12
「えっ、そこはキスじゃないの誠次くん!?」
――作者であり、一読者のツッコみ。
母親が死んだ日の事は、今でも覚えている。
せめてもの救いは、それがこの人を喰う怪物がいる魔法世界の中では穏やかな方ではあった、病床の上であったことだろうか。
小学校低学年の自分でもわかるほど、細く冷たくなった母親の手を両手でぎゅっと握り、どこにも行かないでと必死に祈り、涙をぼろぼろと流した。最期の瞬間まで母親は笑ってみせ、わたしの頭を撫でようとしてくれた。
――最終的に、その手が赤い髪に届くことはなく、代わりに悔しそうな表情をした父親の両手が、後ろからわたしの肩をぎゅっと掴んでいた。旅立ってしまった一人と残された二人とも、顔をくしゃくしゃにするほど涙を流していた。
大切な存在がいなくなった途端、人と言うのは驚くほど無気力になり、本当に胸の中がぽっかり空いたような気持ちになる。
きっとそれは、最愛の女性を失った父親だって、同じ気持ちだったに違いない。なにか違うものでその穴を埋めようとしても、サイズは合わず、全て虚しく通り過ぎてしまう。
それでも父親は、逞しかった。魔法世界となった中でも一般の仕事を続ける傍ら、暇を見つけてはわたしに愛情を注いでくれた。わたしも、幼いながらに父親の助けになりたくて、必死に母親の真似をしようとしてみたような気がする。
母親が病気で亡くなった年から、父親は毎年の夏には、わたしを蛍島へと連れてきてくれた。
だから、私がお祖母ちゃんと出会ったのは、母親を失って迎える初めての小学校の夏休みの日だった。
父親からすでに、母親の最期を聞いていたのだろう。お祖母ちゃんはわたしのことを見るなり、涙ぐんだ顔を隠すこともなく、しゃがんで抱きしめてくれた。それはちょっぴり痛くて、苦しかったけど。どうしても見つからなかった、心にぽっかりと空いた穴を埋めてくれるような気がした。
そこから毎年、夏になるとどんなに忙しくても、必ず一週間は蛍島に行く。
「お祖母ちゃんっ! わたし! あやなだよーっ!? 遊びに来たんだっ!」
父親が仕事で忙しくて来られない時も、一人で島に訪れ、島の人に手伝ってもらってから、蛍の住まう山を登り、お祖母ちゃんの元へ。
お祖母ちゃんはいつも、気品ある仕草と佇まいで、わたしを迎えてくれた。
「……よく来たな、綾奈」
わたしはそんなお祖母ちゃんを、見習った。料理や弓道、礼儀や仕草。何から何まで、大きな影響を受けたのだと思う。……もしかしたら彼がよく言う、すぐ人を正座させる癖も。
そんな美しく強い女性であった、朱梨のようになりたい。
だけど同時に、不思議に思うこともある。
――辛かったのね、綾奈ちゃん。今日からここが、綾奈ちゃんの二つ目のお家だよ――。
始めて出会ったときのような、わたしの境遇を思い、涙ぐんだ弱い女性の姿。そして抱き着かれた耳元で聞いた、涙の声と音。
あの日以来、あの人のそのような顔は、二度と見ていない気がする。よほど強く印象に残っているのか、その当時の光景は、今でも鮮明に覚えているのだ。
なにが、蛍火の女傑をそうさせたのだろう。あの人を人ではなく、蛍と共に生きるものに変えたのは一体何なのだろうか?
一人、誰にも言えずに悩みながら矢を振り絞ったところでその答えは出ず、直接聞こうとしたところで、お祖母ちゃんはなにも答えてはくれなかった。心の隙間を埋めてくれたはずの存在は、いつの間にか、音を立てて崩れ落ちようとしている。
それを寸でのところで支えてくれたのが、他でもない、剣を持った彼である。彼はこの島に共に来てくれて、その存在を壊すのだろうか、それとも――。
その結果がどうなったとしても、例え私が彼を惑わそうとする魔女であったとしても、きっとその選択に後悔はしないのだろう。いいや、しちゃ、駄目だ。
答え合わせは、もう間もなくだ。わたしに出来るのは、歯痒いが、今は二人の戦いを見守ることだけ。憧れと戦い続けた私が最後まできなかったことが、彼にならば出来ると、信じている。
なぜならば、わたしにとって彼――天瀬誠次とは、心の隙間を埋めるものではなく、手を取り合って一緒に未来へと歩んでいきたい、大切な人なのだから。
※
篠上綾奈は、篠上朱梨と共に、蛍山の頂上付近にまで訪れていた。標高もあるここからならば、港町は愚か、太平洋の彼方まで見渡せた。波は、今日も穏やかな気がする。
山頂までは、朱梨の運転する車でやって来た。
「ねえ、お祖母ちゃん」
バケツとブラシを持つ綾奈の周囲には、灰色の墓が並んでいる。
蛍島の蛍山の山頂にあるのは、ここ蛍島で生涯を終えた人々の遺体が埋められる、山の墓場であった。
綾奈からすれば幼少期の頃から、一年に一度は島に訪れたときは、朱梨の行う墓掃除を手伝っていた見慣れた場だ。子どもの頃は両手でせっせと持っていた、川で汲んだ水の入ったバケツも、今では片手で持てる。
「どうした、綾奈?」
朱梨は並んでいる墓石を一つ一つ、丁寧に掃除して回っている。
「ずっと昔から気になっていたんですけど、どうしてお祖父ちゃんのお墓はないんですか?」
初めてここに来た時から、お祖父ちゃんはすでにこの世にはいないと言うことを、朱梨からは聞かされていた。
朱梨曰く、ろくでもない人だったそうだが、さすがにお墓までも作られていないのは不自然すぎる気がした。
「必要ないからさ」
そう言い切った朱梨の横顔を見つめてみても、その真意を探ることは、今の綾奈には出来なかった。遠くを見つめる朱里と、その横顔を見つめる綾奈の間に、夏の山を越える冷たい風が吹いていく。
そうして墓石に止まっていた蛍をじっと眺めていると、半ズボンにしまっていた電子タブレットが鳴っていた。
「あ、また誠次から連絡だ」
今朝、火村と特訓するとの旨の知らせが来たときは、ほんの少しだけ心配になったが、誠次のことは信頼しているので、怪我しないようにとだけ返していた。
特訓が終わり、その知らせでも送ってきたのだろうかと、少しだけわくわくしながら電子タブレットを起動すると、
【火村の実家ってどこか分かるか?】
「はあっ!?」
想像の斜め上を行く連絡が到来していた。なぜ、彼女の実家を知りたがっているのか。言ったところで、どうするつもりなのか。まさか、今度は火村の実家に泊まる気なのだろうか。
綾奈の頭の中でどんどんどんどんあらぬ妄想の出来事が広がっていき、顔が真っ赤になっていく。
「い、家なんか行ってなにするつもりなのよ!? って言うかそもそも一昨日この島にいたの知ったのに、知らないしっ!」
と、自分こそ誠次を家に招いているのだが、綾奈はそのような返信をしていた。
すると、間もなく誠次から返信があった。
【急にすまなかった。もしかしたら今日は遅くなるかもしれない】
「はあっ!? いやそれって完全にそういうことじゃない!?」
静かな墓場のただ中で、その気になればゾンビが目覚めそうな勢いで怒鳴る綾奈の後ろから、どこか茶化すような笑みを浮かべる朱梨がやって来る。
「今日は助かったよ綾奈。さすがにこの歳になると、全ての墓石の掃除も大変になってきてね」
「そ、そうですか。手伝えて良かったです」
そわそわしている綾奈の様子に気づけない朱梨ではなく、何かを察したように、微笑みかける。
「そろそろ帰ろうか。車に荷物を運ぶのも、魔法ならば楽そうだ。そうしたら、山の下ぐらいまでは車をだしてやろう」
「は、はい! 任せて下さい! お祖母ちゃん!」
綾奈はせっせと、帰り支度を始める。
誠次には、その場で待機するようにとの連絡を送っておいた。
※
一方。一人ぽつんと海辺に残っていた誠次は、火村の自転車の近くの石垣の上に座り、途方に暮れていた。
「――兄ちゃん、そんなところに座ってどうしたの?」
そんな誠次に声を掛けてきたのは、誠次が溺れているところを助け、モテ方、とやらを教えていた島の男の子、ユウキだった。
半そで半ズボンから伸びたスポーツ少年らしい手足は浅黒く日焼けしており、キックボードを漕いでここら辺を走っていたようだ。
「隣いい?」
「ああ」
キックボードを止めたユウキは、慣れた様子で誠次の座る堤防の上までジャンプして上がると、誠次の隣に座る。
「ちょっと悩んでいて。なに食っているんだ?」
もぐもぐと口を動かしているユウキをまじまじと見つめ、誠次は尋ねる。
「ホタルイカの燻製。兄ちゃんも食べる? 美味いよ」
ユウキはそう言って、袋に詰めて持っていた茶色いイカを手渡してくる。
「ありがとう。うん、美味しい」
もぐもぐと、二人して海を眺めてホタルイカの燻製を食べていた。
「で、こんなところで一人でなにしてるの、兄ちゃん?」
「そうだ。君は、火村さんの家がこの島のどこにあるか、知らないか? ほら、昨日いた、日焼けしてた女の子」
ユウキはホタルイカの食べかすを口につけたまま、うーんと上を見る。
「兄ちゃん、逆に家知らなかったの?」
「言っただろう? 俺はアイツと仲が悪い」
「じゃあなんで、家なんか知ろうとしてるの? まさか、ストーカーして嫌がらせするつもり!? 男としてそれは最低じゃない兄ちゃん!?」
「いや違う違う……。後ろにある自転車を返したいんだ。このままここに置いておいたら、誰かに盗られちゃうかもだろ?」
誠次が振り向いて赤い自転車を指し示す。容赦のない日光を浴びる火村の赤い自転車は、見ているだけでこちらが熱くなってしまいそうなほどの光を反射させている。
ユウキも誠次と同じ方を見ていた。そしてすぐに、誠次に視線を戻す。
「盗られるって……誰も盗らないよ。俺のキックボードだって、外に置きっぱなしでもなくならないもん」
「ここはそうなのか……。都会だととても安心できないぞ」
「都会って怖ーっ。でもわかった。借りたものはちゃんと返すようにって、お母さんもよく言ってるし……」
物わかりの良いユウキはそう言いながら、石垣から降りてキックボードに片足をつける。
「俺、知ってるよ! 島の端っこに、一つだけ人が住んでる灯台の家があるの! ちょっと遠いけど、そこに人が住んでるってシオリが言ってた! きっとそこだよ!」
「端っこか。本当に他の島の人と関わりたくないのだろうな……」
そうまでして火村の両親がこの島の人々との交流を避ける理由と、それでもなおこの島に残り続ける理由。その二つの理由の矛盾を疑問に思い、誠次は顎に手を添えていた。
本州とは違い、島での生活など、周りの人々との協力があってこそのはずだが、居心地は悪くないのだろうかと思う。
誠次は男の子に、すぐ後ろに立て掛けてある赤い自転車を指さしてみせる。
「ユウキ。君はこの後暇か? この自転車を、火村さんに返したいんだ」
「うん暇! だったら案内するよ! 代わりにまた都会の話とか、いっぱい聞かせて!」
「わ、分かった」
「あ……あと、アイスも奢ってくれたり、する? イカ食べたし!」
「ちゃっかりしてるよな……。まあ、お礼として奢ってあげるよ」
「やった!」
そうして張り切るユウキに、苦笑した誠次は道案内を頼んだ。
しばらくすれば、待ち合わせをしていた綾奈がやって来た。
「ちょっとどう言うつもりよ!? 火村さんの家に行きたいだなんて!」
「自転車を返したいんだ。特訓の途中で火村のお母さんが来てさ」
その時のことを思い出した誠次は、どこか引っかかった点も思い出す。
「火村の家と篠上の家に、何かあったのか、綾奈は知らないのか?」
使い古しの赤い自転車をこきこきと音を立てて歩いて押し、誠次と綾奈とユウキは海沿いの道路を歩く。
「どうして?」
「篠上の名を火村の母親の前で言ったとき、雰囲気が変わったような気がして」
「知らないわ。私だって、火村さんのことはヴィザリウスに入るまで知らなかったんだから」
両手を広げて石垣の上を歩きながら、ユウキは二人のそんな会話を聞いている。海の方では相変わらずカモメが飛んでおり、ユウキはそれの真似をしているようだった。
「そうだよな……。となると、やはり朱里さんか……」
やがて、ユウキが進行方向上である正面を見据えて、指を指す。
「あれ。あの灯台の家!」
「立派だな……」
ユウキが指さした方を見つめ、誠次は思わず立ち止まる。
岬の先端付近、白波が押し上がるそこに建っている白い巨大な灯台。その真下に、確かに民家が一軒だけあった。港町から遠く離れたここにたった一つだけあるその住まいは、まるで来る人を拒むかのように、異質な存在感を放っているようだった。
舗装された道路から外れた草むらの道も通らないとならず、灯台に用でもなければ近寄らない事だろう。
「ね? あったでしょ? たぶんあそこの家のことだと思う。町役場に停まってる車、いっつも停まってるし」
「案内ありがとう。じゃあ行ってくるよ」
「絶対アイス奢ってよ!?」
「分かってる。自転車届け終えたら奢ってやるよ」
「私も一緒に行かせて」
綾奈が自転車のサドルに手を添え、誠次に言う。
「火村さんのお母さんが私の家と何かあったのなら、聞きたいし。挨拶もさせて」
「分かった。ただ、あまりいい雰囲気ではなかったという事だけは、言っておく」
ユウキを待たせ、誠次と綾奈は二人で自転車を押して、火村の家らしき家屋へと向かう。ここに来るまでに、すっかり夕方になってしまっていた。目立つ灯台の先に、沈んでいく太陽が見える。
門がしっかりとあった灯台下の一軒家には、確かに【火村】と書かれた表札があった。どうやら、島の子たちの予想は当たったようだ。
立地以外は立派な一軒家。そこの玄関のチャイムを押してみる。
茜空の下、岬の先と言うことで潮風は強く、応答を待つ二人の髪を揺らす。程なくして、火村の実家側からの応答はあった。玄関ではなく、二階の窓が、勢いよく開いたのだ。
部屋から顔を出したのは、どこか慌てた様子の火村紅葉であった。
「――う、嘘!? なにしに来たん!?」
盛大に慌てた様子で、火村が叫んでくる。
「君の自転車を返しに来た。これ、置きっぱなしだっただろ?」
誠次が赤い自転車を指さして、答えていた。
「は、はあ!? それだけでここに来たの!?」
「そうだ。年季も入っていそうだし、大切なものなのだろう?」
「そうだけど――」
口籠った火村が、次の瞬間には何やら遠く、誠次と綾奈の後ろの方を見て青冷めた顔をしている。
「い、いかん! お父さんとお母さんが帰ってきた!」
ちょうど火村の両親が、港町の方から帰ってきているようだ。
「ちょうどいいわ。自転車、何処に置いておけばいいの?」
綾奈が大声を出せば、火村は益々慌てた様子で、窓から身を乗り出していた。
「どこがちょうどいいんじゃ!? 見つかるから中に入って! 早くっ!」
自転車を置いて帰るつもりが、火村は家に来ることを要求していた。
「ど、どういう事?」
切羽詰まった様子の火村に、綾奈が首を傾げている。
「どうして君のご両親は綾奈を避けるんだ?」
誠次も困惑した様子で、火村を見上げて言うが、
「じゃけえ! いいから早く! 自転車はそこら辺に置いて!」
火村は咄嗟に形成魔法を発動すると、家の壁に半透明の階段を作り上げる。窓枠から飛び出し、俊敏な身のこなしで飛び降り、お手製の魔法の階段を下り、誠次と綾奈の前までやって来る。
「こっち!」
戸惑う誠次と綾奈の後ろに立ち、両手を使って二人の背をずいずいと押す。
「ちょっと!? ご両親さんが来たのなら、挨拶ぐらいさせてよ!」
「それが駄目だと言っとる!」
綾奈が後ろを向いて火村に言うが、「今はとにかく黙って言うこと聞いて!」と火村は言って聞かない。
砂利を擦り、草むらをかき分け、切り立った崖の方へと押されていく。
「突き落とす気か!? 人殺しーっ!」
「んなわけあるか! アホかっ!」
誠次が必死に抵抗しようとするが、予想以上に火村の力は強かった。是が非でも、両親に顔を合わせたくないようだ。
家の裏側に連れてこられたものの、ここは海が一望できる展望デッキのような場所で、リビングのカーテンを開けられてしまえば丸見えな状況に変わりない。
「ここじゃどっちみち見つかる……かと言って家の中に隠すわけにもいかないし……!」
両親の足音が近付いてきて、焦る火村は咄嗟に周囲を見渡す。目につくのはやはり、灯台だけだ。
崖から突き落としてもろとも隠蔽する……なんて言うわけにはいかず、火村は二人を灯台下の方まで押していた。
「後で絶対に迎えに行くから、それまでここに隠れてて! お願い!」
「隠れるって……」
鉄の柵のドアを開け、誠次と綾奈は言われるがまま、灯台の敷地の階段を上る。
一方で火村は、急いで踵を返し、家の中へと向かう。「時間稼ぐから!」と、叫び残して。
誠次と綾奈は視線を合わせ、互いに肩を竦める。
「そうまでして顔を合わせたくないなんて……」
「仕方がない。岬の先の一本道で戻るに戻れないし、火村の言う通り灯台の中に行こう」
あまり入ることがないのだろう、錆び付いている灯台入り口ドアを見つめ、誠次は言う。ずっと昔から、この姿のままなのだろう。篠上の実家と同じく、おそらく、この世界が魔法世界となるより前から。
俯きかける綾奈の手を取り、誠次は「こっちだ」と声をかけ、灯台へと向かう。
地平線の先に沈みかける夕日を隠すほど、高く聳え立った灯台は、真下に来れば迫力もある。
「あそこの窓からなら入れそうだ」
誠次が指差したのは、背丈より少し高い灯台の外壁にある、開きっぱなしの小さな窓だった。
誠次は軽くジャンプをし、窓に手をつき腕の力でどうにか登りきる。中にあるのは中央の螺旋階段で、おそらく天辺まで続いているのだろう。やや埃っぽいものの、内部の空洞のスペースは意外と広そうであった。
「なんでそこまで行動力旺盛なのよ……」
窓枠によじ登る誠次を見上げる綾奈が、どこか呆れるように誠次を見る。
「灯台の中なんて、滅多に入れるところじゃないしな。天辺から外の景色なんて、見られたら最高そうじゃないか? ほら、夜空とか、綺麗そうだし」
自分でも知らないうちに、誠次の口調は熱を帯びている。
見果てぬ天への思いは、きっと両親譲りなのだろう。
「……」
そんな誠次を見つめ、綾奈は納得したように薄く微笑んでいた。
「綾奈。手を伸ばして」
窓の上で振り向いた誠次は、外で待つ綾奈に向けて手を伸ばす。
こちらを見上げる綾奈の背中の方で、いよいよ火村の家のリビングの電気が灯されるのが、カーテンの四隅の先から零れた光で分かった。
ほんの少しだけ躊躇している様子の綾奈であったが、次には誠次に向けて、手を差しだしていた。
「うん。わかった」
綾奈は両手を伸ばし、誠次の手を確りと掴むと、灯台の外壁に足をつけて駆け上がり、誠次の隣にまで登りきる。
誠次も綾奈を引っ張り上げ、二人は灯台の中に入った。
「焦った……。でも、これって立派な不法侵入じゃないかしら……」
螺旋階段がある以外が何もない殺風景な内部は、ともすれば最上階まで登った時のご褒美である解放感ある景色が、より一層楽しくなれるようにと言う灯台側のおもてなしなのかもしれない。
思ったよりも狭く感じるのは、壁が確りとしているからであろう。
へたりとその場に座り込む綾奈に、誠次もようやく一息つく。
「一応、火村の許可あるんだし、大丈夫だろう」
会話の声が響く中、誠次は吸い寄せられるように、灯台の遥か天辺の方を見上げる。見上げれば遙か高いところに、茜色から紫色に変わりつつある空はあるようだ。
「なあ、綾奈。せっかくだし、一番上まで登ってみないか?」
まるで夢見る子どものような誠次の横顔を見つめていた綾奈は、思わず吹き出す。
「わ、笑うなよ……」
「ごめんごめん。さっきもだけどあんまりにも子どもみたいな事言い出すから。やっぱりあんたといると、どんな場所でも二人きりでも心強くて、楽しくて」
綾奈の言葉に、誠次はどきりとし、思わず赤面する。
「呑気な真似だとは思うけどさ……」
後ろ髪をかきながら自信を無くしていき、声音も徐々に小さくなっていく誠次の前で、綾奈は立ち上がった。
「いいわよ。でも私……高いところはやっぱり苦手だから、連れてってくれる?」
高いところが苦手な彼女の付加魔法能力が高度に関することとは、何かの因縁か皮肉なのか。
「ああ、任せてくれ!」
誠次はそう言って、右手を差し出す。
「……ありがと」
綾奈は誠次の手を握り、誠次と共に螺旋階段を上がる。
螺旋階段の行く末は果てしなく、まるで登っているうちに、もしかしたらずっと止まった時間のまま、進んでいない気もしてきた。代わり映えのない光景が続いているからだろうか。
擦り減った手すりや階段の塗装は、きっと誠次と綾奈以外にも、大勢の人の手と足を受け止め続けた歴史なのだろう。
波の音も虫の音も聞こえず、階段を駆け上がる音と、二人の息遣いだけが耳元に聞こえる。
――ねえ、頂上はまだなの?
――あと少し! こっちだ!
――私、本当は高いところは苦手なのよ……。
――安心しろって! それに、きっと天は綺麗だぞ!
「……?」
ふと、まるで自分が自分ではなく、手を繋ぐ綾奈が綾奈ではない気がして、誠次は内心で驚く。
「どうしたの、誠次? ……もう下見れないよ……」
「い、いや。なんでも……ない……」
止まった時間が急激に動き出し、誠次の意識も元に戻る。虫の音は聞こえないが、それはいた。こんなところにも蛍がおり、それは誠次と綾奈の間を光を灯して飛んでいく。
「大丈夫だ綾奈。さあ、もう少し」
「う、うん」
蛍が残した残光を見送り、不思議な感覚のまま、誠次と綾奈は最上階を目指した。
「うわぁ……」「凄い……」
最上階からぎりぎり見ることができた、夕陽が海の地平線の彼方へと沈んでいく光景は、圧巻だった。日の光が射し込む大海はきらきらと輝き、一日の終わりを告げる。薄らと見える星々が、今か今かとその輝きが増す時を待ち侘びているようだ。
「ずっと見ていられる……」
「うん……。高いところは苦手だけど、なんだろう。綺麗だからか、怖くない……」
疲れた身体の事はひとまず忘れ、誠次と綾奈はしばし蛍島の絶景を眺めていた。
遠くで聞こえる波の音や、そよぐ風。ここ数日ですっかり聞き慣れたはずのそれらが、新鮮な記憶と思い出となって、今再び誠次の頭に強く焼き付いていた。
――隣に立つ、風に揺れる赤いポニーテールと、綺麗な海を描くような青い瞳を持った、綾奈の美しい横顔も。
夢うつつな思いでそれらを見ていた誠次は、自然と口が綻んでいるのを自覚していた。
すると、こちらが見つめていることに気が付いた綾奈が、くすりと微笑む。
「なあに?」
優しかった言葉に顔が熱くなるのを感じ、誠次は「なんでもない……」と視線を再び夕日へと戻す。
やがて、太陽は海の底へ消えて夜が広がりを見せる。驚いたのは、背後からでも分かるほど、眩しい光が一斉に焚かれたことだ。驚いて振り向けば、どうやら灯台の明かりが自動で点いたようだ。
蛍の光など比ではないほどの眩しい光から逃れるように、誠次と綾奈はライトの反対側の方へと回りこむ。
そこは海に背を向けた山の方向。篠上の実家がある方の足場に、極めて不自然な祠のようなものが取り付けられていた。
「何かしら、これ……」
「お供え物がある。灯台にか?」
鉄柵においてはやはり異質な木製の祠に、誠次と綾奈はきょとんとし、揃って首を傾げる。
「ランドセル……か?」
お供え物らしき、蛍が止まっていたランドセルの色は、黒色。すっかり古びて、革は傷んでおり、何年もここに備えられているのだろう。他に目につくのは、袋に入ったままのお菓子や、水泳に使うゴーグルのようなものだった。
「――なして二人とも上登っとるん……おかげで大変だったわ……っ」
背後から聞こえた声にぎょっとすると、螺旋階段を駆け上がって来た火村が、口でぜえぜえと息をしながら立っていた。水泳部で人並み以上の体力を持つ彼女でも、螺旋階段を駆け上がるのは堪えるようだ。
「すまない。でも、上からの景色を見たかったんだ」
振り向きながら誠次が言う。
「ウチの親、なぜか知らんけど、篠上さんと関わるなって言ってるのよ。だから隠したの」
あごの下の汗を腕で拭いながら、火村は告げてくる。
「は、はい?」
灯台の明かりに横顔を照らされながら、綾奈が困った表情を浮かべる。
「それは?」
火村は、誠次と綾奈の間にある奇妙な祠に気がついたようだ。
「お供え物がされているんだ。火村も知らないのか?」
「本当はここ、ウチも入っちゃ駄目なの。そして、篠上さんに会うことも」
「そんな……。もしかして、私が無理に家に誘ったの、マズかった……?」
綾奈が申し訳なさそうにしているが、火村は平然と首を横に振る。
「別に。最終的に行くって決めたのはウチの意思だし。……なにより、ちょっと反抗したくて」
小声でそう言いながら火村は、誠次と綾奈の間に立ち、同じように祠を見つめた。入ってはいけないところに火村自身も初めて入ったとのことで、その表情には今のところ、まだ好奇心があるようだった。
「なにこれ……。水泳のゴーグルがお供え物?」
「ランドセルの色も黒い。もしかして火村……男じゃ、ないよな?」
誠次が火村をまじまじと見て言うと、火村は咄嗟に自分自身の身体を抱き締め、誠次を睨んだ。
「当たり前じゃ! あと、勝手に殺すな、あほ」
そうして火村は、不自然な祠をじっと見つめていた。
「……どうして、こんなものが……」
ぼそりと呟き、お供え物を一つ一つ見ている。
「本当に何も知らないのか?」
誠次が火村の背に問うが、火村はこちらを見ずに「知ってたらこんなところに入れない」と答える。
よく見れば未使用のランドセルに止まっていた一匹の蛍が、光を放って飛ぶ。
急に飛んだそれに驚いた火村は、小さな悲鳴を上げて、後ずさる。そうして見た螺旋階段の遥か真下。そこからゆらゆらと、なにか蛍ではない光を放ちながら、階段を上ってくるものがあった。
虫の光でそれを見た火村は、青ざめた表情をしていた。
「嘘……。お母さんが来るっ!?」
火村は手すりをぎゅっと握り締め、真下を見下ろしている。
誠次も急いで下の方を見つめた。
自然なものではなく、魔法でもない。人工的な光は懐中電灯のようだ。それを灯し、火村の母親は確かに螺旋階段を上ってきている。
「……まさか、鍵がないことにもう気づいたの!?」
火村は軽くパニックになりかけており、その隣に綾奈が割って入る。
「もしかして、火村さんをここに入れたくなかったのは、屋上のこれを見せたくなかったから?」
綾奈が背後にある祠を示して言うが、火村はわからないと、汗ばんだ顔を左右に振る。
このままでは最悪の状況で火村の母親と鉢合わせしてしまう。螺旋階段はどう考えても一本道で、遅かれ早かれ正攻法で降りれば遭遇は免れないだろう。
かと言って、先ほどの火村のように、灯台の外に魔法を作って降りる真似など、この高度では二人とも出来そうにない。
ならばと誠次は、迫り来る火村の母親の姿を遠巻きに確認し、背中のレヴァテイン・弐を引き抜いた。
「綾奈。付加魔法を頼む! 空中からここを離脱する」
「う、うん。わかった誠次!」
綾奈も誠次の考えに賛同し、両手を差し出して誠次が手に握るレヴァテイン・弐に魔法式を展開する。
赤い光が刀身に奔り、瞬きした誠次の瞳も赤く変色した。
「え……」
火村からすれば、初めて見る光景であり、また一瞬の出来事だったのだろう。誠次の付加魔法状態の姿を見て、何か不気味なものを見るように、引き攣った顔をしている
「よし。綾奈、行くぞ」
「お願いセイジ!」
誠次は左手で綾奈を抱き寄せ、綾奈も誠次の身体に腕を回し、抱きつく。腰の高さまでしかなかった鉄の柵から、誠次は迷いなく夜空へと飛び出した。
「ちょっ、嘘……」
慌てて誠次を引き留めようと、鉄の柵に手をついて身を乗り出した火村であったが、誠次はすでに空中に足場を作り、火村の実家を跳び越えていた。
「空、飛んでた……」
そうにも見えた火村は、脱力したようにその場にぺたんと座り込む。
数秒後、誠次は高速で再び灯台の天辺まで戻り、鉄柵の外側で足場を作って止まる。
「火村! 時間がない! 掴まれ!」
左手を伸ばし、赤い瞳をした誠次は座り込む火村に手を差し出す。
やや動かしかけた身体をぴたりと止め、火村は首をゆっくり横に振る。
「行け、ない……」
「行けないって……。このままでは君の母親と鉢合わせになるんだぞ!? 本当はここにいちゃ駄目なんだろ!?」
また先ほどのように嫌がる彼女の腕を強引に引き、連れ出されたりはさせたくない。
そう訴える誠次は火村を助け出そうとするが、火村は座り込んだまま、動こうとはしなかった。いつもの勝ち気な表情はどこかへ、今誠次を見る火村の表情は、明らかに動揺を隠せてはいない。
「このまま見つかってもいいのか!?」
「駄目……」
「ならば掴まれ! 怖くはない! 目を瞑っていればいい!」
「でも……ウチは……っ!」
次には、殆ど泣き出しそうな声と表情で、誠次を見つめて言う。
その間にも、螺旋階段から迫る足音はどんどん大きくなっていた。声が聞こえてしまうのも、時間の問題だろう。
火村は恐る恐る、またゆっくりと、誠次へ向けて震える右手を伸ばす。
「火村っ!」「紅葉っ!」
あと少しで指先が触れ合う直前、灯台の螺旋階段を登っていた足音が、急にぴたりと止まった
手が触れるあと少しのところで、火村の母親が、灯台の天辺へと辿り着いてしまっていた。
咄嗟に手を引いた火村は、誠次へ向けて、大きな声を出す。
「っ! ――行って!」
「火村!? そんなっ!」
突き返された誠次は、思わず空中で後退り、足場を失ってその場から落下しかける。
鬼の形相を浮かべる火村の母親と目と目が合い、火村の母親は、娘である火村紅葉の腕を掴み上げていた。
「ウチのことはいいからっ! 早く行ってっ!」
「そんな、火村……」
あと少しのところで、火村を連れ去る事が出来なかった誠次は、急いで足場を作り直し、灯台の天辺から落ちるように離脱していった。
「そんな……ちくしょうっ!」
灯台の眩い光が赤く光る眼を刺激する中、微かに見えたのは、彼女がこちらに向かって手を伸ばしている姿だった。
※
「ごめんなさい……天瀬……」
母親に無理やり腕を締め上げられながら、火村紅葉は赤い光の残滓を見つめ、誠次への謝罪を口にしていた。
そして火村は、自分の腕を掴み上げる母親を睨み上げる。
「あそこにあったランドセル、ウチのじゃなかった! 誰のなの!?」
両親がひた隠しにしていたものは、灯台の展望台に備えられたこれらの事だったのだろう。島を見渡すように建てられた祠に、ランドセルやお菓子と言ったお供え物。それらがなにを意味するのか、漠然なりとも火村には分かった。
「誰を弔っているの、あれは!? 誰が死んじゃったの!? ねえ!?」
火村は、母親の腕を逆に引き寄せる勢いで、問い質す。
「お母さ――っ!?」
返ってきたのは、左頬への衝撃だった。一瞬だけ目の前が真っ白になり、正常に戻った視線の先では、右手を振りかぶった母親の姿があった。
火村を叩いた母親は、目頭を赤くしながら、実の子を睨む。
「全部、あの女が悪いのよ……っ! あの女が、あの女のせいで……っ!」
頬を抑える火村の目の前に佇む母親の姿が、火村紅葉には、もう誰か別人のように見えてしまっていた。
~おススメよ?~
「ねえ天瀬くん?」
しおん
「どうしたんだ、香月?」
せいじ
「急な質問なのだけれど」
しおん
「貴男の中での付加魔法の能力ランキングは、どうなっているのかしら?」
しおん
「え、付加魔法のランキング?」
せいじ
「ええ」
しおん
「日常学園生活。或いは戦闘において」
しおん
「貴方の中で役に立っている付加魔法の能力のランキングが知りたいの」
しおん
「日常生活では使わないだろう……」
せいじ
「しかし、甲乙つけがたいな」
せいじ
「どれも色んな場面で役に立つしな」
せいじ
「そう。――でも例えば、日常生活」
しおん
「こ、香月……?」
せいじ
「料理の時間をきっちり計る時は、時間が遅くなる能力を使えば安全だと思うの」
しおん
「歩いているときも、交通事故を回避できるかもしれないわ」
しおん
「戦いの場面では言わずもがな」
しおん
「いつの間にか相手の懐に接近して、いつの間にかに勝負を決める」
しおん
「それに加えて敵の攻撃は躱し放題。痛くない」
しおん
「控えめに言って最強、だと思うわ」
しおん
「か、微かなどや顔、ありがとうございました……」
せいじ




