それはきっと、チョコすら凌駕するほどの甘い兄たち (小話)☆
殺伐とした本編(作者の嗜好丸出し)の間に小話が!!
男の子回ばかりですまんの……。
けたたましい蝉の鳴き声が、閉め切った部屋の窓の外から聞こえてくる。
四〇度を超えることも珍しくなくなった真夏の猛暑は、東京都内を連日の猛暑日で支配していた。
「暑っつ……」
目覚めと共に、汗だくとなっている自分の身体に驚く。
これならば上半身裸で寝ていた方がよかったかと、帳悠平は自室のベッドから起き上がった。
東京都内の閑静な住宅街。春は桜が咲いていた街路樹も、夏ではすっかりその色模様を変えて、緑色の葉が成長している。
悠平は階段を降り、真っ先に冷蔵庫へと向かう。吸い寄せられるように冷蔵庫の中に手を突っ込み、ボトルに入った水を一気に飲み込んだ。
「わーすごい。そんなにお水いっぱい一気に飲んで、お腹痛くならないの?」
水を飲むために持ち上げていた視界の片隅で、赤いリボンがひょっこりと現れる。
ぷはっ、と口からボトルを外すと、すぐ隣に一つ年下の少女、シア・ガブリールが立っていた。ブロンドのロングヘアーに赤いリボンが目立つ、可愛らしい容姿をした後輩でもあった。
「シアか。もう起きてたのか? 学校でもないのに早起きなんだな」
腕で口元を拭いながら、タンクトップ姿の悠平は言う。
まだまだヴィザリウス魔法学園は夏休みシーズン。自分が実家にいるのも、シアが自分の実家に遊びに来ているのも、その最中の為だ。
「うん。夜はすぐに眠くなって、朝は早くから起きるの」
「け、健康体なんだな……」
少なくとも、夜更かしをしてまでアニメを見ている自分とは真逆の生活態度である。もっとも今日ばかりは、あまりの暑さで起きてしまったのだが。
そして、春から自分の妹になっている結衣もまた、一度眠るとちょっとやそっとのことでは起きないようなディープスイーパーであった。ディーヴァとは別にかかっていないはずである。
「俺ん家はどうだ? 窮屈してないか?」
「うん。少なくとも、悪い人たちのところの家よりは、全然良い」
「そっか。ならなによりだ。朝飯とか、なにか食いたいものあるか?」
「なんでもいいよ。お腹はぐーぐー鳴ってるけど」
「了解」
苦笑しながら悠平はしゃがみ、冷凍庫の中を見てみる。料理の腕などからっきしなので、冷凍食品頼りなのだが、中身はすっからかんであった。
玉子焼きぐらいなら作れるが、母親と父親が長期海外旅行中の帳家の冷蔵庫には、卵すら置いていない。
「あー悪いなシア……。冷蔵庫すっからかんだ……」
「たいへんたいへん。私、昨日の夜食べ過ぎちゃった?」
「昨日はピザの出前だったから、ろくに冷蔵庫見てなかったしな」
控えめに言っても大食いであったシアであった。結衣も現役アイドルという立場から解放された衝動からか、最近はやたらとお腹周りを気にするほど、食べているらしい。
仕方ない、と悠平は伸びをしながら立ち上がる。
「俺が今からなにか買ってくる。部屋の掃除もしたいし、その為の道具もな」
「お掃除は私も手伝うよ。魔法で。任せて」
えへんと大きな胸を張るシアに、悠平は「助かるぜ」と言いながら、外出用のシャツを着る。
せっかくなので、結衣もなにか必要なものはないだろうかと訊きに行こうといたところ、廊下の方のドアがぎいと音を立ててゆっくりと開いた。
現れたのは帳結衣。この春から帳家の一員となっていた、本名は太刀野桃華だ。
春の魔法博士に関した戦いの一件以降、いつも元気で愛想のよい彼女であったが、今日の朝だけは違った。寝起きが悪いのはいつもの事であったのだが、それにしても足元はおぼついておらず、顔もほんのりと赤くなっている。
「おはよ……お兄ちゃん……シア……」
そして、苦しそうにけほけほと咳き込む。
「おはよう結衣。……って、風邪引いたのか? 顔赤いぞ?」
「うう……そうっぽい……」
結衣はおでこに手を添え、気怠げに声を出す。
「昨日の夜たくさんはしゃいでたのに……ウタヒメちゃん大丈夫……?」
シアは心配そうに顔を覗き込もうとするが、結衣は身体をさっと後ろに引く。
「風邪が移っちゃうかもしれないから駄目……。今日一緒に出掛ける予定だったのに、ごめんね……」
結衣は申し訳なさそうにシアに謝るが、シアはブロンドの髪を左右に揺らしていた。
「ううん。それよりも、もう手遅れかもしれない」
「「手遅れ?」」
急なシアの発言に戸惑う悠平と結衣であったが。
「だって私。昨日の夜ウタヒメちゃんの布団で一緒に寝てたから」
「いつの間にっ!?」
びっくり仰天したのは結衣の方で、立て続けに熱に冒された身体が咳を溢す。
「そしたら、なんだか私も、朝から頭がふわふわしてる……」
そうして、みるみるうちに赤い顔になっていくシアである。
悠平は慌てて、二人の少女を交互に見る。
「お兄ちゃん……」
「ゆーへー兄ちゃん……」
「ちょ、マジか!? マズいな……」
とにかく安静にさせておかねばと、悠平は急いで二人分の病人の寝床を確保する。まさかこの時期に夏風邪を引かれるなど、まったくもって想定外である。せめて、自分がきちんと家にいてやったことが二人の少女にとっての救いかと、せっせと部屋を行き来する。
「結衣はこっちの部屋! シアはこっちだ!」
「「はーい……」」
二人の病人を別の部屋の布団に入れ、悠平は忙しなく廊下を歩く。
「えーっと……どうすれば良いんだ……。やっぱネギか……?」
悠平がそんなことを布団に包まる結衣に告げれば、結衣は何やら風邪ではない意味で、青冷めた表情をしていた。
「絶対駄目っ!」
「は……?」
がばっと上半身を起こしてまでネギを拒絶する結衣に、悠平は驚いて後退る。
「ネギなんて持ったら、偉大な大先輩と被っちゃう!」
「なんのことだ……?」
「と、ともかく、私にネギは駄目! 冷えピタとか、温かいうどんとか食べられれば大丈夫だから……」
「そっか。分かった。用意してやるぜ」
理解した悠平がにこりと微笑みながら、部屋を後にしようとする。
すると、背後の方から結衣が小声で声をかけてきた。
「あ、お兄ちゃん……ありがとう……」
布団を口元まで持ち上げて、結衣は恥ずかしそうにお礼をしていた。
「気にするなよ。血は繫がってないけど、家族として、当然の事だろ?」
それに対し、悠平はきょとんとした面持ちで答えていた。
「それは、そうかもしれないけど……」
「はっはっは。俺でも、お兄ちゃんらしいことくらいするって」
風邪さえ吹き飛ばしそうな勢いの大きな声で笑うと、悠平は続いてシアの容態を案じる。
体温計で体温を測って貰ったが、幸いにも二人とも軽い夏風邪のようだった。
しかし、お泊まり会中に体調を崩してしまったことは事実だ。今は海外旅行中の親の代わりにと帳家を任されている身の自分から、シアの兄である元魔法博士に連絡はしなければいけないだろう。
そこで悠平は、予め預かっておいた元魔法博士への電話番号を、電子タブレットに入力する。元魔法博士がシアに持たせていたメモ用紙を小脇に挟み、なんだか嫌な予感がする心中である。
相手はすぐに、こちらのコールに応えた。
『もしもし。私だ、ノア・ガブリールだ』
「ああ、元魔法博士。シアさんが風邪引いちまったんだ。今から看病しようと――」
――ブツリ。
秒で通信を切られ、悠平は訝しんで、砂嵐状態の電子タブレットのホログラム画像を眺める。
「ま、伝えることは伝えたしな」
ぽりぽりと茶髪の髪をかきながら、悠平は再び外出の準備を始めていた。
いざ準備を整え、玄関のドアを開けると、まず襲い掛かってきたのは真夏の日射しと熱風だった。
思わず腕で顔を覆い、陽炎がゆらめく道路から、恨みがましく快晴の青空を見上げる。そこでは真っ白な羽をした鳩が一羽、優雅に青い空を舞っていた。
そして彼方から聞こえてくる、日本産のものではない車のエンジンの音。自分もあと少しだけ大人になれば、乗れるのであろう便利な乗り物だ。それさえあれば、こんな灼熱の夏日でも涼しい車内移動が可能になるのにと思っていると、その黒塗りの高級車は、立ち尽くす悠平の目の前で急停車する。
「筋肉少年!? 妹はっ、妹は無事なのだろうなっ!?」
蝉の鳴き声など気にもならなくなるほどの大きな声で、運転席に座る男は身を乗り出してきていた。
「なんとか元魔法博士!?」
「ノア・ガブリールだっ! もはやご挨拶だな!」
シルバーブロンドの英国人、ノア・ガブリールであった。
「おお、ナイスタイミングだなんとか元魔法博士! ちょうど車が欲しかったんだ! 看病の為の物が足りなくて」
「あれ私年上だよな? 二つ年上だよな? 兄としても年上としても尊厳なさすぎ?」
「ああ、すみませんすみません。なんだか同い年ぽくってさ」
「まあ私は構わんが、それよりも乗るがいい。英国産のスーパーカーだ」
ガブリール元魔法博士は自慢気に車の外装をぽんぽんと叩いていた。まるで英国騎手が馬の胴を叩いているように見えなくもない。
「それじゃ、遠慮なく」
少しだけ乗ってみたかった気分で、悠平は助手席に座る。
「この国は左側通行なので助かる。英国もそうだからな」
「そうなのか。珍しいんですね」
一九歳と一七歳の二人の青年による、それぞれの妹の為のドライブが始まった。
想定通り、車内はエアコンも効いていて涼しかった。行き先は、近所のショッピングモールだ。
「口調はフランクで構わないぞ筋肉少年。君に丁寧語を話されると、私が落ち着かないのだ」
「それじゃ、珍しいな。アンタの様子じゃシアさんの様子を確かめに家の中に入る勢いだと思ったのに」
車を自動運転に任せたガブリール元魔法博士は、悠平の問いに、どこか感傷に浸ったような顔立ちを見せていた。
「確かに少し前の私であったのならば、迷わず愛しの妹の元まで飛び込んでいただろうな」
「はっはっは。そりゃさすがにアウトだろ……」
「そうだろうな。それに、私が行ったところで風邪の具合を和らげることも出来ないだろうしな」
ガブリール元魔法博士は、そうして自分の右手をそっと持ち上げる。
「そもそも、私にもっと魔法の力があれば、シアをマフィアになど関わらせる事なく、最初から幸せな日々を送らせることだって出来ていたはずだ。今はこの身を恨むばかりだよ」
「魔法が得意じゃないんだっけか」
「ああ。だからこそ私は、君の友人である剣術士に強い憧れを抱いた。彼は私以上に大きなハンデを背負いながらも、この魔法世界で強く生きている。彼はまさしく私にとってのヒーローさ。春の一件で、その想いはますます強まった」
「……恋、じゃないよな?」
悠平が恐る恐る訊くと、ガブリール元魔法博士は肩を竦める。
「フ、笑えないジャパニーズジョークだな筋肉少年よ」
「ジョークじゃねえ……」
順調に二人を乗せて進んでいた車だが、ショッピングモールまであと少しのところで、警報装置が鳴る。
自動運転が手動運転に切り替わり、ガブリール元魔法博士は慌ててハンドルによる操縦に切り替えていた。
「いったい何だ?」
リラックスしていた悠平も慌てて姿勢を正し、周囲をきょろきょろと見渡す。
「緊急車両だな。今日は異常に多いんだ。なにか心当たりはあるか?」
ガブリール元魔法博士は冷静に車を歩道へ寄せ、後続の車をやり過ごす。
ガブリール元魔法博士の見解通り、猛スピードで通り過ぎていったのは、なにかの特殊車両のようだった。それも、何台も。道行く人も何事かとその光景を見送った後、すぐに自分の世界へと戻っていく。
「いや。どっかで事件でも起きたのか? にしても、異状な量の車両だけどさ」
心当たりも特にない二人は、そのままショッピングモールに辿り着く。
風邪薬や食料等、必要なものを買い、ガブリール元魔法博士の車の後部座席へ押し込む。
「急ごう。我が愛しの妹の為にも!」
「……やっぱ禁断症状みたいになってるんだな」
普通の夏風邪なので、そこまで急ぐ必要はないと思うのだが。
夏の私服の悠平とガブリール元魔法博士を乗せた車は、来た道を戻り、帳家へと進んだ。
帰りの車内からでも、特殊車両の多さは目についた。試しにニュースを見てみても、いつも通り、何の変哲もない夏の朝のようだった。
「時に筋肉少年よ。妹との仲は順調か?」
運転席に座るガブリール元魔法博士が、訊いてくる。
「お陰様で、って言うべきか。問題はないと思う」
「そうかそうか。君にも春には恩がある。困ったことがあれば、なんでも相談に乗ろう! フハハハ!」
豪快に高笑いをするガブリール元魔法博士の眼前に広がる車の電子メーターが、異常音を鳴らしたのは、その時だった。
赤いランプが点滅し、車のスピードが徐々に減速をし始める。何事かと慌てるガブリール元魔法博士は、懸命に車を動かそうと、色々なところを押したり引いたりしている。
「だ、大丈夫か?」
慌てる悠平の横で、ガブリール元魔法博士は、ハンドルの上に項垂れていた。
「これだから、中古車と言うのは……!」
しかし、すぐに頭を上げる。
「マズい! 急がなければシアの容態がっ!」
「だからそんなに焦んなくても……。ここはもう住宅街か。もうすぐ家なんだけどな……」
車が止まった場所は、見慣れた風景ではあった。幸いにも、車の往来はそこまで多くはない。
悠平はそう言いながら、シートベルトを外していた。
冷房も消えた車内の温度は面白いほどに急上昇を行い、ガブリール元魔法博士も堪らずに運転席のドアを開けていた。窓を開けられないのは、電気自動車の動力が完全に死んでしまったからだろう。
悠平は車の外に出て、太陽の光を浴びる黒光りの車体を見つめる。
「こうなったら家まで押してくか。中の食べ物もこの暑さじゃ心配だ」
「ワッツ!? とち狂ったのか筋肉少年!?」
悠平の言葉を信じられないように、運転席に座ったままのガブリール元魔法博士は青い目を見開く。
「だって、俺もアンタも細かい操作が必要な魔法は苦手だろ? だったら押すしかないだろ」
「なんという思考回路か筋肉少年……!」
「持ち運ぶにしても大量の荷物だ。家で風邪引いちまったお互いの妹が待ってるんだ。四の五の言ってられねえだろ」
そう言いながら悠平は車の後ろに回って立ち、素手で車を押そうとする。
それを制したのは、ガブリール元魔法博士であった。
「待ちたまえ筋肉少年! 素手で車体に触っては火傷をする! これを使うのだ!」
そうしてガブリール元魔法博士が運転席から投げたものを、悠平はキャッチしていた。
「白い手袋?」
「なにを隠そう、私の魔法講演会の際に使っていた物だ! 正直つけてもつけていなくても意味はなかったがな! そもそも私の――」
「助かったぜ、なんとか元魔法博士!」
悠平はそれを両手に装着すると、車の後ろに両手を添え、腰を落として一気に力を込める。
ガブリール元魔法博士は運転席でタイヤを操作して方向を調整しながら、ゆっくりと、車は前進を始めた。
「凄い、凄いぞ筋肉少年! なんて力だ!」
「はっはっは! 逆にこれくらいしか取り柄もないからな!」
使い魔であるゴリラの腕力を頼ろうにも、まだまだ彼を制御し切れているとは言えず、結局は己の腕のみが頼りだ。
直射日光を背に浴び、汗をだくだくと流す悠平は、懸命に車を押し続ける。途中自動販売機があれば、ガブリール元魔法博士が水を購入し、水分補給もきちんと行う。
「あーさすがにキツいかもな、これは……」
出だしこそ順調であったが、一トン弱の物を押すのは、やはり負担は相当なものだ。せめてこの太陽や灼熱の気温さえどうにかなってくれればと、心の底から思う悠平であった。
しかし、家では身体も満足に動かせないでいるであろう妹が、待っているのだ。それを思えば、自分のこの辛さなど、まだまだ楽なものなのだろうと、悠平は踏ん張る。
「――悠平の兄貴! どうしたんですか!?」
そんな悠平に声をかけてきたのは、近所に住む夏休み中の年下の男の子だった。中学生で、子どもの頃から悠平の顔見知りでもあった。
「おお、お前か! 悪いちょっと手伝ってくれないか!?」
「良いっすよ! 兄貴に憧れて、俺だって普段から身体を鍛えているんですから! みんな! ちょっとこっち来いよ!」
幸運なことに、近所の知り合いの男の子は、同じ中学校の友人たちと遊んでいる最中だったと言う。そんな友人たちも男の子は呼び、車を押す人員は数名に膨れ上がった。
数名の男が一台の車を押す光景は、閑静な都会の住宅街の中ではよく目立った。
それは、自転車に乗っていた都内の普通科の、これまた夏休み中の女子高生の二人組が、一時停車をして、SNSに上げるように写真を撮ろうとするほどには。
「ちょっ、待って! あれって、ガブリール魔法博士様じゃない!?」
「うっそ!? こんなところで!?」
自分のことに気付いた様子の女性陣を見つけたガブリール元魔法博士は、すかさず運転席から顔を出した。
「すまないレディたち! 車を押すのを手伝ってはくれないだろうか!? お礼に握手とサインをあげようではないか!」
「は、はい!」
「そちらのマダムも。恥ずかしがってないで、さあ!」
「ガブリール様!?」
お得意のトーク力で、ガブリール元魔法博士も通り過ぎる人を呼ぶ。
その他にも、なにか面白そうだからとついて来る者まで現れ、次第にノア・ガブリール元魔法博士の車を先頭に人の列が出来上がり始める。閑静な住宅街に集結しつつある人々。まるで歩行者天国や、なにかの行進パレードのような事態となっている。
幸いにもラッパを吹く者までは現れなかったが、家にいる人も何事かと窓から道路の様子を見守っていた。
「進め諸君! 目的地は、もうすぐそこだ!」
「こんなに集まるなんて、すっげーな……!」
悠平は列の先頭で、車を押し続けていた。
※
一方、そんな大所帯が迫ってきているなど夢にも思っていない結衣は、帳家の中で目を覚ました。
なにか、地震に似た震動を感じる。そして聞こえる、大勢の人の鬨の声。
「うー……。関節が痛すぎる……」
せめて部屋の掃除などをしてやりたかったが、それすらも行えないほどの熱におかされていた結衣は、跳ねた桃色の髪を揺らし、リビングまでとぼとぼと歩いてくる。
「なんか外が騒がしいんだけど……」
閉め切っていたカーテンを開け、道路の方を見てみると、結衣は絶句する。
人の海が、つい先程までは静かだった住宅街を練り歩いている。まるでコンサートライブのドーム会場前に並んだ行列のように、所狭しとぎゅうぎゅうの行列を作っているのだ。しかも、この灼熱の天気の中で。
「この人員の誘導も出来ないなんて、スタッフは素人なのかしら……じゃあなくて! なにこれ!? なんなのこの人の数っ!」
風邪菌など吹き飛ばすほどの勢いで驚いた結衣は、咄嗟にカーテンを閉める。
そして振り向くと、マスクをつけたシア・ガブリールがぼうっとした表情で立っていた。
「お祭りしてるの? ……行きたい」
「駄目に決まってるでしょ!? 部屋行って寝てなさい!」
結衣は急いでシアの汗で湿っている背中を押す。あとで着替えを持っていかなければ。
「うーん。でも、これ以上寝ちゃうと、また大きくなっちゃうよ?」
「嫌味かっ! もうこの際どんどん大きくなっていいから、今は寝てなさい!」
そうしてシアを部屋の中へ押し返し、結衣は改めて閉じたカーテンから、そっと外を覗いてみる。
「うわぁ……」
間違いない。自宅の家のすぐ前で、人々の軍団は止まっている。
いったい何事かと、結衣は恐怖すら感じ、カーテンをそっと閉じる。
「ば、バリケードとか作った方がいいのかな!?」
ここはもう、大切な自分の家でもある。そんな家を壊されてしまうわけにはいかない。
焦る結衣は、恐る恐る廊下に進み出て、玄関へ向け魔法式を展開する。なにが入ってきても良いように、即攻撃魔法を放つ構えだ。
動悸が激しくなり、廊下特有の寒気すらも感じる。
ごくりと息を呑む結衣の赤い視線の先、玄関にて、いよいよ電子ロックが解除されてしまう。
ドアが自動でスライドした途端、飛び込んでくる人影があった。
「会いたかった、会いたかったぞシア――っ!」
「消えなさいこの変態っ! 《シュラーク》っ!」
「ホワイ!?」
力任せに放った攻撃魔法の槍は、正体不明の侵入者に向け、真っ直ぐ放たれた。
腹部に槍の直撃を受けた侵入者は、身体を吹き飛ばされ、悲鳴と共に玄関の外まで吹き飛ばされていた。それこそ、ガブリール元魔法博士である。
布団に再び寝かしつけられた結衣は、悠平が買ってきた冷えピタをおでこに当てられ、熱でなく恥ずかしさで顔を真っ赤にしていた。
「私も私だったけど、なにしてんのよ、お兄ちゃん……」
「みんな協力してくれたんだ。悪い人たちじゃないって」
「そうだけどそうじゃないよ……はぁ……」
「はっはっは!」
今でも家のすぐ外では、ガブリール元魔法博士が協力してくれた人たちへのお礼のため、サインと握手をこなしている。住宅街を埋め尽くすほどに膨れ上がった人の群れは、連絡を受けた帳の会社の役員たちが緊急出動し、上手く誘導や、熱中症対策を行っていた。さすがは、イベント事には慣れている、結衣の顔馴染みのスタッフたちでもあった。
帳家の遺伝子だろうか、父親である社長譲りのお気楽さで大らかに微笑む悠平に、結衣もまた慣れた様子でため息を零す。
……暑い中、頑張ってくれた大事な兄に、今は感謝しなければ。
「おっ。どうやら峠は越えてくれたようだな」
結衣が計っていた体温を確認し、悠平もようやくほっと一息ついていた。大量の汗を流した身体は汗ばんでおり、一刻も早くシャワーを浴びたがっていた。
「あんなことあったら風邪なんか吹き飛んじゃうってば」
「よし。じゃあなにか食いたいものはあるか? 一通り食材は買ってきたぞ」
「うーん。うどんもだけど。今はちょっと、甘いものが食べたいかも」
「……ま、まじか甘いものか……」
悠平は困った様子で、短めの髪をぽりぽりとかく。
しかし、前向きに物事は考え、悠平は座っていた椅子から立ち上がった。
「小野寺ならなにか作り方、知ってるかもな」
「我が儘言ってごめんね、お兄ちゃん」
「良いって。任せとけ」
悠平はにこっと笑ってから、部屋の外にである。
すると、物凄く疲れ果てた様子で、ガブリール元魔法博士が廊下をとぼとぼと歩いている場面に出くわす。足を引きずる姿は、自分が車を押していた時のようであった。
「大丈夫か? なんとか元魔法博士」
「が、ガブリールだ筋肉少年よ……。さすがにこの私も、炎天下の下でのサイン会は堪えるぞ……」
「いや、あの絶対に一台の車を押すには不必要すぎな人の群れはアンタが集めたんだろ……」
「――大丈夫、お兄ちゃん?」
そんなガブリール元魔法博士に声をかけたのは、こちらもだいぶ熱が下がってきた様子の、シア・ガブリールであった。
シアの姿を見るなり、ガブリール元魔法博士はまるで砂漠の中のオアシスを見つけたように、彼女に飛びついた。
「ああシアよ! 愛しの我が妹よ! 具合はどうだ!?」
「治ってきたけど、苦しい……」
「はっ、すまない! ご飯にしようか。なにか食べたいものはないだろうか!?」
「おうどん、魅惑のジャパニーズフードと、甘いものかな……」
「フハハハ! 任せたまえ!」
聞いていただろう!? と、 ガブリール元魔法博士は悠平を見やる。
似たもの同士、と言う言葉が脳裏に浮かんできた悠平は、首を咄嗟に左右に振っていた。
「なんだろうな。弱っている家族を見ると、なにかでもその人の為になりたいって思っちゃうのかもな」
「それでこそ家族というものだ筋肉少年よ! そして、最愛の妹というものだ!」
「はっはっは。アンタのはやりすぎだと思うんだけどな」
そうして苦笑していると、小野寺からの返信はあった。
【自分でよければ力になります】とのことだ。
よし、と悠平はガブリール元魔法博士に緑色の視線を送る。
「なんとか元魔法博士。今度はキッチンでアンタのその、人を笑顔にするって魔法の力、見せてくれないか?」
「任せたまえ! この私、例え引退したとしてもその手の感覚は衰えてはいないはずだ!」
「シアはまだ寝ててくれよな? 本調子じゃないんだし」
「はーい。ありがとう、二人組のお兄ちゃん」
冷えピタをおでこに貼ったままシアは大人しく振り返り、結衣の寝る部屋に行こうとしかけたが、今度は大人しく用意された自分の部屋へと向かっていった。
「さあ行こうか筋肉少年。料理は魔法だ!」
「はっはっは! そんな言葉、聞いた事ないけどな」
「次の著書は、魔法の料理本にする気でいる!」
「金稼ぎに抜け目ないんだな……」
完璧な主観ですが、同年代目線で言えば、もしもキャラクターが実在したら一番モテるのはおそらく悠平くんな気がします。




