Ⅷ
「おや、私としたことが、魔法学園へ送り届けた彼女に幻影魔法をかけておくのを忘れてしまいました。いやはや、うっかりうっかり」
ばしょう
きゅっ、きゅっ、きゅっ。
まだ朝日が昇って間もない早朝のヴィザリウス魔法学園の体育館の中にて、シューズのゴム製の底が擦れるそんな音が、響く。それと同時に、激しく床の上に叩きつけられる、バスケットボールのドリブルの音。
それらを奏でるのは、汗を流し合う二人のヴィザリウス魔法学園の男子魔法生だった。
レイアップシュートと呼ばれる、ゴール下からすくい上げるようにしてボールを入れるようなシュートをしてやった男子生徒がドヤ顔を浮かべるが、その姿を見ていたもう一人の男子は、肩を竦めて苦笑していた。
「残念。今のはトラベリングだ」
「う、嘘だ。完璧だったはずだ」
ネットを通過して落下したボールが跳ねる音が遠くなっていくと共に、誠次は不服気な顔をして、見守っていた友人の魔法生に詰め寄る。
「あのなあ。俺は一応この夏からバスケ部の主将になったんだし、バスケ初心者が堂々と不服を申し立てるな」
そうして、誠次の反則を指摘していたのは、2-Bの同級生男子であり、昨年の一学年生の時の学級委員会仲間である。バスケ部の活動が忙しくなってしまったために、二学年生からは学級委員を他の人物に託したとのこと。名前は寺川。最近彼女が出来たらしい。なんでも、梅雨明けに彼女の方が告白してきたとか。
「知っている人が急に部長になるとか、なんだか別人に見えてしまうな」
アンダーウェアである黒い半そでの服の袖で、かいた汗を拭いながら、誠次は言う。端的に言えば、どこか自分より特別な人感、というものが出ているような気がする。
「よせって。半分押し付けられたようなもんだし。先輩が勝手に俺を任命したんだよ」
雨は上がり、第二体育館の上部窓の先には、白い曇り空が広がっている。予報では、本日も不安定な大気となっており、午後になれば激しい雨が続くそうだ。台風も今夜、関東地方にいよいよ最接近する。
寺川は魔法でバスケットボールを手元まで引き寄せると、少しだけ面倒臭そうに、ため息をついていた。
「夏の大会でも活躍したそうじゃないか」
「そりゃあ。バスケは得意だけど、人にあれこれ指示出すのはまた違う。なんなら学級委員だって、他薦だったしさ」
寺川も服の袖で汗を拭い、器用に指の先でバスケットボールを回転させてみせる。彼にしてみれば、癖のような、無意識の行為なのだろう。真似してみたい。
「部長とか、向いてねーよ。人に指示するの、俺向いてねえんだよな」
誠次の横に立ち、億劫そうに寺川は呟く。
「でも、最終的には引き受けたのだろう?」
「他にやる人いなかったしさ。キャプテンになれば女子にモテるって言われても、そもそも俺もう彼女いるんだけど……」
二人は普段から積極的につるむほどの仲というほどではないが、廊下ですれ違った時には軽く挨拶をするくらい。今日の朝も学園の敷地内を走っていた誠次に、たまたま寺川が声をかけてきて、こうしてバスケットボールを二人きりでしていた。
部長となってから、寺川の心の中でも色々とあったようで、バスケがてら、半場相談相手のようなことになっている。
「まさかキャプテンなんてやるとは思ってなかったし。覚悟もなんもねーよ……」
「他の部員の責任を持ち、彼らの事を決める覚悟か」
寺川からパスされたボールを受け取りながら、誠次が呟けば、寺川は「そーそー」と頷く。
「最初は適当になんとかなるっしょ、とか思ってたけどさ。まったく上手くいかねえんだわこれが。他の奴の事もちゃんと考えないといけないし、自分がとった行動は本当に正しかったのかとか、一々考えなくちゃいけない」
言いながら、誠次からパスされたボールを両手に、寺川はお手本でも見せるかのように、誠次の前で華麗なレイアップシュートを決めて見せる。
素人目でもわかる、素人とは違った床から足が跳ねるまでの一切の無駄のない鮮やかな動きに、誠次は思わず見惚れていた。
「正直、こうやってなにも考えないで友だちとバスケしてる時が、気が楽で楽しいわ」
床に着地しながら、軽く膝を曲げ、寺川は落ちたボールを拾い、誠次にパスする。
「しかし、部員を率いる部長と言う身分となってからでは、他の部員の事まできちんと考えないといけない。確かに、誰かの上に立って指揮すると言う覚悟は、相当必要なんだろうな……」
そんなことを呟きながら、誠次が遠くからゴールへ向けてショットしたボールは、リングに直撃して跳ね返ってくる。
「……」
「下手すぎ下手すぎ」
むすっとする誠次をしり目に、寺川は手を叩いて笑っていた。
「そうだ天瀬。久しぶりに朝飯食うか? 食堂はアルゲイルの連中が幅利かせてるみたいだし、いっちょガツンと行っとく?」
「い、いや……。不必要にもめ事を起こすつもりは……」
「お前が言う? 夜のパーティー参加禁止君?」
「それを言うなって!」
ニヤニヤと笑いかけてくる寺川に、その後も誠次はバスケットボールで弄ばれていた。相手のボールを奪おうとも、ひらりひらりと躱され、どれがファウルなのかもよくわからずに、瞬く間に突破される。
「ハアハア……閃いたぞ!」
「と、突然なんだ?」
汗を流しながら突如、目を見開いた誠次に、寺川がおっかなびっくりに立ち止まる。
「このバスケの動きを、俺の剣術に取り入れれば、新たなアクセントになるかもしれない! ものは試しだ!」
「……いや、無理だろ」
本日は、ニ大魔法学園弁論会当日だ。
昨日の大量の雨を受け止めた若い緑の葉は、水の雫を垂らして落としていく。
本日の昼下がりの昼の部では、両校の生徒会同士による弁論会本番。そして日が暮れた夜には、夜の部として両校の魔法生を交えたパーティーが開催される。
静寂に包まれた、薄暗い第一体育館の中。魔法によって運ばれた椅子が辺り一面にずらりと並び、中央のせりあがったステージを睨んでいる。間もなく昼の部である、ヴィザリウスの生徒会とアルゲイルの生徒会同士の弁論会が行われるメイン会場だ。両校の生徒会が゛より良い魔法世界゛を作るために、魔法に関する議題を話し合う会である。
「――うちの学園からは、魔法世界にフィットした魔法生たちの暮らし作り、だって。ただ、聞こえは良いけど、主な内容は女子生徒の制服デザインの変更とか、わーこの私利私欲にまみれた個人的なお願い事だよ……」
「それを貴女が風邪を引かれてしまったときに、勝手に会議で通されたのですよね」
「そう。まあ、佐代子も関わってたんだけどね……」
生徒会同士が向かい合うステージ上を見上げる形で広がる観客席。傍聴席と、言うべきか。そこの最前列の席に、隣同士で座りながら、三学年生の女子魔法生と、二学年生の男子魔法生が会話をしていた。
青い髪に、夏服の左腕に生徒会の腕章を巻いた女子、波沢香織と天瀬誠次である。
「そんな事より、誠次くんの方!」
香織がやや頬を膨らませ、隣の席に座る誠次を見る。
「夜のパーティー参加中止。巻き込まれたのに、酷い話だよね」
「いえ……俺にも非はありましたし……。それに申し訳ありません。香織先輩の大事な会に、水を差すような真似をしてしまって……」
誠次は浮かない表情で俯きかける。
香織は、ううんと首を横に振っていた。
「気にしないで。まだ緊張はしてるけど、私は平気。だから誠次くんも、気にすることは無いよ?」
「しかし……」
昨夜の女子寮棟で起きた戦いのこと。そのことは当然、生徒会長の耳にも入っているはずだ。そして今もいる特殊魔法治安維持組織の隊員たち。彼らの明確な目的もよく分からぬまま、一人の脱走者を追うとの名目で、まだこの学園に彼らは留まっている。今朝も、何名かほどの隊員とすれ違った。
魔法生たちからしてみればそれは得体の知らない恐怖として、不安や恐れを抱くものが大半だ。誠次と香織を、含めて。
香織も誠次の横顔をじっと見て、恐れの理由を悟ったようだった。
「あんなことがあったのに、弁論会開催を強行するなんてね。中止になるのは嫌だったけど、安全面を考えれば、不安だよね」
香織の言葉通り、昨夜女子寮棟で起きた惨劇と、特殊魔法治安維持組織の介入にも関わらず、会は平常通りに続けられる。そのことについて、教師陣からの説明は今のところ、なにもない。
「……なにも起きなければ、いいんだけどね……。出来れば私も生徒会長として、みんなに喜ばれるための事をしたいかな」
「香織先輩……」
誠次もまた、香織の綺麗な横顔をじっと見つめる。
多くの魔法生たちの上にたち、皆を率いる身分である彼女の生徒会長としての責任と器量。それらを担うのは、やはり、決して楽なことではなかったことだろう。――そして、そんな彼女の今に少なからず関わっている身の自分。
それらを思い、誠次は人知れず、軽く息を吸っていた。
「どうか安心してください。この学園でなにが起ころうとも、必ず俺は、この学園の魔法生のみんなの為、貴女の為にも戦います。身分や立場は違えど、その覚悟は貴女と同じものだと思っています」
遠くを見つめるようにしていた香織の眼鏡の奥の青い瞳が揺れ動き、やがて心の落ち着きを取り戻したかのように、綺麗な形を取り戻す。その視線の先には、意気込む誠次の姿があった。
「ありがとう誠次くん。一緒に頑張ろうね。いつも、頼りにしちゃってるよ」
「お互いに、ベストを尽くしましょう」
香織と誠次は見つめ合い、微笑み合う。
香織はこの二大魔法学園弁論会の仕事を終えれば、生徒会長としての目立った仕事も終わりを迎え、任期を満了する。多くの魔法生たちの手本となるべき姿が終わったその後の事は――今はまだ、隣に座る男子を見つめる彼女の胸の内に、秘めていることであった。
※
二大魔法学園弁論会は予定通り行われる――。ヴィザリウス魔法学園の職員室では、その決定に不満や不安の声が多く出たことは、言うまでもない。
事実的なところとして、昨夜の女子寮棟での戦いが起きたことから、魔法生たちの安全面を考慮すれば延期、ないしは中止が妥当な判断だと、思われていたからである。
「すみません皆さん……。私自身、延期にするべきだとの意見は魔法執行省関係者へ送りました」
徹夜明けにもかかわらず、いつも通りの冷静さと凛々しさは失わず、職員室の教師陣に八ノ夜が告げる。中には年上の教師陣も普通にいる魔法学園の職員室の中でも、彼女の理事長としての地位は揺るがないものだ。
「しかし今朝になり、魔法執行省からの返答は、予定通りの開催、の一点張りでした」
もともと二大魔法学園弁論会という行事は、魔法執行省が世界各国へのアピールの為に、スポンサーのような役割をしていた。多くの魔法学園外関係者も関わっている大規模な会の為、あくまでそこの言葉には、従わざるを得ないと言うのが、現状の両校の魔法学園の立場である。
「物騒な話ですね。すでに事件は起きていると言うのに、これでは魔法生や我々の安全面を無視されていると言わざるを得ない」
「魔法執行省は一体何を考えているんだ?」
職員室の中で飛び交うのは、ヴィザリウスとアルゲイル、両校の教師たちによるそんな言葉だ。
(……一体、どうするつもりなのだ、本城直正……)
八ノ夜自身、内心で憤慨と疑念が入り混じることとなった今回の決定に、納得などしていなかった。現在ヴィザリウス魔法学園内で起きたことはきちんと報告したはずだが、朝に帰って来たのはあのような返答。中止か延期になるとばかり思っていた事態が百八十度覆され、思わず変な声を出していた。
最終的な決定権はかの人、本城直正にある。そんな彼は間もなく、この魔法学園に到着するそうだ。
※
間もなく弁論会本番が行われる第一体育館に向かう足取りは、どれもこれも重たいものばかりだ。昼の部がどうしても面白くなりそうにないと言う、気持ちの表れだろう。
中には、寮室に引きこもって不参加を試みようとする魔法生もいたようだが――。
「オラテメェら! いつまで部屋の中にいる気だ!?」
ばんっ。そんな音を立てて、ヴィザリウス魔法学園女子寮室のドアが開け放たれる。
玄関に立っていたのは、小学生のようにちんまりとした体型の、立派な女性教師であった。
「「「「うわ、ミシェル先生だ!」」」」
アルゲイル魔法学園より、引率の教師の一人としてヴィザリウス魔法学園までやって来ていたミシェル・山本の姿を見るなり、サボろうとしていたアルゲイルの女子生徒たちは慌てて部屋を飛び出ていく。
「ったく。まあ、確かに面倒臭い気持ちはわかるがよ。ほらさっさと行け、ヤンキーども」
「どっちがヤンキーですかミシェル先生……」
「言ってろ言ってろ」
俺も堅苦しい行事は苦手だ、とぼやきながら、ミシェルは白衣のポケットに小さな手を突っ込み、次の寮室へと向かう。
女子寮棟の道中には、昨夜の騒動を知らない女子たちが、今晩のパーティーへ抱く、淡い思いや大いなる願望やらを次々と言葉にしながら、歩いていく。そんな彼女らと同じぐらい目にするのが、一言も発する素振りはない特殊魔法治安維持組織の女性隊員たちであった。騒動の現場とあり、ここに来れば露骨に隊員の姿は多くなり、彼女らはまるでなにかを監視しているようである。
内心で舌打ちしたい心情を抑え、ミシェルがやって来たのはお次もまた、アルゲイル魔法学園の女子生徒が寝止まる部屋であった。
「おい。部屋の中にいるのは空間魔法でわかってる。無駄な抵抗なんかしないでとっとと出てきやがれ。さもなきゃ引きずり出すぞ」
ミシェルのドスの効いた声を聞いたのか、部屋の中からアルゲイル魔法学園の黒い制服を着た女子生徒が、思いの外すんなりと出てきた。
しかし、出てきた少女たちの表情はいずれも険しく、俯いているものが多かった。
「み、ミシェル先生。あの……」
うち一人の少女が、頭一つ分は小さいミシェルを見つめて、こんなことを言い出す。
「理ちゃんが、布団にくるまったまま出てこなくて……。何回も声かけたんですけど……」
「あと、はるかちゃんが、行方不明なんです……。昨日から、いなくて……」
「んだと?」
部屋の中にいた女子生徒から次々とそんなことを告げられ、ミシェルは小首を傾げていた。
「ここはオレがやるから、お前らは早く会場行け」
「は、はい」
女子生徒はペコリと頭を下げてから、駆け足で第一体育館へと向かっていく。
これが男子生徒ならば殴ってでも外に出すつもりでいたが、ミシェルは部屋の中にずかずかと入っていった。
「邪魔するぞ」
部屋の廊下を歩き、リビングを素通りし、奥にある二段ベッドが並んだ寝室へ。その一階部のベッドの上で、布団にくるまってすすり泣く小野寺理はいた。体育座りをしているのか、三角形の布団の山が、小刻みに動いているようだ。
「おーい。オレだ。一体どうした?」
「……」
「泣いてたってわかんねーよ。布団どけるぞ」
ミシェルはそう言ってから、理が頭から被っていた布団をどける。
中から花が咲くように現れた理は、予想通り体育座りの姿勢で、交差させた腕の中に頭を俯かせて埋めていた。
「どうした? なんかされたのか?」
理はベッドのすぐ横に立つミシェルを見ることもなく、返事もなく、すすり泣き続けている。
「勘弁してくれー……。先公のオレが言うのもアレだが、こう言うのはオレの専門外だ」
ミシェルはため息をつき、理の肩を揺する。しかし理は、人形のように力なく、うんともすんとも言わなかった。
このままでは埒が明かないと、ミシェルは理をじっと見つめてみる。
「いつから着替えてないんだ? 制服汚れてるぞ」
「……」
「あと、雛菊はるかが行方不明らしい。本当だったら大問題だが、何か知らないか?」
ミシェルがその名を口に出すと、理は一瞬だけピクリと反応し、なんと埋めていた顔を急に上げた。
「……っ」
涙と汚れでぐしゃぐしゃになっている小さな顔は、ミシェルを見つめると、より一層の涙を流し始めた。
「お、おいおい……」
ミシェルは驚き戸惑いながらも、泣きじゃくる理の傍に寄る。
「何が起こった? 雛菊はどこだ?」
「私が悪いんです……全部私のせいなんですっ!」
「どうしたんだ? 何が起きたか話せ」
「私が……私があっ!」
「落ち着け!」
ミシェルが幾ら宥めようと、理は一向に変わらずに、泣き続けている。
「……駄目だ、こりゃ」
養護教諭ではあるが、生徒の心のケアは専門外であるミシェルは、一旦理をその場に残し、部屋の外に出る。雛菊はるかの消息不明と、なんらかの関わりがあるのは確かだ。問題は理がそれを話してくれないことなのだが、なにか話したくない理由でもあるのだろうか。
「ヴィザリウスの先公に、協力してもらうか」
そう考えていたところでミシェルは、部屋の外である女子寮棟の廊下にて、とある不審点を見つける。それはリノリウムの床に広がっている、微かな色違い。
小さな身体でヤクザ座りの姿勢でしゃがみ、ミシェルはその汚れをじっと見つめる。
(間違いない。血だなこれ……)
何やらきな臭い感じになってきた。丁寧に拭き取られてはいるが、その道のプロからすれば、その微かな名残は簡単に分かった。
やがて、ミシェルが呼んだヴィザリウス魔法学園の知り合いの教師が、駆けつける。
「わざわざ我輩を呼ぶとはな。ミシェル山本ッ!」
それはまるで鋼のように、筋骨隆々。それでいて背丈もこちらの二倍以上はあろうヴィザリウス魔法学園のマッチョ養護教諭、ダニエル・岡崎である。上半身裸の上に白衣だけを身に着けていると言う出で立ちである。
「ダニエル。お前とは腕相撲の勝負といきたいところだが、今はお預けだ」
ダニエルが作り出す照明の明かりの影の下にすっぽりと収まるミシェルは、ダニエルを見上げ、険しい表情をする。
「なんだと!? 顔を合わせる都度腕相撲をするのが、吾輩と貴公との筋肉の交わりというものではなかったのかッ!?」
「なんだ筋肉の交わりって。悪りぃがそれどころじゃねえんだ。ダニエルお前、これなんだと思う?」
ミシェルはそう言い、子供用サンダルを履いた足で床を小突く。
すぐに熱を収めたダニエルは、窮屈そうにその場にしゃがみこんで床を睨み、ふむと、カイゼル髭の上の鼻を鳴らしてた。
「拭き取られてはいるが、血のようだな。しかもこの量、鼻血レベルと言った軽いものではなさそうであるな」
「お前もそう思うか。んでもって、今この部屋の中にいる女子が一人、行方不明なんだ」
「なんだと……!?」
ダニエルは立ち上がり、ほりの深い目元の眉を曲げる。
「ミシェルよ。……この場合はもはや、我輩ではなく特殊魔法治安維持組織の出番ではないか……?」
「何言ってやがる筋肉バカ」
「筋肉バカだと……!? ……それも良いなッ!」
「さすがに言い過ぎたか……って、良いのかよっ」
妙に納得され、ミシェルはこてっ、と小さな姿勢を崩す。
「ただでさえわけわかんねー理由で特殊魔法治安維持組織がこの学園に乗り込んできてるんだ。信用できるか」
「しかし現に生徒が一人行方不明となっているのだろう? まずはその子の安全が第一であろう」
「だから、そのことについて話を聞くために、お前を呼んだんだよ。部屋の中でめそめそ泣いてる女の子をどうにかしてくれ」
ミシェルは腕を組んでそう言うと、すぐ後ろのドアを指し示す。
「こう言うのは絶対オレよりお前の方が得意だろ?」
「我輩、生徒に愛される保健室の先生を目指しているのだが、反応はイマイチであるぞ」
「オイオイ。二人して保健室の先公失格かよ……」
「その泣いている生徒とは?」
白衣のポケットに手を突っ込んで肩を竦めるミシェルに、ダニエルが問う。
「小野寺理って言う女子だ。知ってるか?」
「小野寺……ハッ! ここで待っていてくれ!」
ダニエルはなにかを思い出したように、その場から猛ダッシュを開始する。
巻き起こった風に白衣を靡かせ、ミシェルは何事かと、旧知の仲であるダニエルの背中を見つめていた。
※
同時刻、ヴィザリウス魔法学園の男子寮棟。廊下では今まさに、体育館に向かおうとする男子学生たちで溢れかえっていた。
がやがやと賑やかな話し声の割に、退屈そうな表情を浮かべている生徒が大多数である。
そんな中を、誠次と志藤を含めたルームメイトたち八人が通っていく。
「なんだ、ありゃ?」
何気なく視力が良い志藤が、進行方向である前方を睨んで呟いている。
他の七名の男子も立ち止まり、志藤が見ている方と同じ方を目を凝らして見てみる。
「うわっ!?」「なんだなんだ!?」「このラグビー日本代表ばりの突破力、化物か!?」
男子生徒が次々と慄き、後退してきている。
白亜の廊下の遥か彼方から接近してきていたごつい影は、立ち尽くす誠次達の目の前で急停止する。キュルキュルと、停止の為に床を擦る音が鳴り響き、誠次たちはやってきた巨躯に戦慄する。
「驚かせてすまない諸君ッ! 小野寺真クンはいるか!?」
やってきたダニエル・オカザキは、誠次たち一行の前で鼻息を荒く聞いてくる。
あまりに突然の事で、思考が停止している七名を余所に、その最後尾にいた小野寺真が反応する。
「じ、自分ですか?」
「オオッ! その愛くるしい小動物のような面持ちをした君ッ!」
廊下のど真ん中で、大勢の男子がいる中でそのようなことを言われ、小野寺は顔を真っ赤にして橙色の髪を逆立てる。
「な、何のようですか!?」
「君の妹の事なのだッ! ついてきてくれないか!?」
「あ、理……?」
小野寺はきょとんとした様子で、小柄な身体を揺らす。
「その通りであるッ! ついてきてくれないだろうかッ!?」
「え、ちょっと――っ」
「諸君ッ! 騒がせてすまなかったッ!」
「ど、どなたか、うわああああ――っ!?」
ダニエルに攫われるように、小野寺が列から離れていく。
その一部始終を見守っていた男子たちは、ほっと胸を撫で下ろす。特に、日頃からひと際ダニエルの寵愛を受けている誠次の安堵の具合と言えば、格別なものであった。
「「「「「「「俺らじゃなくて、よかった……」」」」」」」
何事だかは分からないが、頑張れ、小野寺真。
※
そうして、数々の不安要素を抱いたまま、ニ大魔法学園弁論会昼の部は、表向きは平和の様相で開催した。
「よろしくお願いします」
波沢香織とアルゲイル魔法学園の男子生徒会長が、握手をしている。
数千人が入る魔法学園の体育館。せり上がったステージの上では、そうして合計八人の両校の生徒会メンバーが、真剣な面持ちで議論を繰り広げている。
香織はもちろん、渡嶋も火村も水木も、この時ばかりは緊張と責任感もあり、全員真剣な姿で議題に取り組んでいる。
それを見守る人々の列の中に、弁論会の開催宣言を行った本城直正の姿はあった。
「彼女の容態はどうだ?」
空中に浮かび上がる数個のホログラム映像に、波沢香織が話している映像が映し出されている。
その間、周囲の人に気づかれぬような小声で、直正は朝霞と通信を行っていた。
『立って歩ける程度には回復いたしました。しかし、肝心の情報の方ですが、少々問題が』
「問題? 今度はどうした?」
『それが――』
「――なんだと?」
耳元に装着している小型デバイスから告げられたとある事実に、直正は黒い目を見開き、周囲を見る。
日本に2つある魔法学園が揃う行事とのことで、世間の関心も高い。その様子を報道する為に、多くのテレビカメラや報道機関も、この魔法学園の体育館に多くいる。
「データが、不足している……?」
※
「小野寺理。本日未明にいつの間にか、寮室に戻って来ていたようです。彼女は心身ともに疲弊しております。とても取り調べを受けられるような状態になく、巻き込まれただけだと、彼女自身も言っていました」
ヴィザリウス魔法学園の図書棟は現在閉鎖されており、特殊魔法治安維持組織よる仮の作戦本部となっていた。
今朝のうちにヴィザリウス魔法学園へと戻ってきていた日向に、小野寺理への取り調べを行った隊員からのそんな報告が入る。
特殊魔法治安維持組織にとって今の小野寺理は、雨宮愛里沙の行方を知る最重要人物としてマークをしていた。
「いかがいたしましょう、日向隊長。幻影魔法で無理やり情報を聞き出す手段もありますが」
「……」
単純明快、簡単な手段であった。幻影魔法を扱い、小野寺理から無理やりに情報を聞き出す。
だがしかし、日向は首を横に振る。
「……いや、この学園の責任者との約束だ。魔法生への無理やりの取り調べは行えない」
「ですが、状況が状況です。私たちの仲間も、正体不明の剣術士により、負傷しました……」
「分かっている……。……だが、我々は特殊魔法治安維持組織として真っ当な捜査活動を行うべきだ」
あくまで冷静なまま、日向は告げていた。
そんな日向の様子を見た女性隊員は、納得した面持ちで、引き下がる。
そうしたやり取りが繰り広げられたここは、ヴィザリウス魔法学園の図書棟。高くそびえる本棚に、数多の本に囲まれたこの場所は現在、特殊魔法治安維持組織が雨宮愛里沙追跡の為の臨時の拠点となっていた。
部下からの報告を整理すると、剣術士がもう一人いることになる。金髪だった等、外見的な特徴があまりにも天瀬誠次と一致していない。
(剣術士がもう一人……)
勘弁してくれ、と心の中でため息をこぼしながら、日向は部下にそれを悟られないうちに、次の指示を出す。
「……そちらの班は引き続き小野寺理の監視を頼む。俺たちは引き続き雨宮愛里沙の捜索と、その剣を持った学生とやらの捜索も行う」
「了解しました」
たった一人の脱走者を追う。それは当初、簡単な任務に思えた。それが様々な勢力の介入もあり、事態は混迷を極めようとしていた。弁論会開催中のヴィザリウス魔法学園を舞台に、特殊魔法治安維持組織の他にも、雨宮の身柄を確保しようとしている組織がある。
「雨宮……お前は今、どこにいるんだ……?」
学生時代に通い慣れた、ヴィザリウス魔法学園の図書館の二階部にある窓から見える棟を眺め、日向は呟いた。
そう言えば、この図書館も学生時代にはよく利用していた気がする。そんな時はいつだって思い出すのだ。
共に学び、共に汗をかき、共に成長した、かつての友の姿とやらを。
※
弁論会昼の部は、ヴィザリウス魔法学園の第一体育館で続いていた。
誠次は一階席の魔法生用最前列の席で、両校の生徒会役員が真剣に話し合う様子を見守っていた。誠次から見て斜め左前の席には、本城直正が座っている。
右隣に座る志藤は、時よりあくびをこらえながらも、どうにか踏ん張って話を聞いているようだ。
何が起こるかは分からない。狙ったようなタイミングで、特殊魔法治安維持組織だって来ている。
誠次は背中と腰にレヴァテイン・弐を装備したまま、油断なく周囲を警戒していた。
「にしても、小野寺のやつ遅くね?」
またあくびを噛み殺した志藤が、誠次に問う。
「確かに、ダニエル先生に誘拐されてから結構経つな」
「あの幼気な身体になにかされちまってるのかもな……」
恐ろしげな表情で、志藤とそんなことを話していると、不意に背中を手で叩かれる。
何事かと振り向こうとした頭のすぐ横に、男の顔があった。
「小声で話せ。剣術士だな?」
「そうですが……」
左耳に直接当てられる言葉に、誠次は頷いてく答える。
一体誰だ、と考える間もなく、見知らぬ男の言葉は続く。
「共に来い。君が会うべき人が待っている――」
「今からですか? それにあなたは……?」
「――が、君を待っている」
男の口から、とある男の名を聞かされたとき、誠次の胸は確かに音を立てて鳴った。
あの人が、おれを、待っている……?
思わず黒い目を見開いた誠次は、隣に座る志藤にまず声をかける。
「すまない、少しばかり席を空ける」
「はあ? いや、それ良いのかよ……」
驚く志藤の前を通り、誠次は一旦体育館の外へと向かう。
見知らぬ男に言われた通り、誠次は一人で第三体育館に向かう。
そこは第一と同じ広さなのかと疑うほど広々としているように感じ、また、第一の熱気が嘘のように静まり返った、静寂の広間であった。むわりとした熱気を感じる中、シューズを専用のものに履き替えた誠次は、奥へと進んでいく。照明はついていない昼下がりの体育館の中は、やや薄暗かった。
「?」
不意に、背後の方で体育館のドアが音を立てて閉まる。それが人為的なものであったことに気がついたのは、周囲に見知らぬ人々が立っていたからだ。
Tシャツ姿であったり、体育館の中にいた人々の姿格好はバラバラであった。
「――驚かせたかな、天瀬誠次くん?」
そう言いながら、ステージ上に姿を見せたのは、本城直正であった。
そして、もう一人――その男は、フード付きのマントを羽織っていた。
体育館の窓から差し込む日光が彼の姿を鮮明にさせたとき、誠次は思わず、息を呑んで黒い目を見開く。
「影塚……さん……っ?」
両手を持ち上げ、フードを降ろした姿の顔立ちは、口元を軽く開けた笑顔で、こちらを見ていた。
「やあ。久しぶりだね、天瀬くん」
かつて憧れを抱いた魔術師の男の、少し変わってしまった姿が、そこにはあった。こうして直接会えたのは、もう一年以上も前だっただろうか。久し振りに会う人の姿は、一年越しではやはりそれぞれ、とても変わってしまったように思える。
それはとても、夏休み明けの友との再会による笑い話で済まされるようなものではない、変貌ぶりであったのだ。
〜いつかあなたの心に満開の花を〜
「波沢さん、少しお訊きしたいことがあります」
ありさ
「第一分隊の愛里沙か、どうした?」
あかね
「ええと、日向隊長のことについてです」
ありさ
「学生時代は、貴女とも仲が良かったと聞いています」
ありさ
「同じ生徒会メンバーだったからな」
あかね
「それがどうかしたか?」
あかね
「そこで……日向隊長の趣味とか好きなものとか……」
ありさ
「なにかご存知ないでしょうか……?」
ありさ
「あまり自分のことを話してくださらないので……」
ありさ
「なにか、贈り物をしたくても、困っていて……」
ありさ
「アイツの好きなものか……」
あかね
「ああ見えて、確かガーデニングが趣味だったとか――」
あかね
「雨宮? 急にどうした?」
れん
「これ、受け取ってください」
ありさ
「日頃の感謝のしるしです」
ありさ
「……あ、ありがとう」
れん
「これは……植物の種?」
れん
「向日葵の種です」
ありさ
「隊長ならばと思いました」
ありさ
(俺はなにか、雨宮に試されているのか……っ!?)
れん




