Ⅱ ☆
「朝起きたらまず天気予報を確認して、今日は傘は必要かどうかきちんとチェックするんだ。あ、忘れ物はないか? あと、朝飯はちゃんと食べてから――」
しょう
「――ぎゃははははっ!」
「ざまーない! ざまあないぞ剣術士!」
「日頃の行いの報いだな!」
談話室での乱闘を終え、教師からの説教を喰らい、一時的に八人部屋となっている寮室へと戻ってきた誠次を待っていたのは、志藤のルームメイトからの歓喜の笑い声であった。
「……っく。手を出したこちらにも非がある以上、反論が出来ん……」
不貞腐れた表情のまま誠次は、借り物のウエイトレス用の制服を脱ぎながら、肩を落とす。
「でも、実際大問題じゃね? 香月とか、女子にどう説明するんだ?」
すでに起きていた悠平は、タンクトップ姿のまま、ソファに寝っ転がってゲームをしており、ちらと顔を上げて誠次へ問う。
「……談話室で喧嘩して、罰としてパーティーの参加が不可能になった……と言うしか……。……怒られるだろうな……」
項垂れる誠次は小声で呟く。
そうすれば、志藤のルームメイトたちは、歓喜の声を上げていた。
「苦節一年と数カ月……! とうとう、俺たちにも美少女との出会いのチャンスが!」
「興味ないフリももう無意味だな剣術士! 寮室に籠もっていれば、さすがのお前でも出会いは期待できまい!」
「敢えて言ってやろう天瀬……! 我々は勝利したとっ!」
「別に興味がないわけではない……。パーティーの食べ物とか、女子のドレス姿とかあったのに、参加できないのは悔しいさ! ああ! それはもう!」
反論にならない反論を、誠次は唇を尖らせてぶつぶつと言い、ヴィザリウス魔法学園の白い夏服の青いネクタイを、力を込めてぎゅっと締めていた。これから談話室に小野寺と向かい、後片付けをしなくてはならない。
誠次はその前にと、寮室のお手洗いに向かっていた。流石に、風呂とお手洗いの使用は許可されていた。
「でも、天瀬が参加できないんじゃ、ワンチャン香月たちも参加しないんじゃね?」
暇そうに椅子に座り、テレビを見ていた志藤がくるりと振り向き、そんなことを言ってくる。
「「「なん、だと……?」」」
「生徒会同士が弁論する昼の部は強制参加だけど、夜の部は自由参加だ。本命の男の子が来ないパーティーに、香月たちが参加するとは思わないけどなー」
志藤がなあなあと椅子の背もたれに腕を添え、そんなことを言えば、ルームメイトたちは愕然とする。
「ふう。小野寺、シャワー浴び終わったか?」
飲料物で濡れた身体を洗っている浴室の小野寺に、誠次が声をかけながらお手洗いから戻ってくると、志藤のルームメイトたちが先程とは一八〇度うって変わった様子で、誠次に慰めの声をかけてくる。
「天瀬っ! 俺、お前と一緒にパーティー出てえよ!」
「ええ!?」
「なんとかなんねえのか!? ちくしょうっ!」
「なんとかって……言われても……」
「俺、実はずっと前からお前のこと、好きだったんだぜ……? この気持ち、諦められねえよ……っ!」
と言ってくる、お手洗いに行った時に急に態度を変えた志藤のルームメイトたちに、
「お前ら……。ん……いや待て。だからさすがに好きはおかしい!」
一瞬だけ感動して傾きかけていた誠次が、慌ててツッコんでいた。
――そして、
「みんなその場を動くなっ!」
突如として、聡也の怒鳴り声が寮室内に響き渡る。
全員ぎくりとし、叫んだ聡也を何事かと見る。
「一体どうした聡也?」
誠次が訊く。
「眼鏡が見つからない……! 床に落ちている可能性があるから、踏まないようにっ!」
未だ寝間着姿で裸眼の聡也が、あたふたした様子で周囲へ注意喚起をする。
誠次たちは、顔を見合わせて「「「「「「なんじゃそりゃ……」」」」」」と肩を落とし合っていた。
寮室内にはあるであろう聡也の眼鏡を探す傍ら、誠次は洗面所へとやってくる。なにぶん、八人分の男子の部屋ともなれば、数分もたてば物が散らかりだし、見事に汚部屋へとなってしまうものだ。
「小野寺、シャワーまだか?」
「ひゃ。……あ、今、終わりました」
驚いた様子の小野寺は、白いバスタオルを胸元まで巻き、鎖骨の下に右手を添えてタオルを抑えながら、誠次の前に姿を現す。陸上部で直射日光を何時間も浴びているにも関わらず、綺麗な橙色の髪の毛の先や、白いつるつるの肌の至る所から、水滴がぽつぽつと滴っている。
「時間掛かってしまって申し訳ありません、天瀬さん。今、急いで支度しますっ」
胸元を右手でぎゅっと抑え、バスタオルの下からすらりと伸びる足をどこか内側で組みながら、小野寺は言ってくる。
「いや、構わないけど、聡也の眼鏡を見なかったか?」
「ゆ、夕島さんの眼鏡ですか? 風呂場にはなかった気がします……けど……」
脱衣所で周囲を見渡す誠次にすぐに背中を向けて、小野寺はバスタオルを両手で広げて、自分の濡れた髪と身体を手早く拭いていく。お湯を使った直後とあって、妙な湿気が周囲には漂っていた。
「その奥にはないか?」
バスタオルを広げて背中を見せている小野寺の奥をそっと覗き込むようにして、誠次は何げなく聞く。
びくん、とタオルに隠れた背筋を伸ばした小野寺は、ぶんぶんと慌てた様子で首を横に振る。彼の、まるで女性のように細い幾つもの橙色の髪の毛から、水滴が光って弾かれていく。
「あ、ありません! とにかく、ここは自分が探しておきますから、他の場所……探してくださいませんか……?」
「? そうか? ならば、ここは任せた。聡也がいつもかけている黒縁の眼鏡だ」
誠次はそう言って、踵を返し、脱衣所を後にする。
「……っ」
誠次が去った後、小野寺はようやく広げていたバスタオルを身体の前に持っていき、水に濡れた全身をくまなく拭いていた。
一方で、脱衣所を後にした誠次は、一つ上の代の先輩男子からの連絡に、自身のペン型電子タブレットで応答していた。
『――聞いたぞ誠次。談話室でドンパチやったらしいな?』
そう言って笑いかけてくるベージュの髪をした先輩男子、長谷川翔。すでに談話室で起きた魔法学園同士の小規模な小競り合いは、ヴィザリウス魔法学園のトレンドになってしまっているらしい。
『まったく。お前はいつも騒動の渦中にいるよな。まさに飛んで火にいる夏の虫か?』
「上手いこと言わないで下さいよ……。メールであらかじめ伝えていた通り、ボロボロにしてしまったウエイトレスの制服、修繕してくれませんか……? 申し訳ありません……」
誠次はホログラムの翔越しに床をくまなく探しながら、頭を下げる。
『わかってる。二着だろ? 男性用と……もう一つは女性用のサイズか』
拡張機能でホログラム画面をもう一つ、顔の横に浮かばせながら翔は言う。もう一つのその画像には、誠次が送ったボロボロのウエイトレス制服の写真と、メール文が映っていた。
『なんだ? カップルで臨時バイトしてたら、アルゲイルの奴らに絡まれたのか?』
「そうであればまだ俺らの方に正当性はあったはずですが、男が二人で頭に血が上り、やり返してしまったのです。説教の場では、ぐうの音も出ませんでした……」
『はは。俺が言えたことじゃないかもしれないけど、例え動揺したとしても、もう少し理性的になった方がいいぞ。先輩魔術師らしく言えば、それがお前の今の欠点だな』
「理性的、ですか……。分かってはいるのですが、いつもすぐに身体の方が先に動いてしまうのです……。手遅れになる前に、行動しろと、言われているような気がして……。気がついたらいつも足と手が動いてしまっていて」
『それはお前の良いことでもあり、悪いことでもあるな。まあ、本当に俺が言えた事じゃないけどさ……』
翔がとほほ、と苦笑しているが、誠次は「そんなことありませんよ」と言う。
「アドバイス、感謝します」
『こちらこそありがとう。よし、肝心の服はなるべく早く持ってきてくれ。もしかしたら、材料の買い出しに行く必要があるかもしれない』
翔はそう言って、どこか落ち着かない様子で、寮室の窓の外を眺めているようだ。
「……?」
誠次がきょとんとしているのを、向こうは察したようだ。
『まさかお前、天気予報、日頃からきちんと見てないのか? また台風が接近してきている。明日の弁論会本番、夜がピークだそうだ』
「そうなのですか。さすが、マメですね」
まるで誰かに言われなければ傘も持たずに外に出て、帰りでずぶ濡れになると言うお決まりの流れを遂行するところだったと、誠次は翔に感謝する。
「まあもっとも、俺と小野寺は寮室待機なので、外にも出られませんけどね……」
今度は誠次がとほほと言えば、翔は『違いないな』屈託のない笑みを零していた。
『それじゃあ、俺たち魔法生憩いの談話室の修繕作業、頑張るように』
「はーい……」
誠次はげんなりとしながら、電子タブレットのスイッチをオフにする。
「――天瀬さん。着替え終わりました」
気が付けば後ろには、青いネクタイをきっちりと締めた小野寺が立っていた。
「やはり洗面所や脱衣所にはありませんでした。ベッドの隙間とかでしょうかね?」
「そうとは思うけど」
二人してそのまま玄関付近を捜していると、ふと、部屋への来客を告げるドアフォンが鳴る。
内部モニターはリビングの方にあるが、場所も場所なのでと、誠次はリビングにいる六人の男子に「俺が出るよ」と言いながら、玄関ドアを開けていた。
そこに立っていた人物を見た時、誠次はあっと驚く。
「――久しぶりだね、誠次」
長く伸びた金髪を靡かせ、久しぶりに見た彼の姿は――星野一希。アルゲイル魔法学園の、同学年魔法生だった。
「一希……?」
すっかり見た目が変わってしまった印象を受ける一希を前に、誠次は驚き、しばし止まってしまっていた。およそ一年ぶりだと言うのに、まるで、どこかで会ったばかりのような面影もあったことが、誠次を困惑させていた。
※
新宿に渋谷。上野に品川。
大阪から来た年頃の少女にしてみれば、東京はおおよそたった一日では回りきれないほど、多くの魅力的なスポットがある日本の中心都市だ。
それは、例え生まれや幼少期の育ちが東京であり、高校生になってから大阪に単身で向かい、高校生活二年目の夏になって一時的に帰って来ていた身としても。
「大阪も大阪だけど、こっちもこっちで暑いのは変わらないんだね……」
四方をビルに塞がれた事により熱が籠もり、茹だるような都会の真っ只中。
友だちであり、同じ大阪の魔法学園に通う少女は、隣に立ちながら、ふぅと息をつく。
「暑いー……。もう、店から出た途端これだから嫌になりそう……」
橙色の髪を束ね、ラフな私服姿で歩く少女もまた、橙色の瞳の上に手を添え、からからの直射日光を防ごうと試みる。日焼け止めを塗っていたとしても肌が焼けそうで、心配になるほどだ。
大阪から来た二人の少女は、多くの人でごった返すアスファルトの上を歩く。世間一般から見ても、夏休み真っただ中のシーズンである。真昼の都会はとても混んでいた。
「まったくもう……なにが胸が大きくなる魔法よ。ただの変性魔法の悪用じゃない」
「危ないところに注意しなくちゃって、口酸っぱく言っていたのは理ちゃんの方なのに、まさか理ちゃんの方から行っちゃうなんてね……」
タピオカ入りのジュースを太いストローで飲みながら、小野寺理の友人、雛菊はるかは苦笑する。
これには理も、恥ずかしそうに顔を埋めるようにしていた。
「だ、だって……。暑かったから、中に入れば涼しくなると思って……」
そうして自分の慎ましい胸元をじっと見つめ、次に横を歩くはるかのものを見て、思わず天を仰ぎたくなる衝動を抱いた理は、はあと大きなため息をつく。
「……ごめんはるか。私がちゃんとあんたを守るって言ったのに……私が、逆に……」
「え、う、ううん。理ちゃんは悪くないよ。それ以上に、私も初めての東京、楽しかったよ」
はるかはえへへと微笑み、ストローに口をつける。
気をつかわせてしまった。自分が引っ張って来たのに、はるかに対し、申し訳ない気持ちでいっぱいとなっていた理は、顔を左右に軽く振る。
「他にはどこか、行ってみたいところある!?」
「え、ええと……。犬の銅像とか、見てみたい、かも……」
張り切る理の隣で、はるかは頬を軽くかき、そんなことを言う。
「OK! じゃあ、連れて行ってあげる! ついてきて、はるかっ!」
「あ、ま、待って理ちゃんっ」
橙色の髪を風になびかせ、前をずんずんと歩いて進む理に、はるかは慌ててついて行く。やはり人は多くて、うかうかしていると迷子になってしまいそうだ。
「一希くんは……やっぱり来てくれなかったよね。相変わらず忙しそうだった……」
はるかが後ろの方からそんな言葉をかけてきて、理は思わず立ち止まる。止まらない周囲の雑音と人の流れの中、大阪からやって来た二人の間に流れる時間だけが、どこまでも止まっている気がした。
「そう……。じゃあなにか、一希の為にお土産でも買っていきましょ?」
「う、うん。そうだね」
迷路のように複雑な道筋を描く都会のビルとビルの間の道。ごった返す人の群れの中、頭上を音速でリニア車が何台も行き交う。広い目で見渡せば、大阪からやって来た二人の少女の姿など、多くの人の一部でしかなかった。
東京の店を一通り周り、理とはるかの荷物は両手一杯になっていた。こういう時、男手があると助かるのだが、それが今はいない。今二人の帰るところは、ヴィザリウス魔法学園の寮となっている。
「え……雨?」
ふと、ぽつりと手に冷たい水滴が当たったような感触があり、理はそっと手を伸ばし、快晴だったはずの空を見上げる。
いつの間にか、青は白へと変わっており、そこから無数の水の刃が、二人の少女の元へ、一気に降り注ぐ。
「きゃっ!」
雨粒も大きく、痛みを感じるほどの強いにわか雨に、二人を含めて周囲の人も悲鳴をあげる。
一寸先の光景でさえ霞んでしまうほどの雨模様の中、全身ずぶ濡れとなった二人は、急いで横断歩道を渡り切る。
「大丈夫はるか!?」
「う、うん! 理ちゃんこそ!」
二人は手を繋ぎ、ひとまず目の前にあった大きな公園に入り、そこにあった休憩所のような木製の屋根付き休憩所のベンチまで辿り着く。
「うう……。最悪……。とことんついてない……」
これが東京の厳しさなのかと、びしょ濡れとなった私服を手でぎゅっと握って絞りながら、理はがっくしと肩を落とす。
屋根には無数の雨が着弾し、大きな音を立てている。今まで経験したことのないような、激しい雨であった。
「ごめんね理ちゃん……。私がもうちょっと足速かったら、こんなに濡れなかったのに……」
はるかは申し訳なさそうにして、びしょ濡れのハンカチを理に差し出していた。
「もう、なんでそんなに自分を責めるのかなぁ……。こんなんだから放っておけなくなるのよ」
すぐにネガティブになってしまいがちなはるかに、理はハンカチを受け取らずに、押し返す。自分のは自分で拭きなさい、と言うように。
「えへへ……。お姉ちゃんみたいだね、理ちゃんは」
「お姉ちゃんって……。私は、同い年よ?」
あご先から水の雫を垂らし、理は不満そうにして言う。
はるかは自分の茶色の髪を、ともすれば遊び心もない平凡な髪形の髪を、そっとハンカチで拭いていた。
「高校から一人で大阪に暮らすなんて、凄いと思うな。私だったら、心細くて、きっと出来ないから……」
「そんなことないわよ。私も最初は、どうしていいのか分からなかったし」
理は遠く木々の先で行き交う自動車を眺め、呟いていた。
「そんなに、東京のヴィザリウス魔法学園に通うのが嫌だったの?」
「……前も言ったでしょ? お兄ちゃんがいるって。一緒が嫌だったの」
「私は楽しいと思うけどな……。双子の兄妹で学校に通えるなんて……」
「はるかは双子がいたことがないからわかんないの……。色々嫌だよ」
不機嫌な面持ちで橙色の髪を触りながら、理は言う。
「でも、今年は東京に帰ってきたんだし。仲直りしたの?」
「いいや。まだ口も聞いてない」
「ど、どうして……?」
「……だから、色々あるんだってば! これはもう意地ね、意地!」
つんけんして理が言い張っていると。次第に雨の勢いが収まってくる。雨の白線が次第になくなっていき、自分たちが迷い込んだ緑の公園の風景が明らかになってくる。
ぴと、ぴと、と水の雫が深緑の葉から落ちていく。暑さが再来し、嵐が去ったのを感じ取ったのか、虫たちの鳴き声も再び響いてくる。
理とはるかは、しばし無言で、夏の公園が見せる雨上がりの、どこか神秘的な光景を見つめていた。
「……理ちゃん。ありがとう。雨降っちゃったけど、今日は一緒にお出かけ出来て本当に楽しかった」
「改まって急ね? どうしたの?」
まだ小雨は振っており、ベンチに座って頬杖をつきながら、理は遠くを見つめているはるかを見る。
「わかると思うけど、私こんな性格だから、中学の時とか一緒にお出かけするお友だちもいなくて……」
「一希とは?」
「かずく……一希くんはその時にはもう人気者だったし……幼馴染だったけど、もう声かけれなくて……」
はるかは寂し気な横顔で、遠くを見つめたまま話をする。
「でも、理ちゃんがいてくれて、こうやって一緒にお出かけしたり、遊んでくれる。私、とても嬉しいよ?」
最後にはにこりと微笑み、はるかは理を見る。
理は胸の奥で何かがどくんと音を立てるのを感じ、そして、沸き起こった自分でも未だよくわかっていない気持ちを、はるかに向けていた。
「安心してはるか。私だって、はるかと友だちになれて最高よ。ええと……ズッ友?」
「ずっとも……? いつの言葉? それ」
「わかんなーい」
ぽたぽたと鳴る雨の音の中、くすくすと、理とはるかは笑みを零し合っていた。
「そろそろ雨脚弱くなって来たし、行けそうね」
「うん」
理の合図の元、はるかも立ち上がり、周囲を見渡していた。にわか雨の影響か、公園はほぼ無人の状態であり、見渡す限りの自然が広がっている。
湿った石造りの階段を一歩を降りたところで、後ろに立つはるかの足音が止まっていたことに、理は気が付く。
「はるか?」
不審に思い、理が振り向くと、はるかは立ち止まって慌てていた。
「あそこ……誰か、人が倒れてない?」
「……え?」
理もつられてはるかの方を見ると、確かに。公園の中を流れている川の土手に、銀髪の女性らしき人が倒れているのが見える。
理とはるかは頷き合い、荷物をひとまずその場に置き、その人の元へと走って向かう。
真夏の小雨の下、決して綺麗とは言えない川は、下水管と繫がっているようで、すぐ近くの大きな下水管から濁った水が流れている。にわか雨の影響で、子供たちも遊ぶであろう穏やかな公園の川に似合わない、とても速い水流となっている。
汚れ、水浸しの倒れている人を見る限り、どうやらこの下水管を通ってここまで来たようだ。女性のスタイルのよさが現れるボディスーツはところどころ破れており、泥や葉のくずがついた姿は異質であった。
「た、大変だよ理ちゃんっ!」
「だ、大丈夫ですか!?」
口に手を当ててあわあわと慌てているはるかの横で、理が女性の前でしゃがみ、治癒魔法の魔法式を向ける。
「はるかは救急車に電話して! それと、警察にも!」
「え、ええと! な、何番だっけ理ちゃん!?」
「え、えっと! えっと! なんか三文字っ!」
二人とも完全にパニックになりかけ、かけるべき番号が咄嗟に頭に出ないでいる。
そうこうしているうちに、気を失っていた女性が、微かに意識を取り戻す。
「大丈夫ですか!?」
理がそれに気づき、目を開けた女性を見つめる。歳は自分たちより少しばかり上だろう。
「貴女、たちは……」
理とはるかの姿を見るなり、どこか安堵したように、再び気を失いかける女性。
その人の冷たい手を握り、理は必死に「しっかりして下さい!」と呼びかける。
一方で、はるかは両親の仕事柄から女性の身体をくまなく注視し、とあることに気がつく。
「この人、凄い怪我してる……。これ、魔法の傷だよ……」
「事件、ってこと……? だったら特殊魔法治安維持組織に通報しないと!」
理が焦った様子で言うが、その言葉に真っ先に反応したのが、傷だらけの女性だった。
「特殊魔法治安維持組織は駄目っ! お願い……っ」
「特殊魔法治安維持組織が駄目……? どうしてですか……?」
今まさに、電子タブレットで救助を呼ぼうとしていたはるかが、女性に恐る恐る問う。
「逃げ、て……――っ」
苦しそうな息遣いで女性はそう呟いた後、再び意識を失っていた。ぽつぽつと、女性の泥だらけの顔に雨が降り注いでは、汚れを洗い落としていく。その水の雫が、長いまつ毛の下を通ればまるでそれは、女性が涙を流しているようであり――。
「……」
「……」
理とはるかもまた、背中を冷たい雨に打たれながら、顔を見合わせていた。
※
星野一希。去年の夏、同じ時期に出会った、アルゲイル魔法学園の同級生男子。その頃と比べて髪が伸び、やや思い出すのに時間は掛ったが、それでも強烈な印象はしっかりと覚えている。特殊魔法治安維持組織に入るという同じ夢を抱き、大阪では世話になった人物だ。
「久し振りだな一希。一年ぶりか!?」
「あ……そうだね。ちゃんと会うのは、一年ぶりだね、誠次」
一希も懐かしむように、誠次と同じく微笑んでいた。
「随分と髪伸びたな?」
「そう言う君は、相変わらずのようだけど」
誠次の後ろにいる七人のルームメイトたちは、二人の会話に興味がなさそうにしている。
しかし誠次からすれば、一希とは話したいことが沢山あった。おそらくきっと、向こうもそのつもりでここまで来てくれたのだろうと、思いながら。
「立ち話もなんだ。部屋に入って話さないか?」
「僕は構わないけど、良いのかい? ……さっき談話室で起きた事件の話は、僕の耳にも入った。ヴィザリウスとアルゲイルの魔法生の間で、やや軋轢が生まれてしまっている」
「そうなのか……。実は、俺はその件の当事者の一人なんだ。お陰で夜のパーティーに参加出来なくなってしまったんだ」
とほほと、自身の失敗を茶化して語る誠次に、一希は笑っていいのかどうか、微妙そうな表情を浮かべていた。
「まさかとは思ったけど。大阪で一緒にスリ犯を捕まえたのが懐かしいよ」
続いて一希は、誠次の後ろにそっと隠れるようにして立っていた、小野寺真を見る。
「あ、初めまして……」
ずっと誠次の後ろに立っていた小野寺がやや驚いたように一希を見て頭を下げると、一希も「初めまして」と挨拶を返す。
「君の顔、どこかで――」
「……」
一希がじっと小野寺の顔を見つめていると、小野寺はやや恥ずかしそうに、俯いてしまう。
やがて、一希の方が、瞳を閉じる。
「いや、思い出せないな……」
一希はそんなことを言っていた。
微笑む誠次が、一希に説明をしてやる。
「小野寺真。アルゲイル魔法学園の小野寺理さんの双子の兄だ」
「こ、こんにちは」
小野寺はやや申し訳なさそうにしながら、頭を下げていた。
「理……。ああ、理の双子のお兄さん、か」
一希は、どこか冷めたような表情で、小野寺を見ていた。
その姿に、どこか違和感を感じながら、誠次は一希を見る。
「それで、どうしたんだ?」
誠次が訊くと、一希は真剣な表情で、話し出す。
「いや、ただの世間話さ。君と話したかったんだ、誠次。さっきも言ったけど、談話室での騒動があってから、アルゲイルとヴィザリウスの間でよくない空気が流れている。SNSでも、すでにこのことについて拡散されている状態だ。両校の緊張感は、確かに高まってしまっている」
「それについては申し訳ないとしか……」
誠次は晴れない表情で髪をかいていた。
「その件につきましては、自分やヴィザリウスの魔法生、そしてアルゲイルの魔法生のせいでもあります。天瀬さん一人のせいと言うわけではありません」
小野寺がそうフォローをしてくれる。
一方で一希は、誠次を見て、何か思い切ったように、こんなことを言い出す。
「このままでは今年の弁論会も、なにか波乱が起きそうだね」
「……も?」
「ああ。教えてくれないか、誠次? 君が今までしてきたこと。そして、君が知っていることを……。僕と君は、共に特殊魔法治安維持組織を目指す、友だちのはずだ」
そして何より、と一希は、長く伸びた金髪の底から覗く青く鋭い眼光を、誠次へと向ける。
「君が持つ魔剣、レーヴァテイン。そのことについて、色々と教えてほしいんだ」
その言葉に――動けなくなった。彼の眼差しに見つめられた途端、誠次の全身はなぜか強張り、生唾を呑む。
「どうして……?」
「全ては僕のただの勘さ。――でも、その様子だと当たりのようだね?」
一希はほくそ笑む。
まるで、一年前の夏を思い出すやり取りに、誠次はどくんと胸の鼓動を感じる。
「わかった一希。長くなるから、中で話さないか?」
「うん。ありがとう誠次」
「あ、天瀬さん。自分たちは、談話室の片づけをしなければならないはずですけど……?」
小野寺が顔を寄せてきて、そっと誠次に耳打ちをする。
「でも、せっかく一希が来てくれたし……」
「――わざわざ話す必要はないんじゃねえの?」
迷う誠次の後ろの方から、気配もなく立っていた志藤が、そんなことを言ってくる。
一希も志藤の姿を見た時、その反応は、小野寺を見た時の興味なさそうな雰囲気とは、明らかに違っていた。睨んでいる、のだ。
「志藤? それは失礼だろう」
誠次が志藤を咎めるが、当の志藤は腕を組んで壁に寄りかかり、一希を睨んでいた。
「どういうつもりだ、お前……」
「偶然か、それとも必然か」
一希もまた、よくわからない事を呟いており、二人の金髪の少年に挟まれる誠次は、その整った二人の顔を交互に見る。
「アルゲイルの奴は信用できない。さっきの談話室の敵討ちの可能性だってある。天瀬、何も言う必要はない」
「そんな……。一希はそんな奴じゃない。一体どうしたんだ志藤?」
様子がおかしい友の姿を見て、誠次は訊く。
「悪いが言わせてもらう天瀬。特殊魔法治安維持組織の事もだが何よりも、お前の剣のことは、第三者だって関わっているはずだ。その事を全く関係ない奴に言うのは、リスクが大きすぎる」
第三者……すなわち、レヴァテイン・弐に魔法を与える女性たちの事であった。
志藤はそのことを危惧し、誠次が一希に情報を開示することを止めようとしていた。
「……よくわからないな。誠次。君は、僕の事が信用できないのかい?」
一希は志藤を睨み続けたまま、誠次に声をかける。
誠次は今一度、二人の顔を交互に見た。
「二人とも様子がおかしいぞ……。ヴィザリウスもアルゲイルも関係ない。せっかくの機会だ、仲よくしよう!」
「その言葉、今の自分たちが言っても、説得力皆無では……」
そう声を張る誠次に、傍らの小野寺がそっとツッコむ。
「……悪いな天瀬。けどな、そいつは絶対に信用できない。今は俺の言う事を信じてくれ」
「……誠次。僕の夢は君と同じ、特殊魔法治安維持組織に入ることだ。その組織でなにが起きているのか、真実を知りたいのは当然の事じゃないか。そして、君の特別な力の事も、僕は知りたい。そうすればきっと、君と僕は、共に戦う事だって出来るはずだ」
一希の声にも熱が籠もり初め、誠次に青い眼差しを向けてくる。
「志藤、やっぱり一希は――」
「言ったはずだ天瀬。お前の力はお前だけのものじゃないはずだ。大切な人がいてこそお前は戦えるんだろう? だったらもう少し慎重になるべきだ」
「大切な人、か。誠次……僕のことは信用できないのかい?」
「一希……。そんな、俺はそんなつもりなんかじゃ……」
期待するような眼差しを向けていた一希の表情は一気にくもり、遂には、誠次からも視線を逸らした。
「……そっか。君も、姉さんと同じか……」
そう言った一希は立ち上がり、誠次の横を素通りしていく。
一希の姉、星野百合。彼女は現在、ヴィザリウス魔法学園の魔法科教師として、ここで働いている。
そのことも思い出した誠次は慌てて、一希を引き留めようとした。
「ま、待ってくれ一希。君の姉さんは、星野百合さんは、君と会いたがっていた。せめて話だけでも、するつもりはないのか!?」
星野百合は一希の四つ上の姉であり、魔法の才能は弟同様に高く、小学生の時にはすでに海外の魔法学園からスカウトされるほどの秀才である。当の本人はそれを鼻にかけることもなく、自由な人であるのだが。
三月のハワイのホテルでの会話では、百合は誠次に、一希が自分を見放したものだと思われていると、その複雑な心情を打ち明けていた。
誠次の問いかけに、玄関に向かっていた一希は廊下で立ち止まった。
「あの姉さんが、僕に会いたいって……? 家族を見捨てた、あの人が……?」
首だけをやや振り向かせ、金髪の奥の視線を向けてくる。
その視線の鋭さだけで、見たものを怯えさせるほどの気迫と怒り、そして憎しみを感じた誠次は、人知れずに肌を粟立たせる。
「ち、違う一希! あの人は日本にどうにか戻ろうとしていた! けれど、向こうの学園がそれを許してくれなかったんだ!」
「ああ……。そうだよ誠次。人の事を信じて、その優しさを疑わず、希望を持って接する。――それは、君の良いところだよ」
「一希……。せっかくの家族だ。会って話をするだけでも――」
誠次がそう言って一希の元に歩み寄るが、一希は「君には関係ないよ」と、突き放すような言葉をぼそりと言っていた。
一希の肩に手を伸ばして誠次は、ぴたりと立ち止まる。彼の長く伸びた髪の奥で覗いた表情が、どこか悲しそうに、また、羨ましそうに、見えてしまったのだ。
「一希……。俺は、お前の事も、友だちだと思っている……っ!」
「……そうだね、誠次。僕たちは、同じ夢を持っている友だちだ。そこにたどり着く為であれば、時には手を取り合うことも出来るはずだ」
一希はそこまで言うと、なにかが吹っ切れたように――口角を上げて笑っていた
「でもさ誠次……。やはり、君と僕は、決して同じ道を横に並んで進んで行くことは出来ないみたいだ……」
一希はそんなことを言うと、玄関ドアをタッチし、スライド式のドアを開けていた。
「ごめんね。僕はもう帰るよ。お邪魔しました」
一希の姿が、閉まるドアによって見えなくなった時、廊下にはどこか暗い空気が漂っていた。
「……なんか、悪かったな、天瀬」
志藤はどこかバツが悪そうに、自分の頬をかるくかいている。
「……いや、確かに付加魔法の事は、俺だけじゃなく、魔法を貸してくれる女性の事もあった。慎重に、なるべきだった……」
「あの人には、お姉さんがいたのですね?」
小野寺が訊いてくる。
「ああ。星野百合先生。一希の姉なんだ。みんなには詳しくは言っていなかったか」
「俺には姉も妹もいないからそこはよくわかんないけど……。そうだ、そこんところは小野寺なら、なんか分かるんじゃね?」
志藤が小野寺に問いかけるが、当の本人は、浮かない表情だ。
「自分にそのことを尋ねられても……。決して仲良くはありませんですし……」
「おいおい……。夕島と言い、この魔法世界に生まれた兄弟姉妹は問題山積みなのか……?」
志藤が苦笑する。
「ってか、お前ら時間大丈夫か? 談話室の掃除サボったとかで、またなんか罰受けそうだぞ?」
志藤のさらに後ろの方から、悠平が顔を見せ、心配そうに尋ねてくる。
「「あっ!」」
誠次と小野寺は顔を見合わせて、慌てて廊下へと飛び出す。
一希の姿はそこにはもうなく、彼がどこに向かったのかも、もう分からなかった。
~ダイレクト・コンタクト・アタック~
「天瀬と小野寺は談話室に行ったか」
そうすけ
「めがね、めがね……」
そうや
「まだ探してたのかよ!?」
そうすけ
「しっかし、こんだけ探してないとなると……」
ゆうへい
「……そうだな」
そうすけ
「最後の手段だ、夕島」
そうすけ
「最後の手段、だと……?」
そうや
「おう、志藤」
ゆうへい
「夕島。すぐに終わるからな」
ゆうへい
「洗面所に行くぞ!」
ゆうへい
「ま、まさか、やめろ!」
そうや
「よせ! 見えなくともわかるぞ!」
そうや
「コンタクトレンズだーっ!」
そうや
「観念しろっての!」
そうすけ
「よし! 捕まえた!」
ゆうへい
「やめろ……! やめろーっ!」
そうや
「いやあああああああっ!」
そうや




