1 ☆
マンハッタンで起きた暴動事件は、今では戦後から続いた友好関係も曖昧になり、遠く離れてしまった東の果ての島国、日本にも報道があった。基本的に、他国で起きた事件など、この魔法世界ではあまり報道されることはなくなったが、世界の平和と秩序を守るとされている国際魔法教会の本部がある地での暴動事件は、テレビ局的にもこの魔法世界に住む視聴者の関心を集めると踏んで、局を挙げての一大報道合戦だったようだ。
果たして、魔法大国で起きた前代未聞の大きな暴動に対し、世間の関心も高かったようだ。市街地に浮かぶホログラム掲示板も、繰り返し【マンハッタン暴動】に関するニュースが多くを占めており、道行く人も立ち止まってはそのニュースを眺めている。
日本の現在の総理大臣である薺紗愛は、アメリカに対し出来る限りの支援をすることを約束した。そして同時に、日本が同じ悲劇に見舞われないように、魔法大国化計画を出来るだけ慎重に行うことを宣言する。
魔術師と、そうではない人が生きる、この魔法世界。゛捕食者゛と言う、人を喰らう怪物が棲息するこの魔法世界。数々の問題を抱えながらも、その中で日本は着実に、魔法世界の一部へと溶け入るべく、時計の針を回し続ける。 ――例えそれが狂った秒針だったとしても、薺は油をさし続ける。革命の果てに辿り着く場所が、暗雲に包まれていたとしても。
「この魔法世界に生まれた私たちは、手を取り合い、進み続けなければなりません。どうかご安心を。国際魔法教会がある限り、我が国の、世界の人類の安泰は約束されています。道はただ一つ。国際魔法教会と共に」
――迷い無き力強い口調で、薺の演説は、全国へと響き渡る。
※
『――マンハッタンで倒壊した建物は、現地の魔術師の扱う魔法によって、なんと数時間で修復されているそうですよ! 魔法の力ってやっぱり凄いですねっ。私も三一才未満なので一応魔法が使えますが、やっぱり゛魔術師゛さんの使う魔法とは比べ物になりません。魔法を専門に学ぶ魔法生さんに、期待ですねっ!』
とある家のリビングのテレビで流れている、朝のニュース番組では、局内で寝起きしたであろう女子アナウンサーが、朝を迎えた人々に対し、明るい笑顔を振り撒いている。人が室内で耐えなくてはならない長い夜を乗り越えた頑張りを、癒すかのように。
『それでは、今日もあのコーナーのお時間ですっ! 私が大好きなお花たち! 花言葉紹介のコーナーっ!』
番組のセットが花に包まれると、女子アナウンサーも幸せそうな笑顔を見せる。
『今日のお花は桃の花! 桃にもお花があるって、皆さん知ってましたか!? 桃の花は昨日紹介した桜の花によく似ていて、私も間違えちゃいます! 桃の華の花言葉は、天下無敵、チャーミング、私はあなたの虜、です――!』
「――あれ、母ちゃん、昨日の残りのカレーは?」
目覚めを迎えた家の住人が、ぽりぽりと背中をかきながら、冷蔵庫の中をくまなく見渡している。寝起きだからかぼさぼさの茶髪に、魔素の影響で人体に変化が起きたとされる象徴である、緑色の瞳。
この春から高校二年生となった、゛魔法が使えるごく普通の男子高生゛、帳悠平だ。
「悪いな、悠平。あれは真夜中、母ちゃんが全部食った! ゛捕食者゛みたいにっ!」
リビングから帰って来た返答は、この家の中で誰よりも早く起きていた母親のもの。
帳の母親は、明るく活発的な女性であった。朝も早いと言うのに元気はつらつで、エプロン姿には結んだ長い髪がよく似合っている。もう少し若い頃は、小学校の運動会にも保護者参加の部で全力を尽くすようなタイプだ。
「アッハッハ! 今トーストと卵焼き作ってあげるから、ちょっと待ちなさい」
腰に両手をつけ、母親は豪快に笑い飛ばしている。
「ハッハッハ。朝っぱらから笑えない冗談をどうもだぜ。二つの意味で……」
大きなあくびをしながら、同級生男子のそれと比べて少し大きな身体を、帳は伸ばす。
魔法が使えない世代である、帳たち高校生の親世代。彼らは混乱の時代でどうにか生き残り、こうして家庭を持っているのだ。
しかしその中でも、帳の母親は少し特別な存在だと言えよう。
「アッハッハ! 新生活を迎える悠平の為に、頑張って美味いもん作らないとね!」
母親が帳一家になる前の旧姓は太刀野。それは都内にある゛太刀野孤児院゛の名の元となっている。夜の時間にだけ現れ、人を喰らう゛捕食者゛によって親を失った子や、゛捕食者゛によって生活が困難になり、親に見捨てられた子供。そんな子供たちを預かっている施設の経営者の一家だった。帳の父親である今の旦那と結婚した際に、孤児院経営の一線からは引き、今は施設の名誉なんたらの役職だそうだ。
かつては孤児院で多くの孤児たちに見せていたであろう料理の腕を、今では帳家の食卓で見せているのだ。
「食ったら食った分、運動よ! 悠平! ちゃんと日課にしてる!? 男は身体が大事!」
「分かってるよ。腹筋腕立てスクワット。やらなきゃゲームやらしてくれないし」
「それでよし!」
子供の頃から言われ、すっかり今ではやらないと気がすまないレベルにまで洗脳されてしまった帳は、フォークでウインナーを食う。
「って言うか、それ親父にも言ってやれって。親父の腹、そろそろヤバイぜ? 夢と希望が詰まってるって」
「あの人の事は、もう、お母さん諦めてるから……」
「さらっと家庭崩壊の危機を聞いちまった気がするっ!」
神妙な顔立ちになっておでこに手を添えていた母親に、帳がツッコんでいた。
「ワッハッハ! おはよう!」
噂をすればなんとやら。父親が階段から降りてきて、豪快な笑い声を上げている。
「アッハッハ! おはよう!」
「ハッハッハ。おはよう」
この光景を見れば、しばらく帳家は安泰だろう。笑い声の三重奏で、帳家の朝は始まるのだ。ヴィザリウス魔法学園の寮生活が続いていたため、春休みに実家に帰っていた帳にすれば、懐かしい光景ではある。騒音極まりないが。
最近出てきたお腹を特に気にはしていない帳の父親は、芸能事務所の社長と言う、有り体に言えば偉い人ではあった。そんな偉大さもそこまで感じさせない寝間着姿のまま、帳の父親は息子の目の前のテーブル席に座る。
「悠平! お前も今日から高校二年生か!」
「ああ、そうだぜ」
「そうかそうか! 男子高校二年生ともなれば、あれだな!」
「あれって?」
母親によって運ばれてきたトーストを丸かじりしながら、帳は父親を見つめる。
「義理の妹が出来ないとな!」
「ぶは――っ」
口に入れていたトーストを盛大に吐き出し、それが父親の顔にまで吹き飛ぶ。
「アッハッハ! 驚きすぎ悠平!」
母親は知っていたのだろうか、いや、今はそれよりも――、
「げほっ、げほっ。いや、男子が高校二年生になると義理の妹って出来るもんなのか!?」
「高確率でな。システムと言ってもいい」
「初耳だ聞いたことねえ! なんだそのシステム!」
息子の反応が満足だったのか、ワッハッハと笑い声をあげながら、帳の父親は満面の笑みで顔をタオルで拭く。
「と言うわけで、義理の妹が出来るぞ悠平!」
「やべえ! 理解が追いつかねえ! 義理の妹が出来るのって男子高校二年生の春の普通なのか!?」
「そして、お父さんとお母さんはこれから突然海外旅行に行く! これも男子高校二年生に結構よくある!」
「よく分かんねえけどなんかこれ以上この流れ掘り下げたらヤバイ気がする! 本当よく分かんねえけど!」
「実はもう玄関の前に来ていたりする! 少し寝坊して待たせてしまった!」
「もう勘弁してくれ親父ーっ!」
「アッハッハ! はい、卵焼き完成ーっ!」
桜の花びらが舞い散る中、帳家の豪快な笑い声は、つい先程までは怪物が蠢く夜の世界のはずだった、平和な東京の朝に、響き渡る。
※
帳家の家の前には、一台の車が停まっていた。すでにボンネットの上には桜の花びらが装飾のように盛大に乗っかっており、長時間待たされていたのだろう。
「帳社長遅いなあ……。優しいんだけどどっか抜けてるんだよねー。せっかく早寝早起きしたのに。もー……」
運転席ではスーツ姿の女性が、帳家の家を眺めては口を膨らませる。自動運転が出来るので、車が動いている間でもあまり握ることがなくなったハンドルに両手を乗せ、だらしなく寄りかかるのは、事務所の社長の送迎にはよくある状態だった。
しかし今日は、要人の配送のお仕事であった。
「気楽に待ちましょ。もう慣れっこですから」
その要人とは、綺麗な顔立ちをした少女であった。度の入っていない赤いフレームの伊達眼鏡をし、ヘアバンドで縛った桃色のツインテールは、肩に届くほど。前は腰まではあるほどの長い髪だったのだが、新生活を始めるにあたり、ばっさりと切った。自身の象徴的でもあったロングツインの髪を切ることは、それなりの決心が必要だったが、今では何でも新鮮な気持ちでいられる良き行為であったと感じている。
そして何よりも。この新しい髪型も、わざわざ掛けている眼鏡も、過去の自分の姿を隠すため。封印したい過去ではなく、むしろ少女にとってそれは華々しい栄光の過去であったのだが、それ故やむ無しである。
この春からヴィザリウス魔法学園の一学年生の証である赤いリボンを胸元に、ヴィザリウス魔法学園の制服姿の、帳家の義理の妹となる少女は、それこそ情熱的な赤い瞳を、帳の家へと後部座席より向けていた。
「ふふ。相変わらずどんな姿でも可愛いんだから」
後部座席の少女の本当の姿を知っている女性社員は、バックミラー越しに微笑む。
「うちの会社としても貴女にはとてもお世話になったし、社員一同、我が娘を送る気分なのよ。なんだか寂しい……」
「これからもちょくちょく遊びに伺っても良いですか?」
「勿論っ! 社員総出でお迎えするわ!」
「嬉しいです。私にとっても大事であり、大切な場所でしたから」
現役時代からも礼儀正しいと、評判だった少女は、にこやかに微笑む。長い冬が終わり、春が訪れ暖かくなった街の中でも、少女の笑顔はひときわ温かく、輝いても見えた。
「そう言えば、ちょっと背伸びた?」
「は、はい。頑張って早寝早起きして、牛乳もたくさん飲んで、運動もいつも以上に頑張りました。……結局胸はそこまで大きくならなかったけど……」
ベルトに挟んで主張された二つの膨らみを、どこか面白くなさそうに見つめ、少女は呟く。
新生活への気合いと言うよりは、完全に恋する乙女の努力のそれだが、何か思うことがあるのだろうかと、女性社員はあははと苦笑する。
「あっ、社長出てきた……って寝間着!?」
女性が目を見開いている先には、帳家の玄関から寝間着にサンダル姿で飛び出してくる、中年親父感満載の男性の姿があった。
「社長のご登場ね……」
「相変わらずですね……」
帳家のリビングにて、少女はお世話になる新たな家族たちへ向け、頭を深々下げる。
「帳悠平です。親父が悪かったな」
「ううん。これからよろしくね、お兄ちゃん」
少女が満を持したように、下げていた顔を勢いよく上げる。
「ハッハッハ。お兄ちゃん、か。結構恥ずかしいな」
「う……」
そこまで変わって見えるのだろうか。一応は顔見知りのはずなのに、目の前に立つ青年は茶色の髪をぽりぽりとかいて、豪快に笑っている。
「あ、あのっ。どっかで前に、会わなかったかな? とば……お兄ちゃん?」
「どっかで?」
「それも結構近い距離だった気がする!」
「ん……。ああ、もしかして君」
少女の顔をじっくりと見つめた後、帳が閃いたようにぽんと手を叩く。
「アイドルの――!」
「そう、アイドルの――!」
「桜ちゃんに似てるって言われない!?」
「それ私の後輩で今や私より売れてる娘っ!」
ずこっ、と少女がツッコミを入れる。
「あ、悪い……。って、アイドルが後輩?」
「ワッハッハ! 我が息子よ。この娘は魔法世界の元アイドル、太刀野桃華ちゃんだ」
スーツに着替えた帳の父親が、手を桃華へ向け、説明する。
「と、桃華ちゃん!? 髪切ったのか!? ロングツインテールのイメージがあったからさ」
「私の自己同一性ってロングツインテールだけだったの……?」
「アッハッハ! でも熱狂的なファンだった悠平にも分からないってなれば、これで魔法学園にも迷惑かけずに登校出来そうじゃんね?」
帳の母親が、桃華の両肩に手を添え、うんうんと意気込んでいる。
「そっか。もう高校生だもんな。ヴィザリウス魔法学園に来るのか」
「うん。私もそこで魔法を学びたいって思ったから。迷惑はかけないつもり」
「ワッハッハ! と言うわけでだ悠平。兄として、妹の事を頼むぞ!」
「だからまだ実感湧かねえんだよな……」
帳は義理の妹となった桃華を、改めて眺めていた。とりあえず、父親の会社の元専属アイドルだった少女が自分の家庭の仲間入りしたと言う事実を、呑み込もうとはしてみる。孤児院で育った桃華の事を鑑みれば、筋書きには納得がいくが。
「名前はどうするんだ? それはさすがに変えてるか」
「うん。私の今の名前は、帳結衣。名前はお兄ちゃんから少し分けて貰ったから、学園では偽名の結衣でよろしくお願いします」
「うっかり口滑らしそうで怖いけど、まあ、よろしく結衣」
兄となった帳悠平が手を伸ばし、妹となった結衣がその大きな手を見つめ、ぎゅっと握る。まだまだぎこちないのは、当然と言えば当然だ。
「うん。お世話になります、お兄ちゃん。ところで、゛あの人゛は、元気してる?」
結衣の言葉に、帳もすぐに思いつく。アイドル時代、結衣が世話になった男子のことだろう。
「おう。また怪我したみたいだけど、今頃入学式の準備手伝ってるだろうな」
「そっか……。会えるの、楽しみ」
今では無料でできる握手の手を離し、一呼吸おいて、帳は満足そうに二人を見つめている父親に向け、こう切り出すのであった。
「親父。相変わらずよく分かんねえ、ってことだけは前置きにして、一つ言いたいんだけどさ……」
「む? なんだ我が息子よ!?」
「こう言うイベントが起きるのってアイツの方な気がするんだけど!?」
「? お前はさっきから何を言ってるんだ悠平……?」
急にきょとんとする実の父親に対し、帳悠平は生まれてはじめて、手をあげそうになったそうな。
※
魔法世界の剣術士。それは、この魔法世界で魔法を扱う魔術師としてではなく、剣を扱う彼へ付けられた呼び名。ちょうど一年前の春には、その剣術士と言う呼び名は、侮蔑の言葉として使われていた。
一部を除き今となってそれは、ヴィザリウス魔法学園の象徴的な言葉となりつつあった。
「――へっくしょん!」
春風が心地よいヴィザリウス魔法学園の中庭。公園のような校内の中庭に植えられた、桜の花びらがひらひらと舞い散る中、春の陽気にやられたのかと、白い眼帯を付けた少年――剣術士は鼻をすする。
母親譲りの茶色の髪に、東洋人の血を色濃く残した顔立ちと、左側の黒い瞳。読んでいた本に桜の花びらのしおりをして、ぱたりと閉じ、芝の上に座ったまま大きく伸びをする。
「――今さらになって花粉症かしら?」
歩けば桜の花びらが舞い、後ろからやって来た銀色の髪の少女の姿を、華麗に彩る。
「天瀬くん」
「香月か」
やや大人びたようにも見える同級生少女の姿を視界に入れると、なぜだか自然とあくびが出たようで、天瀬誠次は口に手を添える。
「篠上さんがあなたを探しているわ。早く行ってあげて」
「えっ。あ、やばいな……。電子タブレット見てなかった」
技術力も進んでいたこの時代では、紙の媒体の本など珍しい部類だが、誠次は読書は専ら紙の本によるもので行うのだった。
「生徒会長の手伝いをしてたって聞いたけれど」
香月は座っている誠次を見下ろし、話を続ける。
「そうなんだ。香織先輩、この時期大変そうだったから」
「相変わらずのお人好しね……女子に対して……」
ジト目の香月はアメジスト色の瞳を、誠次の右目を覆う眼帯へ向ける。
「べ、別に女性だけにってわけじゃないぞ!」
「はいはい。朝ごはんはちゃんと食べたの?」
「いや……まだだけど」
香月は後ろ手に隠していた購買のサンドイッチとお茶のペットボトルを、戸惑う誠次に差し出す。
「そうだと思ってたから、どうぞ。ちゃんと食べて頂戴」
「ありがとう。篠上を待たせてるし、歩きながら食うよ」
香月の優しい気遣いに感謝しつつ、誠次は立ち上がる。
すると、香月は呆れ果てたように、三日月の髪留めがあるおでこに手を添える。
「ネクタイが曲がってるし、肩に桜の花びらがついてるわ……」
「あ、すっかりだらけてたな……」
「私が直すわ」
香月は右手を掲げて、魔法の発動に必要な魔法式を展開する素振りを見せる。
が、すぐに得意な魔法の発動を中止し、何を思ったのか誠次の目の前まで近づく。至近距離で香月を見れば、どこか大人びたようでも、やはり変わってないようにも見える。
「お得意な魔法使えば一瞬なのに……」
自分でやろうとしていた誠次の胸元にすぐに手を伸ばし、白い制服の青いネクタイを、香月は繊細な手つきで締め直していく。
「そうね。私は自分の使う魔法に絶対的な自信を持っているわ」
「相変わらずの謎の勝ち気だな……」
でも、実際にそうなのかもしれない。香月詩音ほど魔法の才能に優れた同い年を、誠次は知らなかった。いつもの無表情が一見ぶっきらぼうでも、本当は友だち思いで心優しく、気も遣えて、時に気高く強く、時にガラスのように弱く――。
「でも万が一手を滑らした場合、私が殺人の罪に問われる可能性があるから……仕方なく」
「自信あるんじゃないのか!?」
ぎゅっと、最後のひと結びで、香月は「出来た」と言い残し、誠次の肩に乗った桜の花びらを手ではらう。
「ありがとう香月」
ネクタイを締められ、春の陽気にやられていた身を引き締めた誠次は、香月に礼をする。
「いいわ。篠上さんを待たせているから、早く職員室前に行ってあげて」
「ああ」
サンドイッチを口に入れ、誠次は駆け足で、ヴィザリウス魔法学園の中庭を走っていく。変わらない思いを背負うその背中には、一つの剣を。前へと進み続ける意思を抱く腰には、一つの剣を。鞘に納めている間は分解しているレヴァテイン・弐を装備し、剣術士としての新学期が始まろうとしていた。
広大な面積を誇るヴィザリウス魔法学園の中央棟にある職員室前まで、誠次は辿り着く。入学式もそろそろ始まろうとしているに、呼び出しとは一体何事だろうかと思っていると、極めて不機嫌そうな学級委員の相方の姿が目に飛び込んでくる。
「遅いっ! 電子タブレット持ってる意味!」
「わ、悪かった! 一仕事終えた後だったからさ……」
申し訳なく後ろ髪をかく誠次の目の前に立つ少女、篠上綾奈は、新学期の始めと言うわけだろうか、気合いに満ち溢れているようだった。腰に両手を添え、黄色いリボンに束ねられた赤いポニーテールを不機嫌そうに揺らしている。
格好の悪い言い訳を述べてしまった誠次を、篠上は「まったくもう……」と呟きつつ、右目の容態を心配してくれる。
「右目、大丈夫そうなの?」
「ああ。クリシュティナが定期的に容態を確認してくれて、大丈夫そうだったら取っていいって。今はもう念のためぐらいだ」
「クリシュティナが、ねえ。……゛別にいいけど゛」
別にいいけど、と言う言葉の意味合いがよくわからず、誠次は首を傾げかけていた。
「もうすぐ新入生の入学式だろ? 用ってなんだ?」
「担任の林先生が呼んでたの。゛中二病眼帯男゛を呼べ、って、ね」
ふふんと篠上は、まるでこちらの身体をくすぐるような、悪戯心に満ちた可愛らしくも不敵な笑顔を見せる。
「な、なんて失礼な! これは別に俺が格好いいと思って付けてるわけじゃないぞ!? クリシュティナも看病の為だって言うから、仕方なく付けているんだ。本当、ちょっと格好いいと思ってずっと付けてるわけじゃないぞ!?」
「はいはい、分かった分かった」
「――朝っぱらから職員室の前でいちゃいちゃしてんじゃねーよ……。おしどり夫婦」
がらりと、職員室の扉が開かれ、中から担任教師である林政俊が、やれやれ顔でこちらを見ていた。
「だから、゛まだ゛夫婦じゃないですってばっ!」
「「まだ……?」」
「っ!?」
誠次と林が唖然とするが、篠上は赤いポニーテールをぶんぶんと左右に揺らし、必死の様子だ。
「それで林先生。俺と篠上を呼んで、どうしたんですか?」
もっとも、昨年から引き継いですでに学級委員となることが、゛どこのクラスよりも早く決まっている゛二人だ。学級委員として呼ばれたのであろうことに、違いはない。
普段は優秀でも、時々様子がおかしくなる篠上の前に立ち、誠次が林に訊いていた。
「おっ、それなんだがな、お前らも昨年の春にやったと思うが、先輩からの学園施設紹介、ってあっただろ?」
林はだらしなくズボンのポケットに手を入れ、髪をぼりぼりとかきながら言う。
「入学式の翌日にやったやつですね。二人組の先輩から、学園の施設を紹介されました」
「そうよそれ。あれ、今年お前らの番だから。2―Aの先輩である二人で、1―Aの初々しき後輩たちに、施設と設備を紹介するんだ」
鳴らした指をピンと向け、林は誠次と篠上に告げる。
「また急ですね……」
ようやく落ち着いた様子の篠上が、誠次の隣に立ち、林に困ったような顔を向ける。
「いやそれがよ。俺、また言い忘れてたんだ。……ってへ」
悪いな、と髪をかいている担任教師の前。雪の上で約束をした学級委員である二人は、 この先の二年間もきっとこの担任教師に振り回されるのであろうと、直感していた。
「それにしてもいやあ。お前らがまさか昨年から引き継いで学級委員やってくれるってのは、担任教師からしても助かるぜ。学級委員を一緒にやる約束ってのは前代未聞だが、お熱いことで結構」
「……っ」
「……!」
これには赤面し、しばし互いに顔を合わせられなかった。
入学式が行われている間、在校生は寮室待機となる。中央棟から男子寮棟と女子寮棟がある方角は同じなので、誠次と篠上は明日の計画を立てながら、共にそれぞれの部屋へと廊下を歩いて向かう。
「後輩、多そうだな」
窓の外に広がる光景を眺め、誠次は呟く。
桜色の光景の中、白と紺の制服を身に纏った、新入生たちが続々とヴィザリウス魔法学園の敷地を踏んでいる。個性豊かな顔立ちは皆一様に緊張しているようであり、昨年の自分を思い出さずにはいられない。
「入学式の直後、俺は八ノ夜理事長に剣を渡されたんだっけか」
「それで、詩音を助けたのよね」
篠上が誠次に身体を寄せ、言葉を続ける。
ふわりと漂う春の気配と、篠上の髪から漂う石鹸の心地よい香りを感じながら、誠次は頷く。
「そこから色々な事があったけど、みんなを守りたいと言うこの思いは、変わらない。この先もずっと」
「天瀬……」
篠上は誠次の横顔をじっと見つめ、同じく決意を込める。
「あの時、また一緒に学級委員やろうって言ってくれて、ありがとう。改めて、これからもよろしく天瀬。一緒に、頑張ろうね?」
首を少々傾けて言ってくる篠上に、誠次は気恥ずかしさを隠すように、頷いていた。
「それはこっちこそ。剣術士として俺は、みんなの魔法を借りて、みんなの為に俺の剣を使うよ」
窓から溢れる暖かい日の光を浴び、誠次は変わらない決意を込めていた。
※
めでたく入学式を迎えたヴィザリウス魔法学園には、大勢の新入生と、彼らの両親たちが、式のために訪れていた。それらは全て、例年の比ではなかった。
「はあ。新学期早々、私たちは部活があるなんて……」
「ついてないわ……」
新入生にとっては緊張の一日であるが、在校生にとってはクラス替えもなく、いまいちフレッシュな気分にはなりきれない。ましてや、新学期初日に部活動がある所は尚更だ。
その一つである女子水泳部の部員たちは、入学式が行われている最中の体育館を余所に、女子用プールがある更衣室へと向かう。
「あ、千尋ちゃん」
「皆さん、おはようございます」
一足先に更衣室におり、着替えを済ませていた少女は、本城千尋だ。緑色の目に、長い髪をツインテールで纏めあげている、この春から二学年生となった少女である。
「゛取材゛、終わったの?」
「もう……。あのような風になることは、聞いていませんでした……」
水泳部の友人の言葉に、ロッカーの前で鏡を見つめた千尋は、顔を赤らめる。
「それにしても足長くてスタイルいいし、いつ見ても千尋お嬢の水着姿は見惚れるわ……」
「天が授けたなんとやら、ってやつね」
二人の少女から競泳水着姿の身体をくまなく見られ、千尋は恥ずかしそうに身をよじらせる。
「おだてないで下さいませ……。わ、私は先に行っていますね?」
「「はーい」」
一足先にプールサイドへ向かった千尋を見送ると、続々と水泳部員たちがやって来る。各々個室へと向かい、ヴィザリウス魔法学園の白い競泳水着姿に慌ただしく着替える様子は、新学期を迎えても変わらない。
「――お、遅れましたっ!」
慌てた様子でやって来た、小麦色に肌を日焼けした少女が、女子更衣室のドアを開けて最後の入室を果たす。
彼女によって開いた自動ドアが閉まった直後、何かがドアの外から扉を悔しそうに叩いたような音がしたが、急いで個室へと駆け込んだ少女が気付くこともなかった。




