7
「お城の上に、お魚のようなものが二匹乗っていますけれど……何故!?」
てぃえら
時刻は午後六時過ぎ、名古屋市の駅前通りにあるとあるホテル。おどろおどろしい言い方をすればそこは、夜になり、夜間の外出が出来なくなった人々を迎え入れる最後の砦だ。
そこの一階部、豪華な装飾が施されたエントランスに横付けされる形で、ホテルレストランはあった。
光安からの逃亡を続ける誠次とティエラは、そこで夜ご飯を食べていた。
「ほら、これならスプーンでも食べられるだろう?」
「ありがとうございます、誠次」
窯の中にあったほかほかの鰻とご飯をよそってやり、誠次は目の前に座るティエラに差し出してやる。
ティエラは左手でスプーンを握り、そわそわしているようであった。
「普段あまり食えないものだけど、確か、最初はそのまま食べるんだ」
いつの間にか指に付いていたタレを見つけて、誠次はそれを勿体なく軽く舐めながら、ティエラに告げる。
自分の分も用意し、誠次は手を合わせた。右腕を膝の上に乗せているティエラは、左手だけを持ち上げる。
「それじゃあ、頂きます」
「頂きますわ」
お互いに日本語の挨拶を行い、スプーンを使って、ひつまぶしを食していく。
「栄養価の高い鰻は夏バテ予防に良いって言われていてな。日本では鰻を食べる日もあるほどだ。熱中症でダウンしたティエラには、ちょうどいいと思う」
「も、もう……。あれは私の時差ボケと水分補給不足が原因ですわ」
「茶化してすまない。スペインでは、鰻は食べるのか?」
「ええ。もっとも向こうでは、稚魚を味付けして食べる方が有名ですけれども」
しかし、とティエラは口元を丁寧に布巾で拭い、どこかどんよりとしているようであった。
「向こうでも、鰻は高級魚ですわ……。……ですので、あまり、食べられませんでしたの……」
そう言えばと誠次も、口に含んでいた鰻を噴き出しそうになる。
「ぜ、全国の女性が抱く王家のお姫様へのイメージが容赦なくどんどん崩れていくな……。王族が質素な生活を送るほどの財政難って、よほど不味くないか……?」
「国家運営や国民生活、公的扶助や社会保険の福祉制度には差し支えありませんわ。民も暮らしに不便はないと仰っておりましたし、海外からの観光客も多かったです。ただ、なぜか私の家や他の貴族の家にお金が回らないのです……。私が国に戻ったら、そのことをきちんとお父様には言いませんと」
(自国のこと、しっかり心配しているんだな……)
やがてティエラは、最初にお椀によそった鰻とご飯を全て食べ終わる。
手を差し伸ばした誠次が二杯目をよそってあり、これ見よがしに机の上に並べてある葱や山葵などの薬味を、それぞれ説明していた。
「二杯目は自分の好きな薬味をかけて食べるらしい。食べてみたい組み合わせがあったら、遠慮なく言ってくれ」
「ありがとうございます、誠次。それでは、早速――」
ティエラの望み通り、山葵をのせてやれば、それを食べたティエラは予想通り鼻を抑えてむせたりしてしまっていた。
「だ、大丈夫かティエラ……。だから山葵は辛いとあれほど言ったのに……」
「ぞ、ぞうぞういじょうでじだわ……」
「ははは……」
鰻による栄養回復はこうも即効性があったのか、なんだか疲れが取れたような気がしながら、誠次はティエラに水を差し出してやっていた。
その後も、誠次はティエラと会話をしながら、食事を嗜んでいた。
「へえ。スペインも、クリスマスは年明けまで続くのか」
「ええ。……スペインも?」
魚介の香ばしい風味が漂うダシをかけ、お茶漬け状態にしているお椀をそれぞれ手にしていると、ティエラが訊き返してくる。
「ロシアはクリスマスは年明けにやってくるそうなんだ。ルーナが言っていた。君も、一年はロシアにいたんだろう?」
「いました、けれど……。ずっと特訓の日々でして、友だちと呼べる友だちもおりませんでしたわ。それどころか、祖国の中等学校でも、この身分ですし、友だちと呼べる人は一人も……。……家庭の事情で身なりも用具も普通のものでしたのに……」
「王族が家庭の事情と言うことに猛烈な違和感が……。じゃあやはり、七海は大切な友だちだったんだな」
「はい!」
やはり、七海のこととなると、ティエラの紫色の目は輝いて見えるようであった。
そして、ティエラ何かを思うように視線を落とした後、その輝きをそのままに、真向かいに座る誠次へと向けて来た。
「そして何よりも……同年代の男性とこうしてお話するのは誠次、貴男だけですわ。私の着替えを手伝ったのも、私の手を……私の、動かなくなってしまった右手に触れてくれたのも……」
「あ、ありがとう……」
今までのことを一気に思い出し、誠次はぼそりと、言っていた。
丁度その時、着替えたズボンのポケットに入れてあった電子タブレットが振動する。誰からの連絡かと見てみれば、八ノ夜であった。
ティエラ護衛の為に近くにいる必要はあるが、周囲には他に一般の人もいるので、誠次は迷惑にならなように席を立つ。
「誠次……?」
「八ノ夜さんから連絡だ。大丈夫。見えるところにはいるよ」
心配そうにこちらを見上げるティエラに、誠次はそう言い残し、歩いてレストランエリアの外へ出る。
レストランエリアで一人残ったティエラは、誠次がよそってくれていた最後の四杯目に、口を付けようとしていたが、その左手は止まってしまっていた。
「いけませんわ……。やはり、彼には、ルーナがおります……もの……」
この国へ来た理由である、ルーナへの再戦。それはガンダルヴル魔法学園で、魔法戦の際に負けた時の悔しさと無念から生まれた、対抗心によるものであった。
――だが、今となってはその対抗心は、ほぼ別の形となって、ティエラの中で生まれ変わっている。
デザートもまだ食べてはいないと言うのに、それは甘く、それでいてほろ苦い、口に出そうとすれば歯痒いたった一つの、しかし複雑な感情。
「もしも、七夕の願いが書き直せるのであれば……」
動かなくなってしまった右手をじっと見下ろし、また遠くなっていく誠次の背を見つめ、ティエラはしとりと、呟く。
「朝になれば……もう少しで、お別れしなくてはならない……誠次……。もしも私が、彼女よりも先に貴男と出会っていれば、貴男は私を、彼女と同じ目で見てくれますの……?」
ただ一方的に守られているのではなく、互いが互いを思い合い、寄り添い合い、守り合う、素敵な関係。それはリジルに支配されかけたあの星空の夜の下でティエラが微かに見ることの出来た、誠次とルーナの姿であった。
様々な味がしたひつまぶしの風味が喉奥を駆け抜けていき、また様々な思いを胸に秘めたティエラは、虚しく呟いていた。
豪華絢爛な内部には、当然と言うべきか、同年代ほどの人はおらず、殆どが一回りも年の離れた大人たちであった。
純白のシャンデリアの下、ロビーの前を通った誠次は、エントランスにある柱に背を預け、遠くからティエラの様子を見守りながら、電子タブレットを耳に添える。
「もしもし、八ノ夜さん」
『天瀬。無事に名古屋には着いたようだな?』
「はい。警戒は怠っておりませんが、何とか紛れることは出来たようです」
周囲を見渡してから誠次は口元を抑え、潜めた声で会話をする。
『クエレブレ帝国機は問題なく飛行中だ。時刻は朝九時前後を予定している』
「はい」
誠次はホテル内の時計を確認する。約半日後。そうすれば、ティエラは遠く離れた西の島国へと帰っていく。
「……」
ホテルロビーの上に浮かぶホログラムの秒針をじっと見つめていた誠次は、自然と頭の中に浮かんできた言葉を紡ぐため、無意識に口を開いた。
「クエレブレ帝国に帰った後、ティエラさんは、大丈夫なのでしょうか?」
『……は?』
八ノ夜が訊き返してくる。
なぜ、訊き返されたのか。それが分からない誠次は、遠くで見えるティエラをじっと見つめたまま、言葉を続けた。
彼女と目が会うと、彼女はにこりと、微笑んでいた。
言葉はやはり、自然と溢れてくる。
「国際魔法教会の支配は、世界各国で根強いです。むしろ、先進国の中では日本が一番影響が少ないと言われているはずです。ですので、ティエラさんがクエレブレ帝国に帰ってしまえば、また命を狙われる可能性があるのでは……?」
『何が言いたい、天瀬……。まさか――』
誠次はそっと伸ばした右手を、自身の胸元に添えていた。
「ティエラさんがまた危険な目にあうかもしれないという可能性があるのでしたら、むしろ、これからも俺がずっと傍にいて、ティエラさんを近くで守れば……」
『……』
音声だけでのやり取りであったが、デンバコの向こうで八ノ夜がなにか肩を竦めているような気がして、誠次は目を瞬く。呆れられている、ようにも感じた。
『今自分が何を言ったかわかっているのか、天瀬?』
「……」
誠次は咄嗟に答えられなかった。いや……頭の中では、自分の考えは分かっていたが、言えなかったのだ。
『比べるべきではないが、同じ姫と言う身分であるラスヴィエイトとヴェーチェルはもう、帰る場所がなかった。だからヴィザリウス魔法学園への転入を認めたし、私もそうするべきだと思ったさ。何より向こうにはその意思もあった』
だが、と八ノ夜は冷静に告げてくる。
左耳から聞こえる聞き慣れたはずのその言葉が、実際の今の距離と比例するかのように、遠く離れて聞こえてくるようだったが。
『だがノーチェにはまだ家族がいる。そして、帰るべき国も、帰りを待っている多くの国民も。分かるだろう天瀬?』
「……しかし、ですけれど……」
胸の奥がきゅうと萎むような錯覚を味わい、誠次の声は掠れかける。
『切なそうな声だな。……すべきことを見誤るほどに、隻腕の皇女に情が移ったか?』
八ノ夜の言葉が図星となって、誠次の頭の中を白くさせる。
誠次は軽く首を横に振っていた。
「そんな、違います……。ただ俺は、ティエラさんのことが心配で……っ!」
彼女がこちらに向けてくる笑顔が、今日の戦闘で受けた傷より痛く、この上なく苦しく感じ、誠次は思わずそこから視線を逸らしてしまう。
ティエラは一瞬だけきょとんとした表情を浮かべて、次には、切なそうな視線を向けて来ていた。
『落ち着け天瀬。だが、悪いがお前の考えには頷けない。ノーチェはクエレブレ帝国へ帰すべきだ。その後の事までも、お前が心配する必要はない』
「心配する必要はないって……そう簡単に、割り切れません!」
思わず叫んでしまった誠次のことを、ロビーにいた数名の人々が驚いた様子で見る。
彼ら彼女らの視線を浴び、ハッとなった誠次は汗ばんだ茶色の髪をかき上げ、項垂れるように俯いた。
『では、八人目にするつもりか?』
八人目。それはつまり、レヴァテイン・弐に付加魔法を与える女性の人数のカウントだ。
「何故、そんな言い方をするのですか……?」
八ノ夜の口調では、まるで彼女らが無機質なただの数字――記号のように聞こえてしまい、誠次は反論する。
ただ、電話先は厳しい口調のままだ。
『お前の目を覚ますために、私は敢えて厳しいことを言う。――いいか天瀬? 先も言った通り、ノーチェには帰るべき場所がある。客観的に見てもそれは正しいことだ。お前は今、彼女に一時的に惚れてしまっているだけだ。一緒にいるうちに妖精の粉にでもやられたか?』
「そんな、違います……。俺はただ、ティエラさんを守りたいだけです……」
『守りたいだけ、か。誰かを守る、それが単純に見えてどれだけ難しいことか、お前ならばよく分かっているはずだが? すでにお前は七人の女性に対し、そうすることを決めている。その度にお前は戦い、その言葉の重さを身体で受け止め、その使命を果たしてきた。その行いに剣を渡した私が否定することも出来ないし、する気もないが、今回ばかりは勝手が違うんだ……』
次には八ノ夜は、優しい口調となって、誠次を諭す。
『ティエラ・エカテリーナ・ノーチェ。彼女の背負っているものは未だ大きすぎる。今のお前に、それを背負う必要はないんだ。彼女を無事に何事もなく届けられると、騎士としての使命を姫に対して、お前ならば果たせられると見込んで、私はお前にクエレブレ帝国皇女の護送を頼んだんだ』
「騎士としての、使命……」
『ハイリスクローリターン。この作戦を開始するにあたって、私はお前にそう言ったはずだ』
「……」
若気の至りと言った激しい熱にうなされていた思考を冷却し、誠次は深く息をつく。
『……すまないな天瀬。ただ、私はやはり、これはお前にしか出来ないことと見込んで、頼んだんだ。お前が引き受けてくれたことは、嬉しいんだ』
「……すみません、でした……。見誤っていたのは、俺の方です……」
誠次もまた、八ノ夜と同じく気落ちした声音で、答えていた。
やや間を置き、
『……なに。この魔法世界は思ったよりも広い時もあるし、狭い時もある。それでも天はずっと繋がっている。生きている限り、いつかまた、会うことは出来るさ』
八ノ夜の微笑む表情が、目の前で再現されるようだった。
こう言ったロマンチックな物言いも、不器用な言葉遣いも、なにもかも、両親を失った代わりに自分はこの人のを受け継ぎ、成長した。
「当初の使命を、きちんと果たします……。そして、お互いに帰るべき場所に帰ります。そうして生きているうちにいつかまた会えれば、本当に伝えたいことも、きっと言い合えますよね」
『何を言う気だ?』
「貴女には教えませんよ」
『ケチんぼー』
八ノ夜が通話先でむっと、むくれているようだった。
誠次は八ノ夜との通信を終え、ティエラの元へ戻ってくる。
「お話、終わりましたか?」
「ああ。改めて、作戦を確認していた」
着席した誠次は、すっかり冷めてしまった自分のひつまぶしを見つめ、それをおもむろに食べ始める。
ティエラはデザートには手を付けずに、ずっとこちらが戻ってくるのを待っていてくれたようだった。
「――そう言えば、俺たちの部屋って何処だったけか?」
「あなたが503号室。私が502号室ですわ。隣同士です」
「そう言えばそうだったな。最近物忘れが酷くて、ありがとう」
そのような会話をして、互いのデザートを一口だけ交換したり、食後のお茶を嗜む二人。
やがて席を立ち上り、二人はエレベーターに乗り込んでいた。
※
エレベーターに乗り込んだ二人の高校生の姿を見届けたのは、レストランで一人で食事をしていた私服姿の男性だった。
「こちら名古屋市内、駅前通りのホテル。妖精と剣術士を発見した。――ああ、間違いない。おまけに奴ら、自分たちが宿泊する部屋の番号までご丁寧に話していた」
そう。実は、静岡県で消息を絶った剣術士が通るルートを計算した光安は、愛知県にも人員を先回りして、配備していた。一時は再び東京方面で同型バイクに乗った二人組の男女がいるとして、大勢の人員が都会のそちらへと向かい、結果全くの別のカップルであったと言った間抜けな事態を引き起こしていた。これにより、戦力は分散されざるを得なくなり、広範囲に人員を散らしたのだが、運良くもこの場にいた光安の一人が、一人で食事していたティエラを見つけていたのだ。
「下手に動けば剣術士によってまた返り討ちに会う可能性がある。夜、寝静まった時間を見計らって、最大戦力をこのホテルに集結させて一気に叩く。夜になり次第、関西地方に向かわせた人員をここに全て集結させろ。それまでは待機する」
今宵二人が寝泊まる部屋は、こうして光安により、露呈した。
戦闘を続けたことにより剣術士と妖精共に疲労し、夜になれば床につくと判断し、ホテルを人知れず包囲して捕らえる作戦であった。
もしも万が一剣術士と妖精が何かに気づき、チェックアウトをしようにも出口は見張っている。
誠次とティエラの元に、逃げ場のない毒牙はすぐそこまで迫って来ていた。
「散々コケにしてくれたな、剣術士……っ!」
だが、どう足掻いたところで所詮は学生だ。大多数いる国家組織を相手にして、勝てるわけなど、なかったのだ。
時は流れ、日付を跨ぐ前の、深夜。
ホテルの照明は必要最低限にまで落とされ、出入り口は固く閉ざされ、シャッターも占められている。華やかであった夕食の時間の名残も、少年が少女への特別な思いを果たすべく叫んでいた面影も、そこではもう一切感じられないほど、静まり返っていた。そのような状況でも、夜間の極秘任務を主とする彼らにとってみれば、ホテルの包囲など、容易な事だった。
黄色いランプが灯り、優美な毛並みを描く絨毯が敷かれた廊下。誠次とティエラが不用意に呟いたホテル五階の二つの部屋のドアの前で、数名の光安の魔術師が、配置についていた。
聳えるのはオートロックのドアであったが、問答無用で、二人の魔術師が同時にドアへ向けて魔法式を展開する。
互いにアイコンタクトを取り、同時のタイミングで、破壊魔法を発動した。
「――行けっ!」
破壊魔法による爆発を浴びて吹き飛んだドア。煙が木の破片が飛び散る中、光安の魔術師たちは、浮かべた魔法式を完成直前の状態にしたまま、部屋の中へ一斉に突入する。
「剣術士っ!」「妖精っ!」
白い壁を挟んで二つの部屋で鳴り響く、罵声と怒号。
――だが、お互いにいつまでたっても、戦闘の音は起こらず、剣術士の暑苦しいほどの抵抗の声も、妖精の高貴らしい悲鳴の声も、聞こえてはこない。
「「嘘、だろ……」」
なぜならばお互いが遭遇していたのは、片やビール瓶が部屋の至る所に散乱し、部屋の奥のテーブルの上でタバコを吹かしながら晩酌を嗜んでいた無精ひげ姿の中年男性。
片やプロテインの粉や健康器具を持参し、己の肉体を鍛え上げることに精進していた、筋肉ムキムキの中年ハーフ男性と、目と目が合っていたからだ。
「うわビビったしタバコの火消えちまったし……。俺様になんか用ー?」
「吾輩がいる部屋のドアを粉砕してまで入るとは、そのガッツある心意気は良いが、礼儀がなっておらんなッ!?」
部屋の番号は、何度も確認した。そして、長い時間を待ち、多くの人員をここへ集結させた。仲間の中には、外で待機しているため、今か今かと戦闘の合図を待っているものもいる。窓を突き破って外へ出ると言った荒業を行う可能性も、剣術士ならばしかねないと、夜の外に待機させている人員もいる。
それなのに、503号室と502号室にいたのは、見てくれ最悪の中年男と、鋼の肉体を持つハーフの大男だった。
「ふ、ふざけるな! 剣術士をどこへ匿った!? この部屋の中にいるんだろうっ!」
剣術士がこの部屋の番号を言い合っている光景を見ていた、名古屋警戒中であった光安の魔術師が、己の威信と面子をかけてか、焦燥しきった声で、部屋にいたよれたワイシャツ姿の男に怒鳴る。
――阿保が。新しいタバコにすでに魔法で火をつけていた男は、そう口走った口元をばれないように、タバコのシケモクを口に咥えていた。
「ケンジュチュチー? 知らねえなそんなの。ってよりさ、まずちゃんとした大人なら謝ろうぜ? 勝手にドア粉砕して入ってくるとか、これ犯罪じゃね? ホテル側、大迷惑じゃん」
「いったい何のつもりだ貴公らッ!? そこまでして吾輩に用があるのであれば……そうかいいだろうッ! 朝日が昇るまで、吾輩は話を聞こう! さあッ! 全員中へ入るのだッ! 狭いだろうけど、我慢してくれッ!」
そうして、光安に対し、有無を言わさぬ怒涛の責任追及を行っていく、本来は夏季休暇中であった魔法学園の男性教師二人。
誠次とティエラは、このホテルにはすでにいなかったのだ。
※
――数時間前。
エレベーターに乗り込んで上に行った誠次とティエラは、すぐにエレベーターを降り、足を使って階段を降りる。先ほどの会話は、あらかじめ用意しておいた、フェイクのものだ。実際に誠次とティエラはこのホテルには泊まらず、代わりの人が、二人が語った部屋に寝泊まる。
「しゃがんで、ティエラ」
「ええ」
誠次はティエラの右手を取り、階段の上から下であるロビー一帯を見渡す。右手を握るのは、彼女が走る際に腕を振る関係から、そうした方が良いと、お互いの判断の上だ。
「よし、誰も階段は見ていないな。今のうちだ、走るぞ!」
「はいっ!」
ロビー端の階段を一々使う人などいることもなく、誠次とティエラはそのままホテル地下一階にまで行く。
そこでは、【従業員以外立ち入り禁止】と書かれたシルバーのドアが立ち塞がっていたのだが、誠次とティエラは構わずに中に入っていく。
そこに広がっていたのは、ホテルレストランの巨大厨房施設であった。
運ばれる予定だったのか、盛り付けされた大きな生ハムのブロックが目を引く厨房には、シェフたちが何事かと目を大きくして誠次とティエラを見ていた。
「おい! ここは立ち入り禁止だぞ!」
「す、すみません!」
「ご、ごめんなさいですわ!」
怒られながらも、二人は走りながら口頭で謝罪をし、コックたちが腕を振るう厨房を駆け抜けていく。
ブランデーの炎の横を通り、足場を飛び越え、ティエラの手をぎゅっと握り、誠次は走る。
ティエラもまた、ドライアイスの白い煙を巻き、照明の下を潜り、誠次の後を必死に追いかけ、走る。
「ええと、こっち!」
「きゃっ!」
急に立ち止まった誠次と身体をぶつけ合いながらも、二人は完全に止まることはなく、色とりどりの食材の間を駆け抜けて行った。
目の前にあった両開きのドアを再び通過すれば、そこは厨房に隣接している大型冷凍倉庫であった。一気にマイナス温度の世界となったそこには、包装された肉や魚が保管されており、そこらに霜が付いている。
吐く息も互いに白くなりながら、誠次とティエラは肉のカーテンを潜り抜け、奥へと走る。
「ここ、滑るぞ!」
「は、はいっ!」
薄暗い冷凍庫の中は、床に滴った水滴が凍り付き、つるつるとした足場になっている。
冷凍されたまま保存してある野菜が詰まった籠の隣を通り抜け、コンテナが多く積まれたブロックにまでやって来て、コンテナの後ろ側へ回り込んだところで、とうとうティエラが足を完全にスリップする。
「ティエラ!?」
「誠次っ!」
背中から倒れる彼女の右手を掴んで引っ張り、どうにか踏ん張ろうとする誠次であったが、足元の条件は同じであった。彼女同様誠次は足を滑らせ、まるでティエラに右腕で引っ張られてしまったかのように、誠次は倒れる。
仰向けの姿勢で倒れたティエラに対し、その上に覆いかぶさるようにしてだが、誠次は咄嗟に手を突き出し、冷たい床に両手をどんと置き、どうにか彼女との接触は寸でのところで防いだ。
「……っ」
「……っ」
広げた両手の間に金髪の頭は収まり、鼻と鼻が掠れ合うほどの至近距離で、誠次はティエラの顔を間近で見る。
「さ、寒いですけど……熱い……です……誠次……っ」
あまりにも近すぎて、二重にも重なって見える綺麗な顔立ち。そこの震える口から吐く息は白く、しかし熱っぽく、誠次の視界と頭を真っ白に、温かく染め上げる。
「俺……も。寒い、のに……すごく……温かいん、だ……」
すぐに退こうと、ティエラを左右で挟む両手を床から離そうとした誠次であったが、ティエラは顔を懸命に左右に振っていた。
そして、誠次の右頬に、持ち上げた自身の左手を、そっと添えてくる。
「どうか、教えてください……誠次……っ。先ほど、電話で、貴男を勇敢な騎士へと育てた魔女と……何を話していたのか……」
「言え、ない……」
愛おしく、また愛しむように、ティエラは誠次の頬に自身が動かせる五本の指を、添わしていく。
そのうちの一つが、誠次の唇の端にそっと触れる。
「遠くから私を見る貴男の顔が、私には、とても悲しんで見えましたの……。そして、貴男の悲しそうな顔を見た私も、とても悲しかったの、ですわ……」
「それは、俺も、悲しく思っていた……」
「貴男の喜ぶ顔を……笑顔を……素敵な表情を、もっと見たい、ですわ……っ。この先も、ずっと……いつまでもお傍で……っ」
「俺、だって……っ」
伸ばされたティエラの指が、誠次の震える下唇をそっと触り、言葉を次々と引き出していく。
寒さなど、もう一切感じなくなっていた。ただ今は、彼女の息遣いと、心臓の音だけが、聞こえてくる。どちらも、寒さとは真逆の、熱い感情を伴って。
「……っ」
誠次は迷いを振り切るように、瞳をぎゅっと瞑って、顔を左右に懸命に振るう。
そして、今度はこちらから、彼女の左頬にそっと右手を添える。
「……誠次」
ティエラのか細い声。
本当に、彼女の頬は熱く、まるで火傷をしてしまいそうなほどであった。
そうして彼女は、そっと、紫色の瞳を静かに閉じていく。長く優美なまつ毛の下に隠れていったその色の名残惜しさを感じながら、誠次は彼女の唇が、何かの明確な思いをもって形を作るのを見た。
誠次は、まるで背後の何かから逃れるように瞳を瞑って、そのティエラに覆いかぶさる身体を支えていた左手の力を、抜こうとする。
「――さっきの子供はどこへ!?」
白銀と群青の倉庫内で響いたのは、厨房のコックの男の声だった。
我に返り、咄嗟に起き上がった誠次は、ティエラの手を引く。
「いけない! 立つんだ、ティエラ!」
「……っ。はい……っ」
どくんどくんと、二つの意味で鳴り響く心臓の音。誠次はティエラの手を取り、再び冷凍倉庫内を走りだした。
巨大冷凍倉庫と、取引先から食材を運ぶトラックが停車するための地下駐車場を繋ぐドアを越え、誠次とティエラは再び外へ出る。
冷凍倉庫とは打って変わり、生温い風を一斉に身体で浴びながら、誠次はティエラと共に走り続けた。
「先ほどは、すまなかった……」
「どうして、謝るのです、誠次……」
日はすでに彼方へ沈み、星は愚か、月さえ出てはいない、今宵は漆黒の空。
若すぎる二人の逃亡者から伸びる影は、離れあったまま、一つになることなどは決してなかった。
~英国兄妹のそこはかとないやり取り~
「閃いたぞ、我が妹よ!」
のあ
「どうしたの、お兄さん?」
しあ
「この車、すごく熱い……」
しあ
「我慢してくれ、妹よ……」
のあ
「いや本当にすまない……」
のあ
「それよりも!」
のあ
「私の使い魔の鳩を使って」
のあ
「地図を作るのはどうだろうか!?」
のあ
「先に剣術士に脅威を知らせるのだ!」
のあ
「お兄さん頭いいー」
しあ
「そうだろう妹よ!?」
のあ
「さあ行け! 我が使い魔たちよ!」
のあ
「これで私も運転手以外の活躍が!」
のあ
「くるっぽー」
はと1
「ほーほー」
はと2
「……」
はと3
「ああ!」
のあ
「なんと言っているのか分からないな、これ!」
のあ




