という言い方はいまいち合わない気もするけれど、気づくことがあった。当たり前だと思っていることを考えたりはしないものだ。当たり前だったはずのことが当たり前ではなくなっていた。それが、転換点だった。


 どうして姉さんがここにいるのだろう、と雪奈は思ったのだ。中学に通っているはずの姉が、自分の下校時にいつも一緒にいるのはなぜだろうか。妹が心配だから送るため、という理屈はわかっている。でもそれは、毎日だろうか?

 そんな疑問を持っていると、さらに気づくことがあった。


 疑問点は連鎖する。


 姉と一緒に下校しているとき、夏輝の視線は彼女に向いていることが多い。なんとなくそのことに気がついて、なんとなく嫌だなと思って。そう思ったことに自分で驚いた。


 どうしてだろう。


 桜花と夏輝が、なんてないことを話して一緒に笑っている。それを見ると、なんとなく嫌な気持ちになる。自分でもその理由がわからない。姉のことは好きで、夏輝のことも好きで、好きなふたりが笑っていたら幸せのはずなのに。


 どうして嫌な気分になるのだろう。


 姉を思う気持ちに嘘はないはずだ。だって、雪奈が勉強してきたのはそのためだった。入学以前の遅れを挽回するために夏輝と紅葉の力を借りたのだ。勉強すれば立派な大人になれる。立派な大人になれば姉の手を患わせることもない。迷惑をかけることも、自分を庇ってぼろぼろになる姿を見ることもない。それが起点だった、そのはずなのに。


 でも、立派な大人とはなんだろうか。大人とはなんだろうか。雪奈にとってそれは桜花だ。彼女の世界に存在するなかで最も年長の者だ。優しくて、頭が良くて、強くて、美しくて。男の人からの視線も一身に受けるような。夏輝の視線をまっすぐに向けられるような。彼に好かれるような。そんな、大人に。姉さんのような立派な人に。

 なりたかったはずで、近づけていたはずで、けれど今でも、彼の眼差しはあの人に向けられている。


 それは、なぜ?


 思考がぐるぐると渦巻いて。堂々巡りを繰り返して。

 そして雪奈は、結論に達した──



   ◇



 ──わたしはずっと、姉さんみたいになりたかった。

 でも──そこに姉さんが(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)いる限り、わたしが(﹅﹅﹅﹅ ﹅﹅﹅﹅)姉さんになれる(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)ことはない(﹅﹅﹅﹅﹅)のだと。


「そう、思ったのです」


 その言葉を最後に、長い沈黙が続いた。


 雪奈は口を噤んでしまった。それまで語られていたのは彼女の過去だ。悲惨な家庭に始まって、非業の死に続く、彼女と姉の物語。その結末を口にするには、あと少し心の準備が要るのだろう。


 夏輝は考えこんでいる。ときどき雪奈の話に相槌を打っていた以外は、ずっと。今その瞳に負の感情は伺えないが、しかし何も思っているのかもわからない。


 そんなふたりのことを、紅葉は静かに見守っている。お膳立てはもう整えたのだから、あとは彼女の出る幕ではない。雪奈の過去に思うところがないわけでは決して、絶対にないが、今はそれを口にする場面ではない。だから紅葉は、雪奈が語る結末と夏輝が下す結論を、ただ待っている。


「……雪奈」


 その言葉に、少女は夏輝のほうを改めて見て。


「家の、……両親のほうは、今は大丈夫なのか?」


 抽象的な言葉だった。けれど、その曖昧さが示す気遣いは確かに届いたようで。微かに瞠目して、雪奈は答える。


「……ええ、はい。結論から先に申しあげてしまうと、姉さんが亡くなってからすぐに、両親がしていたことは親戚中に知られていまして。わたしが直ちに引っ越さなければならなかったのも、その親戚のひとりに引き取られることになったからなのです」

「じゃあ、一家で引っ越していったっていうのも嘘なのか」

「関係者は情報を口外していないはずですから、おそらく近所で噂になったのだと思いますが、結果的には騙してしまった形になりますね。ともあれわたしは叔母の好意でお世話になりまして、小中ではいわゆるお嬢様系の学校に通わせていただきました。高校進学の際にはこちらに戻りたい、というわたしの我儘も受け入れてくださって」

「でも、その……怖くなかったのか?」

「両親が、という意味でしたら、それはまったく。遠方に越した、と聞いていたので。姉が亡くなった地であるのは、怖いというよりはつらいことですが……でもそれ以上に、わたしはせんぱいに会いたかったのです」

「そっか。愛されてるな、紅葉先輩は」

「いえ、そちらは別に」

「えっちょっと」


 黙って見守るはずが突然の飛び火に口を挟んでしまう。その反応を待っていたのか、紅葉を会話に巻きこむ算段だったのか、夏輝と雪奈は揃って悪戯っぽい微笑を見せた。


「冗談だよ」

「冗談です。……紅葉先輩にもお会いしたかった、というのが本音でした」

「そ、そう。ふたりとも息ぴったりね」


 とはいえ直球勝負になると照れてしまうのが紅葉の弱いところなのだが。そんな彼女に優しい眼差しを向けながらも、雪奈は続ける。


「叔母にお願いしておふたりの近況は調べてもらっていたので、高校でも親しくなさっていることは知っていたのですが。あの中学でしか学べないこともあると思いまして、こちらに戻ってくるのは今になりました」

「そっか。……まあ、大丈夫なら良かったんだ」


 目を細めて微笑む姿に、紅葉は心がざわつくのを感じた。そのときちょうど風が強まって、桜吹雪が激しく舞い乱れる。夏輝の空虚な笑顔がそのなかに消えていきそうで、足下から不安が這いあがってくるような。そんな錯覚を雪奈も感じたのか、追い縋るように小さく呟いた。


「……それだけ、ですか?」


 意図の定まらない疑問。意味の不明瞭な質問。


「今のところ訊きたいことはそれだけだったけど……。でも、言っておきたいことならあるな」


 その問いを扱いかねた様子で迷いながら、夏輝は考え考えに言葉を続けていく。


「悪かった、と思ってるんだ。あの日からずっと、周りに目を向けてこなかったこと。紅葉が傍にいてくれたことにも何も言わないで、雪奈のことだって忘れて、桜花さんのことばかり考えていたこと」

「…………」

「雪奈がどんな思いで俺や紅葉と一緒にいたのか、なんて気づきもしないで、のうのうと過去に憑かれていたこと。それを、特に雪奈に、申し訳ないと思う。ごめんなさい」

「…………!」

「もしかしたら、俺は一生桜花さんのことを忘れられないかもしれない。あるいはあっさり忘れてしまうかもしれない。未来のことはわからない。だけど、うしろ(﹅﹅﹅)向きなことばかり考えているのは、きっといま(﹅﹅)に失礼なんだと思う。きちんとまえ(﹅﹅)を向いて生きていかないと、あの人にも申し訳が立たない。だから──ここで一区切りにしたいんだ。そのために改めて聞かせてほしい。雪奈の話の続きを──桜花さんの死の、核心を」


 それは、夏輝が彼自身を過去の呪縛から解き放つ言葉だった。紅葉が期待した以上の成果だ。すべてを過去にして彼が今を生きるための、はじまりの一歩。そこに辿り着けただけでも充分な収穫で──けれど、ここで止まる道理はなかった。せっかく過去と今を区切るのなら徹底的にやっておくべきだ、と思う。過去の亡霊に彼を奪われないためにも。


 それに、紅葉自身も聞きたいと考えている。聞かなければならない、と思っている。夏輝が悔いたのと同じように。今城姉妹の過去を知らずにいたことの贖いとして。


 真実を知らなければならない。


 その意志を紅葉が抱くと同時、雪奈もまた、震える声で語り始める。


「……わたしのほうこそ、頼まなくてはなりません」


 彼女の瞳は潤んでいる。夏輝の独白の途中からずっと感極まって、けれど涙が落ちないように気を張りながら。


「わたしもせんぱいと同じでした。同じ、だったのです。姉の死の秘密がわたしを過去に縛りつけている──取り憑いている。誰にも明かしていない秘密、その後ろめたさに囚われていました。振り切ることができませんでした。

 この長い髪が(﹅﹅﹅﹅﹅﹅)何よりの証拠です(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)

 わたしもまた過去を引きずっています。それを認めて、きちんと姉さんに向き合わなければなりません。だから、──話させてください。あの日姉さんに起きていたことを」


 もっとも、と。

 言葉を区切ると、雪奈は困ったような笑みを浮かべた。


「聞いてみれば、案外呆気ない真相かもしれませんが──」



   ◇



 彼女が下した結論に話を戻そう。


 雪奈は桜花に憧れていた。桜花のようになりたかった。しかし、桜花が存在している限り、桜花自身にはなれない。


 少女はそんな結論に至った。だが、その内容の正邪は問題ではないのだ。主張が適切かどうかはどうでもよくて。

 重要なのは、そこからだ。自分が抱いている感情に思い至った、と考えた雪奈が、その後どうしたのか。それが決定的な問題であり、雪奈の人生のなかで最大の悪手だった。


 彼女はその結論を、姉に直接伝えて(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)しまった(﹅﹅﹅﹅)のだ。


 断っておくと、そして残酷なことに、雪奈は悪気があってそうしたわけではない。もちろん姉が傷つかないはずはないとわかっていたが、しかし話さざるをえなかった。


 藁にも縋るような気持ちだったのだ。


 だって、そんなことを考えたくはなかった。大好きな姉に、大好きな相手なのに、消えてほしいなんて。思いたくないのに思ってしまう。夏輝を奪われる、大切なものを取られる、そんな邪魔者だなんて感じたくないのに。

 自分の嫉妬心をどうにもできなかった。どうすればいいのかわからなかった。けれどこんなこと、夏輝にも紅葉にも言えるわけがない。彼女の家のことを、雪奈の過去を知らない彼らに。そして他に頼れる相手は、よりにもよって、桜花本人だけだった。──だから話してしまったのだ。


 もちろん可能な限り柔らかい表現で。小学三年生なりに頭を捻って言葉を尽くして。できる限り姉のことを傷つけないように、相談したつもりだった。

 幼い憧れの扱い方を、幼稚な嫉妬の抑え方を、教えてもらおうとした。


 実際にその意図がどれほど伝わったのか、雪奈にはわからなかった。桜花はただ微笑むだけだった。雪奈が精いっぱいに自分の感じたことを伝えようとするのに、じっと耳を傾けて。そして、優しく微笑んだ。


「大丈夫。何も雪奈が心配することなんてないから」


 だから今日はもう寝なさい、と。

 その言葉を雪奈は真に受けた。


 優しい姉の言うことを、憧れの姉が言ったことを。羨ましくて妬ましくて疎ましくて成り代わりたくて消えてほしくて、それでも大好きな(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)姉のことを。

 信じて、眠りについた。



 翌朝、桜花は首を吊っていた。



   ◇



「そのときになって、ようやくわたしは思い知った(﹅﹅﹅﹅﹅)のです」


 今城桜花に憧れていた。

 彼女の優しさに。実の親から妹を庇って傷つく選択ができる、その強さに。彼女の美しさに。

 憧れて──そんなふうになりたい、と思ったのだ。守られるばかりなのは嫌だったから。自分のために傷つく彼女の姿は見たくなかったから。


 自分もまた、姉のことを守れるように。誰かのために自分を犠牲にできるような。

 そんな大人に──今城桜花(やさしいひと)になりたかった。


わたしは姉さんには(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)なれない(﹅﹅﹅﹅)


 今城桜花のそれは自己犠牲だった。

 他者のために自身を抛つこと。自分より大切なもののために自分を投げ出すこと。それができるのは桜花が優しいからだ、と雪奈は思っていた。彼女の優しさと強さが自己犠牲を成立させているのだと思っていた。


 誤解していた(﹅﹅﹅﹅﹅﹅)


「わたしは考えました。どうして姉さんが首を吊ったのか。信じられなくて、何度も何度も考えました」


 夏輝と同じだ。今城桜花に囚われた。けれど、違うのは。


「でも──何度考え直しても、結論は変わりませんでした。信じがたい結論がそれでも真実なのだと、その根拠が眼前にあることを、認めないわけにはいきませんでした」


 今城桜花は優しい人間だった。

 一見優しく見える(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)人間だった。


「姉さんはわたしを庇いました。両親の虐待から守りました。そのために自分が傷ついても。それだけなら(﹅﹅﹅﹅﹅﹅)単なる自己犠牲かもしれません。でもわたしが小学校に通うようになってから、姉さんは毎日わたしの下校に付き添いました。

 毎日です(﹅﹅﹅﹅)

 姉さんにだって中学の友人や活動や勉強があるはずなのに、毎日です。それも、単に夕方近所へ足を運ぶという程度では済まないのです。姉は毎日、たかがわたしを送る(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)ためだけに山を越えて(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)小学校と家とを往復(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)していた(﹅﹅﹅﹅)のです。それはもう、普通の優しさではない(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)


 雪奈がそれを知ったのは、桜花が自殺したあとのことだ。

 それまでは何も知らなかった。


 桜花が通う中学校は家から見て小学校とは反対の方向にあることも。彼女が毎日のように中学からの早退を繰り返していたことも。

 雪奈のためなら平然と授業を捨てられる、その異常を。


「あとはもう一直線です。姉がどうして自殺したのか、その理由を悟れないわけがありません。今までやってきたことの延長線上に過ぎません。

 姉は、妹であるわたしのためなら自分を犠牲にできる。

 だからわたしを虐待から庇いました。下校のときには送りました。そのわたしが、いなくなってほしいと言うのなら──姉さんはそれに従うまでのこと」


 ただ、それだけだったのです。


「だからわたしは思い知りました。だって、無理でしょう? 自分より大切な相手のためなら平然と命を差しだせる──そんな優しさは、わたしには無理でした。それを、それほどまでの自己犠牲を、──優しさとは思えません。

 わたしは(﹅﹅﹅﹅)そんなに優しい人には(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)なれないのです(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)


 そう言って。憑き物が落ちたように、しかしどこかうら寂しく、雪奈は微笑んだ。


「これで終わりです。全部話せて、すっきりしました。そう言ってしまうと、失礼かもしれませんが」


 その笑顔が、悔恨と罪悪感に軋んで。


「本当に、どうすればいいのでしょう、わたしは。直接的には姉の自殺だとしても、実質的には殺したようなものです。わたしの幼い嫉妬が姉を──夏輝せんぱいの初恋の人を奪ってしまった。そのことで、どう責められたとしても──」

「俺は責めないよ」


 すかさず夏輝が口を挟んだ。彼の表情を紅葉は読み解けない。平坦で、いつもどおりのような、何を考えているのかわからない顔で。


「雪奈のせいじゃない。あの人はちょっと消えてくれと言われたくらいであっさり消えてしまうような人だった、ってだけのことだ。それが雪奈の罪ってことはないし、もし悪いとしたらみんな同罪だよ。桜花さんがそういう人だって気づくことなく、表面的な優しさと見た目だけで好きになってしまった。むしろ悪いのは──そんな相手に初恋しちまった、俺のほうだ」

「そんな──せんぱいが悪いわけでは、」

「だろう? 雪奈はそう思うはずだ。俺が雪奈に思うみたいに」

「それは、……」

「だから、罪深いのはお互いさまだ。あるいは誰も悪くない。つまり恨みっこなし、ってわけだな」


 今にも泣き出しそうな雪奈に向けて、あるいは自分に言い聞かせるかのように、淡々と夏輝は言葉を並べる。


「それに──」


 そこで、夏輝の表情が波打った。目を少し細めて、口の端を軽く上げて、ぎこちなく笑みを形づくる。


「雪奈は桜花さんのことを異常だって言うけどさ、俺はそうは思わない。どうしてか、思えないんだな。あの人は、きっと優しい。ただ、その情念が行き過ぎているだけで。普通とはほど遠い過剰さで。それでも、俺たちや雪奈に向ける思いやりは嘘じゃなかった、と感じる。だから、俺は思うんだ」


 下手くそな笑顔だった。慣れているはずなのに見慣れない。完璧とは決して言えないのに、どうしてか輝いて見える。後藤夏輝という人間の情動が込められたような。


「──桜花さんはどうしよう(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)もなく優しい人だった(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)、って」


 夏輝が六年ぶりに見せる笑顔(ほんとう)に、紅葉は見惚れていた。



   10



 雪奈と別れて、帰り道を歩いている。


 彼女はなにか理由を並べ立てていたが、要は気を遣われたのだろう、と紅葉は思う。そうわかるくらいに、今の自分は使いものにならない。頭が蕩けている、自覚があった。


 ふたりきり(﹅﹅﹅﹅﹅)である。

 ふたりで並んで(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)歩いている(﹅﹅﹅﹅﹅)


 そう考えるだけで、意識するだけで、歩みがぎこちなくなる。隣の夏輝との距離が気になって仕方がない。もう少し近づきたい。いや、でも近すぎないか。ときどき手が触れあいそうになる。そのたびに身体が竦む。……そんなことを考えている自分を意識して、ますます顔が熱くなる。


 原因は瞭然としている。あの笑顔だ。それを見てから、なんとなく息が苦しい。夏輝の顔を見ていられない。とはいえ露骨に怪しい挙動をするわけにもいかず、自然体を装って適当な頻度で目を向ける。そのたびに、心臓がどきどきする。


 まるで惚れ直したみたいな。


 そんな考えがよぎって、頭が白熱した。惚れ、直した? それはない。……とは、言い切れない。でも、惚れ直した、という表現は否定したい。

 それではまるで元から惚れていたみたいな。いや、そうでないわけではないのだけれど。雪奈との話が脳裏に蘇り慌てて首を振る。鈍感な夏輝を攻略するために。そう息巻いた結果自分が攻略されては元も子もないのだがしかし。


 ……やはりこれは、恋なのだろうか。


「なぁ、紅葉」

「っひゃ、えっと、何よ」


 ものすごいタイミングで呼び掛けられて声が裏返った。横眼で窺うと夏輝は前方を向いたままで、たいして気にしてはいないのだろうがしかし恥ずかしい。ますます頬が熱くなって、こんなことばかり考えている自分に少し落ちこむ。まったく歯止めが効いていない……。


 区切りをつけたことも、大きな要因なのだろう。今の夏輝は呪いが解けている。桜花以外の女性にも目を向けてくれる、可能性がある。自分の想いを抑える理由がない。夏輝が好きなのは別の人だから、と諦める必要がない。……桜花のことを、考えなくてもいい。


 つまり、あれだ。夏輝にばかり気を取られていたけれど。

 自分もまた(﹅﹅﹅﹅﹅)囚われていた(﹅﹅﹅﹅﹅﹅)のだな、と紅葉は思う。


 ──今城桜花の呪縛が解けて、その反動がきている。


「さっきも言ったんだけど、改めてさ。悪かったな、って」


 そう続いた夏輝の言葉で我に返った。


「……何が?」

「桜花さんが亡くなってからの俺は、正直見ていられたものじゃないと思うんだ。というか、俺が一番そう思ってる。あの人のことしか、考えてなかった。他に何も手がつかなかった。そんな状況だったからさ、本来ならもっと、周りに迷惑をかけていたはずなんだ」

「…………」

「でも、そうはならなかった。もちろんまったく迷惑をかけなかったというわけでもなかったけど、致命的なことをやらかしはしなかったと思う。それはきっと、紅葉のおかげだ。傍に紅葉がいてくれたから、俺は最後の一線を越えなかった。自棄になってあの人の後を追ったり、学校生活を投げだしたりしなかった」

「…………、」

「それに。周りが迷惑しなかったのは、そのぶん紅葉が手を焼いてくれたからだ。思いだせば俺、紅葉に迷惑をかけてばかりだな。だから、今更ながらごめんっていうのと」


 前を向いたまま、夏輝は言った。


「──ありがとう。六年間、ずっと俺の傍にいてくれて」

「…………どういたしまして」


 ぶっきらぼうに言葉を返して、紅葉は顔を背けた。そうしなければならなかった。


 今の表情は、流石に見せられない。


 少しでも油断すると顔が笑みの形に崩れそうで。それでも頬の鮮紅は隠しきれない。できる限りに真顔を保って、夏輝と反対側を見た。


 ──でも。

 ──わざわざ顔を背けなくても、どうせ夏輝は(﹅﹅﹅﹅﹅﹅)気づかないだろう(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)


 そんな失望が脳裏を走って、急速に頭が冷えた。ちょっと嬉しいことを言われたくらいで勝手に盛りあがる自分が醜く思えた。


 ──何を期待していたのだろう。


 桜花への感情に区切りをつけたからといって、彼が自分に振り向くわけではないのに。夏輝にとって紅葉はただの友人だ。本人がそう言っていたし、そしてそれはきっとこれからも、



「……どうした、紅葉。顔が赤いけど」



 その瞬間、紅葉の思考は停止した。



「熱でもあるのか? それとも、まさか照れてるとか──」



 頭がうまくまわらない。脳がきちんと機能していない。自分がなにを考えているのかもわかりきれなくて、けれどただわかるのは──



「紅葉? っておい、ちょっと。なんだよ突然に。泣くなよ、もう──」



   ◇



 そうして、春が終わる。季節は移り変わっていく。

 輝かしい夏が過ぎ、秋には草木が紅く色づいて、そして冬には雪が降る。


 止まっていた時間が、ゆっくりと動きだす。


 失っていた甲斐性を少しばかり取り戻した夏輝がますます女子から人気になってしまい紅葉と雪奈も巻きこんですったもんだの痴話喧嘩(ラブコメ)が引き起こされるのは、また別の物語である。


























「……入学式までには、髪を切ろうと思うのです」

「そうなの? もったいないわね、せっかく綺麗なのに」

「ありがとうございます。……正直なところ、名残惜しいのはわたしもなのです。ここまで伸ばすのには結構苦労しましたし。ですが──だからこそ、とも思うのです」

「…………」

「わたしが長い髪を惜しく思う、そのこと自体が、いまだに囚われていることの証左です。このままではいけない、と思います。そうしなければ、せんぱいにきちんと向き合えませんし」

「……うん。雪奈ちゃんがやりたいようにするのが一番だと思うよ」

「はい。ですから──」



「春の残滓とは、お別れです」

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