2 ☆
季節は巡り、六月を迎えた。ヴィザリウス魔法学園がある東京は例年通り梅雨入りとなり、晴天よりは曇天が多く見えるようになっていた。空気もじっとりしていて、なかなかに過ごしづらい。
夏服へと切り替わったヴィザリウス魔法学園の敷地内の草木も、連日の雨による水の雫を、新緑の葉から落としていく。
「そうか。一年生はもうすぐ林間学校か」
昼休み。冷房が効いているヴィザリウス魔法学園の談話室にて、誠次は「懐かしいな」と呟き、二人の後輩女子と話していた。
「山でキャンプなんて、喜ぶのは男子ぐらいじゃないですか?」
半分まで減ったピーチティーのグラスのストローをくちびるから離し、赤い眼鏡を掛けている帳結衣は旅のしおりとやらを”熱心に”読んでいる。まるで演劇用の台本を読むように、手慣れた仕草である。
「そうは言っても、何だかんだで楽しみそうだな、結衣」
「そ、それは……。……こう言う学校行事に行くの、初めてだから……」
ずばりと誠次に指摘され、クラスの学級委員が作ったのであろうお手製のしおりを口元に添えて、結衣は恥ずかしそうに縮こまる。現役時代は芸能活動が忙しく、きっとこのような学校行事に参加したことがないのだろう。
「きっと楽しい旅になる。友だちも出来ると思うぞ」
「し、失礼ですね、誠次先輩。友だちなら、ちゃんといます」
慌てて結衣は、隣の席に座る少女を横目で見る。
「――やったー。私、ウタヒメちゃんとお友だち」
GW明けにヴィザリウス魔法学園に転入してきた、シア・ガブリールである。新一年生の証である赤いリボンと、頭に乗せた大きな赤いリボンが特徴的な、ブロンドヘアーの英国少女だ。
「だから、学園でウタヒメ、って言うのやめてってば! ばれちゃうじゃない!」
「あ、ついうっかり。ごめんなさい」
シアは謝罪しながらも、次には何食わぬ顔でお菓子を頬張っている。時より見せる幸せそうなシアの表情は、怒る気も失せてしまうほどのほほんとしたものだ。
結衣はすっかり懐かれてしまったようで、本人も悪い気はしていないのか、それとも勝手についてくるのか、シアと一緒にいることが多くなっているようだ。口は悪いが、何だかんだで面倒見が良い彼女である。
「シアが転入してきたのは、俺も驚いた。お兄さんは元気そうか?」
「その節はどうも、ご迷惑をお掛けしました。お陰様で、兄は元気にやっています」
ぺこりと深くお辞儀をするシアに、誠次も「そ、そうか」と苦笑する他無い。
こうしてシアが一人の女の子として、日本の魔法学園に通えているのも、それを支えるノア・ガブリールという兄がいてくれるからだろう。シアもきちんと、ノアに恩義を感じているようだ。
「……でも、やっぱりこの制服は暑い。脱ぎたい」
シアは居心地が悪そうに、自分の夏服姿をじっと見つめている。
「脱ぐって、もう半袖じゃない。それ以上脱いだら、大変よ」
結衣はそんなことを言いつつ、ジト目で誠次を見てくる。
シアの身体つきを見つめていた誠次は、真っ赤に染まった顔を慌てて逸らし、緑茶の入ったグラスのストローを口に咥えていた。
「私は別に、平気。下着も着けてないし」
「「はっ!?」」
いよいよ誠次と結衣は声を合わせ、シアを凝視する。
「あれ? 何だか私、変な事を言ったみたい。微妙な空気」
「何感心してるのよ!? 誠次先輩も、シアを見ないっ!」
「見ないって言われても、視界に入る!」
「向こう向いてなさいよ!? どおりで体育の授業中、凄い勢いで揺れてるって思ってたら……!」
桃色の髪を逆立て、結衣は机を叩いてわちゃわちゃと言う。男女別に行われる体育なので、男子陣はそれを見ることができないでいたことだろう。
「何だか私、誠次先輩に見られちゃいけないみたい」
「近寄ろうとすんなっ! ……あと、誠次先輩はいつまでシアを凝視してるのよ!?」
両方の黒い瞳を限界まで細め、顔を逸らしながらも、誠次はシアをさりげなく見ようと頑張っていた。
「分かってるけど、す、吸い寄せられる……っ!」
「阿呆かーっ!」
結衣のツッコミを受け、誠次は渋々諦めて、手元にあった購入済みの【ガブリール魔法博士によるなんと素敵な魔法世界】の題の本を読み始める。
頭の先の方では、未だ続く二人の少女のやり取りが聞こえてくる。
「いい、シア? 若いうちからちゃんとブラは着けておかないと、垂れたり形が悪くなるんだからね?」
(結衣がそれを言うのか……?)
「ウタヒメちゃんがそれを言うの?」
心の中で誠次が思ったことを、見事にシアが代弁してしまっている。
「ど、どうせ私は貧相ですよ! でもそれとこれとは話は別!」
「でも小さいの、羨ましい。大きいと、重たい」
「ちんちくりん言うなっ!」
(今そこじゃないだろ……)
決して、決して(大事なことなので二回言うが)本が悪いというわけでもなく、内容が大して入ってこないまま、誠次はページを捲り、相変わらず心の中でツッコミを続ける。
「とにかく! 次の休み時間、女子寮棟の購買で下着買うわよ!」
「えー。私のこだわりが、無くなっちゃう」
「ノーパンノーブラのこだわりなんかいらないから!」
「人それぞれ……」
「誠次先輩は黙ってなさい」
「はいっ」
言葉を挟んだ誠次であったが、すぐさま結衣にぴしゃりと蓋をされ、上げようとしていた視線を落とす。
「そんなんじゃ将来が危ないわよ!」
「兄は、将来は剣を持った男の人のお嫁さんに行くように、言っていた」
「それ十中八九誠次先輩の事じゃないっ!」
「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
「お願いすんなっ!」
ぺこりと頭を下げるシアに、結衣のツッコミは止まらない。
(悠平、ガブリール元魔法博士。……俺はどうすればいい……)
全くもって本の内容が頭に入ってこないまま、誠次は内心で二人の少女の兄たちに助けを求めていた。
※
汚れ一つとしてない、真っ白な空の下。金髪のツインテール姿の本城千尋が、私服姿で都内の街中を歩く。降り続いた雨により、乾ききっていないコンクリートの上には、幾つかの水たまりが残ったままだった。
「お父様とお母様と久し振りのお出掛け、嬉しいです!」
くるりと振り向けば、休日を過ごす相手である両親が、にこやかな表情をして、横並びに歩いてくる。
「すまなかった千尋。結局、GWも忙しくて家に帰ることが出来なかった」
ハットを被り、シックな私服に身を包んだ父、本城直正が軽い謝罪をしてくる。直正は、日本において魔法が生まれてから出来た新たな省庁、魔法執行省の大臣を務めている。立場上家にいることの方が少なく、今日は久し振りに家に帰ってこれ、大切な家族と休日を謳歌しようとしていた。
「あなたったら。千尋にもお友だちはたくさんいます。もうこうして家族で出掛けると言う事を第一にするような年齢ではありませんよ」
そして、年中忙しい彼を支える良妻賢母が、本城五十鈴であった。ウェーブがかった華やかな茶髪のロングヘアーを揺らし、微笑んでいる。
「何を言うのですかお母様。確かにお友だちと一緒にお出掛けするのは楽しいですけど、これとそれとは別のことです」
街路樹の葉の上のカタツムリを見つけ、千尋はそれをじっと観察しながら、笑顔で二人に告げる。
「うむ。自慢の愛娘だ」
「魔法学園の四月のテストも、クラストップだったことのようですし、千尋にご褒美をあげませんとね」
「ありがとうございます!」
端から見ても、とても一般の家庭とは思えない佇まいを見せている三人のお出掛けは、周囲の目をそれなりに引いていた。
「でも、お父様は大変でしょうから、あまり無理はなさらないで下さい……」
日本における女性初の内閣総理大臣である薺紗愛を頂点としたピラミットの下で、国のために責務を行う大臣。その苦労とは、一般人である自分からすれば、想像も出来ないものだろう。
と、千尋は父親の体調を気遣っていた。
直正もまた、娘に心配をさせているという自覚はあり、オールバックの髪型の頭から取ったハットを、胸に添える。
「薺総理の考えることは、この国の魔法大国化。魔法の有用性を見出し、いち早く科学世界から魔法世界へと移り変わりを急いだ国家に比べ、この国は変革に慎重であった。この国がかつて得意とした科学技術を信じ続けた結果が、今のこの薺総理の強引な行動に繫がっているのだろうか……」
「昔の政府のしわ寄せが、今に回ってきたと言う事でしょうか」
千尋が尋ねるが、直正は顰めた顔のままであった。
「そうだとは思いたいが、今の薺総理を見ていると、過去の帳尻合わせと言うことだけで片付けられるような熱意の量ではない。まるで何かに取り憑かれているように、躍起になっていると言うべきか。……その豪気な姿勢こそが、今の支持率の高さに繫がっているというのであれば、それが国民の目線として頷くしか無いが」
「このような時代です……。みんな、強いリーダーが欲しいと思っているのでしょうか……」
千尋までもが視線を落としたところで、五十鈴がこほんと、周囲に聞こえる大きさの咳払いをする。
「あなた。今はこのようなお話をこの場でするべきではない気がします」
長年連れ添う聡明な妻にそう言われ、直正はバツが悪そうにハットを被り直していた。
「これは失礼。今は、家族サービスに精を出さねばな」
本城一家は、映画館にてリバイバル上映されていた映画を鑑賞し、アーケード商店街を歩いて行く。しっかりと屋根がある大通りを見上げれば、頭上を魚が泳ぐように進んでおり、自分は水の中にいるような気分だった。大好きな両親と一緒にいると言うこともあるだろうが、千尋にはそれが楽しかった。
「この季節の雨上がりは湿気が多くてムシムシして、汗をかくな」
「何かお飲み物でも飲みましょうか。千尋も」
「かしこまりました」
本城一家は、商店街沿いに建っていたコンビニエンスストアに入店する。
「――しゃーせー」
中ではロングポニーテール姿の若い女性スタッフが一人、品揃えをチェックしているところだった。
「どうも」
わざわざ言う必要は無いというのに、直正はハットを取りながら、店員に向かって優雅に一礼をし、店内を物色する。
「ど、どうも」
女性店員は突然の挨拶に驚き、しゃがんでいた姿勢から立ち上がり、ぺこりとお辞儀を返していた。
千尋はレモンティーの入ったペットボトルを冷却機から取り、セルフレジへと向かう。女性店員はこちらに背を向けたまま、何かの作業を行っている。
「くじ引きキャンペーン中……?」
電子マネーで商品を購入したところ、画面一杯にそのような表示が出て、千尋は首を傾げる。
「あ、ウチの店今キャンペーンやってるんですよ。たまにくじが引けるんです。よければどうぞ」
背後の女性店員からそう説明を受け、千尋は「はい」とルーレットボタンをタッチしてみる。
「ま、そんないいもんないから、期待はしないでね――」
「千葉ラビットパーク、ペアチケット……?」
「えっ!?」
千尋が引き当てたのは、千葉県にあるとあるテーマパークのチケットであった。普通に買えば、それは一万円は超えるほどの、高額なものである。
「ラビパのチケット。あ、当ておった……!」
大して期待はしないようにと言いかけていた女性店員は、千尋の目の前で輝く画面を見て、面食らう。
セルフレジからはすぐにチケットが発券され、千尋はそれを手に取ってみる。二枚あったチケットには、そのテーマパークのマスコットキャラクターである、帽子を被ったウサギがアニメーションプリントされている。マスコットキャラクターは平面のチケットをすいすいと歩き回り、こちらへ向け手招きしているようだ。
「いいなあー。ウチも彼氏と行きたかった」
「こんな凄いもの、本当に頂いて良いのでしょうか……」
「ま、お客さんが当てたんだし、お客さんの自由にどうぞ」
「相変わらずの幸運だな、千尋」
直正がやって来て、千尋を褒める。
「ここまで運が良いのは、罰当たりな気がします……」
千尋もまた、自身の強運に動揺しながら言う。
「運も実力の内だ。素直に喜びなさい。”篠上さんの娘さん”と共に行くのか?」
「男性と女性のペアチケットですので、行くのであれば殿方と、と言うことになりますね」
ペアチケットの装飾も工夫されており、チケットを二枚横に合わせると、キャラクターはチケット間を移動する。
「そうか。では、天瀬誠次くんとかな?」
微笑し、直正はそんなことを言ってくる。直正は天瀬誠次の事を男として、同じ学園に通う娘を持つ父親目線としても、存分に信頼しているようだ。
「も、もうお父様……。それは、誠次くんがよければ、ぜひとも一緒に行きたいですけれど……」
そこまで言いかけ、ふと思い出す。いつもならこう言う場合、真っ先に浮かぶ友人である篠上は、GWに誠次と一緒に出掛けた。
「……っ」
そんなことを思い出した千尋は、迷いを振り切るように首を左右に振り、チケットを見つめて頷く。
「誠次くんと一緒に、楽しみたいと思います!」
「おお、積極的だな。それでこそ我が娘だ」
直正は満足そうに笑っていた。
一方、そんな二人の会話を間近で聞いていた女性店員は、まさかと声を発する。
「誠次くんって、剣術士くんのこと!? もしかして、ヴィザ学の娘? やっばー! 私もヴィザ学だよ!」
まるで友だちと会うように、女性店員は明るくフレンドリーに接してくる。
「あ、そうでいらっしゃいましたか! 私は2-Aの本城千尋と申します」
「ウチは3-Cの相村佐代子。剣術士クンのこと言ってたからまさかって思ってたけど、そのまさかだったー。マジヤバ」
お嬢様とギャルと言う、対照的な女子高生の二人は、剣術士の存在を橋渡しに知り合う。
「あ、ってかヴィザ学新聞に載ってたよね!? 水泳部の人魚姫ちゃん!?」
「そ、その呼び名は勘弁してほしいです……」
千尋は顔を真っ赤に染めて、恥ずかしそうにツインテールの髪を振っていた。背後ではホログラムの魚が、千尋の頭上を優雅に泳いでいる。
「千尋の先輩と言うことになるのかな。千尋がお世話になっている。私は、父親の本城直正だ」
「い、いえいえ。お世話とか、そんな大層なことしてませんよ……」
堅苦しいほど礼儀正しい直正に、相村は困ったように、ポニーテールの髪をかいていた。
「お父さん、格好良いですね。どっかで見たことあるっぽいんだけどな……」
相村はくちびるに人差し指を添え、思い出すように首を傾げている。
「私は普段、魔法執行省の大臣として働いている。テレビで見覚えがあるのだろう」
「え、大臣……。よく分かんないけど、すっごい偉そう!」
相村はびっくり仰天したように、千尋と直正を交互に見つめる。
「有り体に言えば、君たち魔法生から見た私たち魔法執行省は、魔法に関した法案を取り扱い、魔法を使う魔術師たちのあり方を取り決める。君の言うとおり、”すっごい”偉い存在と言えるだろう」
相手に合わせて、その口調を変えて、話をする。それは直正が人格者であることと、長年の経験で培ってきた処世術とも言えるだろう。
「絵に描いたような理想なお父さん像だね。渋くて格好良いし」
「あ、ありがとうございます……」
相村に羨ましそうに言われ、千尋は恥ずかしそうに俯きながらも、否定はしなかった。
「プラスで運も良いとか、羨ましいなー。剣術士クンとデートかー。ウチも彼氏としたいー」
相村が嘆いていると、千尋の一つ隣のセルフレジで買い物をしていた母親の五十鈴が、クジを引いている。
「あら、こっちも当たりましたよ。千葉ラビットパークのペアチケット」
なんと、五十鈴も千尋と同じく、テーマパークのチケットを引き当てていた。
「へ、マジすかっ!?」
「お母様もですか!?」
「なるほど。千尋の強運は、五十鈴譲りと言うことか」
豪快に笑う直正の前、千尋と相村は呆気にとられていた。
「さすがにこれはあなた……私たちが行っても、楽しめるかと言われれば……」
「ああ。私も次の帰宅休暇がいつ取れるか、分からないしな」
そうですわ、と五十鈴はおもむろに、何か未知との遭遇を目の当たりにしているように呆然と立ち尽くしている相村へ、チケットを差し出す。
「千尋とお知り合いのよしみです。これは、貴女が使ってくださいませ」
「うえっ!? さすがに受け取れませんってば! なんか、なんとか法に違反しそうですし!」
慌てる相村は、直正が大臣であることから、特段詳しいわけでもなく、寧ろよく分からない分野である言葉を使ったようだが、当の直正はほくそ笑んでいる。
「問題ないよ。私たち魔法が使えない大人よりも、将来のこの国を支える若き魔術師に、どうか今を楽しんで欲しいのだ」
「相村先輩。遠慮なさらないで受け取ってくださいませんか?」
千尋からも懇願され、相村はぎこちなく頷きながら、五十鈴からチケットを受け取る。
「ありがとう、ございます……」
相村は直正と五十鈴へ向け、交互に頭を下げる。
そして最後には、にこりとしている千尋を見つめる。
「明日、学園で会おうね。本城千尋さん」
「千尋、で大丈夫ですよ」
「うん。ありがと」
相村とお店で別れ、千尋たちは再び商店街へ出る。
「予報では、またしばらく雨が続くそうですね。晴れてほしいのですけれど……」
家では普段一人で家庭を守る五十鈴は、少しだけのため息を溢し、空を見上げている。上空を優雅に泳ぐ魚の群れから覗く白い空に、僅かばかり灰色が混ざり始めている。
「そうですか……。どうせなら、雨のやむ日に誠次くんとお出掛けしたいです」
相村がくれたチケットケースに入ったチケットを大事に胸に添え、千尋は言っていた。
※
「んじゃ、私あがりまーす。お疲れ様でーす」
正午までのシフトを終え、相村はショップ店員用の制服姿から、ヴィザリウス魔法学園の夏服に着替え終え、店を出る。
「やぱっ。バリバリ雨降ってきてるじゃん……」
アーケード商店街の天井の映像に波紋を作る雨粒を見て、相村はため息を溢す。
それでも、悪いことだけじゃない。千尋のご両親から受け取ったテーマパークのチケットを、曇天を隠すように頭上で掲げる。
「千尋ちゃんのご両親さんの分まで、せっかくだから、ちゃんと楽しまなくちゃね」
その為の相手である自分の彼氏の姿を思い浮かべると、自然とニヤついてしまう。
「あ、ヤバ」
誰にも見られていない事を慌てて確認し、相村は魔法学園への帰路を急ぐ。多少の雨ならば、急いで行けば気にしない程度のものだろう。
しかし、アーケード商店街を抜けようとした矢先、雨は急に激しくなっていた。
「あちゃー。梅雨舐めてた……」
濡れてしまわないように、チケットを学生鞄へ入れ、相村は雨宿りをする。横髪を指先でくるくると絡ませながら、屋根の下に立つ。何重にも重なる水の雫が落ちる音を聞きながら、相村は車が道路を行き交う光景を見つめていた。
「紫陽花じゃん」
道路を挟んで反対側の花屋には、この時期満開を迎える紫陽花の花束が販売用に飾られていた。紫色と水色の綺麗な花束は、女子の目にはとても引き込まれるものがある。
「私も子供の頃、朝顔と勘違いして育てたっけ」
思い出す、自分の幼い頃。今日会った千尋と、彼女の父親の姿が、相村のとある記憶を呼び起こしていた。
風が吹き、激しい雨に打たれながらも、紫陽花は綺麗な花びらを咲かせている。
「あれ……? ちょっと、嘘でしょ……?」
自分の右目を伝う水の雫の存在に気づき、相村はその雫をそっと手で取る。
「ちょっ、嘘嘘!? さすがに、雨だよね……」
自分が流した涙を否定して、相村は両頬をぱんぱんと叩く。
「――雨は嫌ですね」
急に、背後から声を掛けられ、相村は少なからず驚く。状況も相まって、それは不意打ちに近かった。
「きゃっ、びびったー……」
鳴り響く心臓のまま振り向けば、そこには傘を差した女性が一人、立っていた。
見覚えはなかった。化粧は口紅を中心に濃く、髪の毛はボリュームのある長い黒髪。紫色のドレス姿は、このアーケード商店街の中では異様であり、付近を泳ぐ綺麗な魚の柄と比べれば、毒々しさを漂わせている。
「失礼。私は、こう言う者です」
艶やかな印象の女性は微笑み、相村へ向け一枚の名刺を差し出す。それは映画のパンフレットのような、分厚く大きなものだった。
「八仙花会会長、四季紫京香……」
「四季紫が苗字です。以後、お見知りおきを」
四季紫は相変わらずグロスの濃い口元を曲げ、微笑みながら頭を下げる。
「どうも……」
「怪しい者ではありませんよ?」
相村が心の中で第一に思っていた事を言われ、思わず身体を震わせる。
「八仙花会は悩める人たちを救う、みんなのための団体なのです。貴女も悩みがありましたら、是非私の元をお尋ね下さいね」
「え……悩みあるように見えます? 私」
「ええ」
まるで待ってましたと言わんばかりに、相村の疑問に対する四季紫の返答は早かった。
「貴女は今、とても悩める立場にいる。紫陽花の花言葉はご存知ですか?」
女性は魔法を発動し、道端に咲いていた紫陽花を地面から抜き、立ち尽くす相村の目の前に差し向ける。
「い、いえ……」
「一家団欒や、家族の結びつき、です」
「……っ」
相村は瞳を大きくし、すぐに伏せる。
四季紫には、それは想定内の反応だったようで、
「逆に悪い意味では、浮気性というものがありますね」
「私は、べつに……」
四季紫の言葉にそのまま吸い寄せられるように、傾いていた身体を正し、相村はそっぽを向く。
「うふふ。今はここまで」
四季紫は深く追求することもせず、俯く相村の横を通り過ぎていく。
「あ……」
紫色の背を追おうと思わず、自然と伸ばしかけた手。天井がないそこで冷たい雨に打たれ、相村は慌てて手を引っ込める。
四季紫の姿はみるみるうちに小さくなって行き、やがて道路を行き交う車のタイヤが雨粒をはじいた白い靄の彼方へ溶けるように、見えなくなっていく。
「……変な人」
渡されたパンフレット型の名刺をじっと見つめ、相村は呟く。名刺と八仙花会の活動紹介を合わせているようで、先ほどの四季紫京香は大きな写真で掲載されている。
「あの人……どっかで見覚えが……。思い出せない……」
ぼそりと呟き、顔を上げる。
雨は、激しさを増していた。商店街の天井を激しく打つ雨の音に紛れ、誰かの怒声のような声が、相村の頭の中で反響する。
道路を挟んだ向かいに建つ花屋の紫陽花は、激しい雨に負け、冷たいアスファルトの上で花びらを散らしていた。
~ロングヘアーの落とし物~
「大変です綾奈ちゃん!」
ちひろ
「どうしたの?」
あやな
「今水泳部の活動が終わったのですけど」
ちひろ
「帽子を被るために取り外していた髪が一つ見つからないんです!」
ちひろ
「大変じゃない!」
あやな
「どこに置いたの?」
あやな
「分かりません……」
ちひろ
「今は残っていた片っぽだけつけて、サイドテール状態なんです……」
ちひろ
「バランス悪そう!」
あやな
「こうなったら一緒に探すわ!」
あやな
「ありがとうございます綾奈ちゃん!」
ちひろ
「千尋の髪を見つけた人は、報告して頂戴!」
あやな
「さっき中庭で見た気がするぞ」
せいじ
「ちなみに落し物は職員室にな」
まさとし
「先生はせめてツッコみ役やってくれませんか」
そうすけ




