鈍感な少年
6
「さて。せんぱいに関するお話とのことでしたが、わたしに何をご教授いただけるのでしょうか」
「本当に雪奈ちゃんは、なんというか、開き直るのが早いよね……。まあ、重要な話ではあるのだけど」
「じ、重要なお話、ですか……?」
「端的にいえば女性関係だね」
「じ、女性関係……」
抱いていた美少女幻想が、あっさりと崩れ去るのを紅葉は感じていた。再会が劇的だったことで補正されているとはいえ、それを抜きにしても雪奈もまた桜花と同様に大人びているのだろう、とは思っていたのだが。女性関係と聞いて頬を染める様子に、数分前に夏輝のことを弄っていたときの面影が消えていく。案外この子もぽんこつなのだな、と紅葉は思う。
「もしや夏輝せんぱいにはもう恋人がいらっしゃるとか……? さてはそれがご自分である、とか?」
「そ、そうじゃないってば。そうだったらどれだけよかったか」
「では彼女さんがいらっしゃることに変わりはないのですね……」
「それも外れ。夏輝は誰ともつきあってないよ。幼馴染としてあたしが保証する」
では何が言いたいのか、と訊きたそうな雪奈を前に、紅葉はひとつ咳払いした。
「その前に確認だけど。……雪奈ちゃんも夏輝のことが好き、なんだよね」
「そうですが。紅葉先輩もそうですよね」
「あ、あたしは別にそういうわけじゃ、……ではなくて。名前で呼んでくれるのは嬉しいけど、それもさておいて。やっぱり夏輝はモテるんだよね……」
照れ隠しが半分、本題のつもりが半分で紅葉が言葉を続ける一方、雪奈は首を傾げている。
「夏輝せんぱいがおモテになることがなにか問題なのですか? 好いた男性が他の女性からも人気であるのは誇らしいことでしょうに」
「……雪奈ちゃんは不安にならないのね。夏輝が他の女に靡いたりしないのか、とか」
「不安がないわけではございませんが、その点に関してはわたしも紅葉先輩を信頼しておりますからね」
「……?」
「わたしも紅葉先輩のことはそれなりに魅力的だと思っている、という意味です」
「あ、ありがとう……?」
なかなか反応に困ることを言う子だな、と紅葉は思う。
「その紅葉先輩が幼馴染として傍にいらっしゃるのですから、並大抵の女子生徒では夏輝せんぱいの心を奪えないでしょうね」
「……その信頼が少し怖くはあるけど。まあ、半分当たりで半分外れかな」
「半分、とは……?」
「夏輝が他の女に靡かないのは事実。これまでだけじゃなく、これからもね。だけどそれは、あたしがいるからじゃない」
そこで一息ついて、紅葉は雪奈のことをまっすぐに見つめた。これ以上なく真剣に、これまでになく真摯に。
「なぜなら、夏輝にとって──」
核心的な真相を、前原紅葉は告げる。
「桜花さん以外の女は眼中にないから」
「…………それはまあ、わたしも覚悟の上ではありますが」
正対する今城雪奈は、戸惑いを顔に出した。
「とはいえ今更です、と言いますか……せんぱいに残る姉さんの影をいかに払拭して自分の魅力を見せつけてやろうか、と奮起するところではございませんか」
「……それ以前の問題なんだけどね。まあ、これはずっと夏輝の近くにいたあたしじゃないとわからないかな……」
「む」
さりげない幼馴染アピールと受け取ってか雪奈が頬を膨らませるのに対して、紅葉は苦笑する。
「具体例で説明しようか」
「拝聴します」
「たとえば、数日前──ちょうどあたしたちが雪奈ちゃんを見かけた日のことなんだけど、その日に夏輝が告白されたんだよね」
「なんと、それほど最近のことでしたか。とはいえ先ほどまでのお話から推測するに、せんぱいはそれをお断りになったのであろうと思いますが」
「まあ、結果的にはそうだね。だけどその理由は、雪奈ちゃんが想像しているようなものとは違う」
「他に好きな人がいるから──では、ないのですね」
「そこまでロマンチックなものではまったくないよ。もちろん、仮に比べたとしたら桜花さんのほうが上位ではあるのだろうけど……でも夏輝は、そんなことすら意識していないと思う」
「それは、つまり──」
「そもそも比較対象として認識していない。女性として魅力的かとか自分の好みかとか、そういうことを判断する以前の段階。夏輝はたぶん、あの子のことをなんとも思っていない──文字どおりの意味でね」
「…………」
「そしてそれは、色恋沙汰に限った話じゃない。普段の学校生活ですらそんな感じなの。もちろん周囲と関わっていないわけじゃない。雑談には参加するし、授業も聞いているし、なにか頼みごとをされたらきちんと引き受ける。でもそれは夏輝にとって、日常生活を円滑に運営できないと困るから仕方なく──程度の意味しかないの。そのためにあいつは、愛想笑いの仮面を張りつけている」
にこにこと、へらへらと、いつも空虚に笑っている。
「だから実際のところ、夏輝が他の女に靡くところなんて想像もできないわね。だってそもそも、女とすら思っていないだろうから」
「…………」
「どうして、こんなことになっているのだと思う?」
「……わかりません」
力なく雪奈は首を振る。その顔色は蒼白で。紅葉がどうして真剣な顔つきをなのか、否応なく理解させられている。
「簡単だよ。びっくりするくらいに簡単で、呆れるほどに簡潔で、そしてこれ以上なく──、…………」
そこで言葉を呑みこんで、冷水で喉を潤して。
紅葉は笑った。
諦念と絶望と疲弊と、呆れに満ちた苦笑を浮かべて。
「夏輝は桜花さんのことを考えているの。ずっと」
だから他の女のことなんて考える暇がないのだ、と端的な事実を告げる。
「例外があるとすれば実の家族と、あとはせいぜいあたしくらいじゃないかな。伊達に何年も幼馴染やってるわけじゃないからね……これは自慢だけど。それでも、そんな前原紅葉であっても、後藤夏輝の恋愛対象には決してなりえない。無理なんだ、あたしじゃ」
それが前原紅葉の結論であり、敗北宣言だった。
「……でも」
気がつくと雪奈は顔を伏せていた。眼前の机を睨めつけるように、額に汗を浮かべながら、震える声を絞りだす。
「ですが、わたしなら──」
「自分なら違う、と思った? そうかもね。雪奈ちゃんは違う。でもそれは、魅力的だからじゃない。ただ桜花さんと容姿が似ているから、それを理由に夏輝の意識が逸れているだけ。そのうち飽きるでしょう。だってあなたは、」
「──それは!」
急激に狼狽えて雪奈は身を起こした。その瞳が揺れている。唇が震えている。大人らしい──姉らしい冷静さなど欠片もない。その姿を哀れむように、紅葉は言った。
「あなたは今城桜花じゃない」
「…………────」
「だから、あなたにも無理なの」
沈黙が落ちた。
紅葉は再度冷水を口に流しこんだ。やけに室内が暑く感じられる。店内の他の客からの視線を意識することはすでにやめている。ただ、静かに、雪奈の様子を見守っている。
彼女の表情は伺えない。頭を覆う腕に隠されて表情は読めない。項垂れる背がときおり震えて、束の間だけ本心を垣間見せる。
つまるところ、紅葉の推測は正しいようだった。どうして彼女が、長く髪を伸ばして夏輝の前に現れたのか。どうしてそれがこの歳になってからなのか、その目的と。
彼女の策謀に潜む致命的な欠陥への推測は、正しかった。
そうして、しばらくの無為が流れて。
「…………どうしてですか」
不意の、か細い声が紅葉の耳に届く。
「繰り返しになりますが……わたしは紅葉先輩のことを信頼しているのです。先ほどは茶化してしまいましたが、紅葉先輩が思っていらっしゃる以上に、強く。だから──わたしは思うのです。あなたがこれほどのことをわたしに言うのには、……理由があるはずです」
「…………」
「ただわたしのことを牽制するため、というだけではないのでしょう。それにしては先輩自身の弱みを提示しすぎています。ただわたしに現実を突きつけるため、というだけではないのでしょう。もちろん先輩自身が現状を確認するためでもありません。あなたはただ諦めるだけで終わるようなひとではない、と思います。絶望と不可能性だけを認めて終わるようなひとではないと、わたしは」
そこで今城雪奈は顔を上げた。少しだけ腫らした瞼と、頬を流れた涙の痕と、それでも強い意志を宿した瞳で。
「──あなたを、信じています」
「……それは買い被りすぎだと思うけどなぁ」
その眼差しに、つい先刻までの脆さを思わせないその強さに、前原紅葉は微苦笑する。
「でも、正解」
微苦笑では済ませることができず、朗らかに笑ってしまいそうになるのをこらえて、けれど喜色は隠しきれずに。
紅葉は続ける。
「状況は言ったとおりだよ。わざと手酷い言葉を選んだところもあるし、そこは否定しないけど、事実は変わらない。
夏輝は桜花さんに囚われている。
それはいっそ、呪いと言ってもいいくらいに。その呪縛が施されている限り、あいつが他の女を選ぶことはありえない。あたしも、雪奈ちゃんも、その前提を共有している」
前提が変わらなければ結論も変化しない。紅葉も雪奈も、桜花の幻影に敗北することになる。このことを認めさせるために、紅葉は敢えて強い言葉を口にしたのだ。
そして雪奈は、もはやその現実を前に迷わなかった。
「──わたしに、何をさせたいのですか」
「協力してほしい」
だから紅葉も、間髪すら入れずに要望を告げる。
「夏輝の呪いを解くために、あたしは雪奈を待っていたの」
「でも、それは……」
「確かにあたしは言った。あたしじゃ無理。雪奈にも無理。だけどそれは、あたしたちにとっての不可能を意味しない」
「なにか、手があるのでしょうか」
「ある」
断言して、紅葉は雪奈に笑いかけた。
「言ったでしょう? あたしは夏輝の幼馴染だから、あいつのことを誰よりも知っている。これは自慢すべき事実。だからどうすればあいつの呪いを解けるかもわかってる。だけどそれは、あたしには手が届かない。
そしてこれも言ったわね。あなたは今城桜花じゃない。だって雪奈は桜花さんの妹だから。その事実は揺るがないし──だからこそ、そこに可能性が残っている」
「……わかりました。わかっています。そして、今更です。わたしにできることならなんでもします。──だから教えてください。精神論でも根性論でもなく、具体的な方法を」
「……何のために?」
前原紅葉は尋ねた。わかりきったことを。
「──あの鈍感なせんぱいを、わたしたちで攻略するために」
今城雪奈は答えた。わかりきったことを。
恋する少女同士の同盟が、今この場に成立する。
「それなら話が早い。方法は単純だよ。夏輝の呪いとは、つまり桜花さんのことを考えてしまうこと。だから考える必要をなくせばいい」
「それは、確かにまあそうですが……」
それが可能なら労はない、と少女のジト目が訴えている。それを躱すように、提議は続けられる。
「無理筋ではないんだよ。むしろこれが正道なの。だって、夏輝が桜花さんについて考えることはただひとつだから」
「……と、いいますと」
「あいつはいつも、考えているの」
どうして今城桜花は自殺したのか。
7
後藤夏輝は考えている。
あの日からずっとずっと、いつものように考えている。
今城桜花が自殺したという、その報せを聞いたのはもう六年も前のことだ。それは突然の連絡だった。そして結局、それ以上を知らされることはなかった。
何もわからないまま、彼女は夏輝の前から消えていった。
葬儀にすら呼ばれなかった。それはいい。
一家の引越し先を知らない。それはいい。
問題はそれ以前。彼を悩ませるのはそもそもの話だ。
後藤夏輝は今城桜花の内情をまったく知らなかったということ。
桜花自身からなんの苦悩も事情も知らされなかったということ。
自分は彼女のことを、何も知らない。
それが夏輝にとっての衝撃であり議題だった。
だって、ずっと、見ているつもりだったのだ。
憧れ焦がれて背中を見つめた。心優しい年上のお姉さん。
けれど、それは表面に過ぎなかった。
考えてみれば、当たり前のことだ。
相手が自分にとって年上であるとは相手にとって自分は年下であるということ。もっと年配なら歳の差は些細なものだとしても、未成年だとそうはいかない。
今城桜花にとって後藤夏輝とは、なんにも知らないただのガキだ。
そんな相手に何を話すだろうか。何を相談するだろうか。
話さないし相談もしない。どう考えたって当然の結果だ。
だから夏輝は、どうして彼女が自殺したのかを知らない。
わからないのだ。
どんな悩みがあったのだろうか。どんな課題があったのだろうか。勉強のことか部活のことか受験のことか家族のことか将来のことか。そんな通り一遍しか想像できない。抽象論しか思い描けない。彼女の具体を何も知らない。
何が彼女を苦しめて。何が彼女を自殺へ追いこんだのか。
あるいはどうして彼女は自殺を決断したのだろう。どうやって自殺しようと思い立ったのだろう。そして彼女は、どんなふうに自死を遂げたのだろう。
屋上から飛び降りたのだろうか。電車の進行方向に身を投げたのだろうか。薬剤を過剰に摂取したのだろうか。手首を切って湯に浸したのだろうか。練炭を密室で焚いたのだろうか。絶食したのだろうか。首を吊ったのだろうか。
どの方法が失敗してどの手段が成功したのか。いかに計画を立案しどうやって材料を調達したのか。
そこまでさせるほどに彼女を追い詰めたのは、どんな理由だったのだろうか。
そんなことを考えた。
そんなことを考えているうちに月日は流れた。
陸上部に所属したのは考えるためだ。走りながら考えられるからだ。自分の思考を追いかけるみたいに走った。自分の過去から逃げ去るみたいに走った。あるいは頭を空っぽにしたいから走ったのだろうか。何もわからない。自分のことはどうでもいい。
ただ、今城桜花のことだけを考えている。
考えていた。
そんなある日に今城雪奈は現れた。
今城桜花のような外見の今城雪奈。
その姿に気をとられて、少しだけ思考が逸れた。
そこで気づいた。
何が桜花を追い詰めたのかわからない。どうして彼女が自殺したのかわからない。見当すらもつかない。
それは理由がなかったからではないか。
彼女が自殺したと告げたのは今城の家だ。自殺したからもう関わらないでくれ、そんなふうに聞こえた。
それは欺瞞だったのではないだろうか。
ずっと夏輝は今城桜花のことを考えていた。彼女のことだけを考えて、そのまわりが見えていなかった。
誰かが桜花を殺していたのだとしたら。
その動機があるのは誰だろうか。そんな愛憎が生まれるのはなぜだろうか。
桜花は自殺したと告げた電話。その主だった今城の母。彼女が嘘をついたのはなぜだろうか。彼女が庇っていたのは誰だろうか。
後藤夏輝は考える。
今城雪奈は今城桜花を殺したのではないか。
8
「……でしたら、もし今度夏輝せんぱいとお会いしたときには、伝えてください。雪奈がこう言っていた、と。
──わたしはずっと、姉さんみたいになりたかった」