8
「スヴェン、ロイナス。お前たちが、俺の事を必要としているのであれば……。……誰かの期待には、応えたい……」
せいじ
スヴェンとロイナスが見つめ吠えた先に、そいつはいる。彼らが言うには、ギャラルホルンを携えし、人と敵対をしていた神、ヘイムダル。
しかし、誠次や香月、向原から見たそれは、ただの゛捕食者゛であった。
ただの、と言うと語弊があるように聞こえるが、実際にその通りなのだ。なんの変哲もない、夜にだけ出現し、屋外にいる人間を喰らう、異形の怪物である。
「ヘイムダル……! 場所は違えど、ここ会ったが百年目……貴様を討つ!」
スヴェンが勇んで言うが、手に持つのは鉄製らしきロングソードであり、魔法も使えないはずだ。そんな中で、゛捕食者゛と戦うなど、自殺行為に他ならないはずだ。
「スヴェン! やつに物理攻撃は効かないはずだ! よせ!」
誠次がスヴェンに向けて叫ぶ。
「何を仰っておるのですか、我が君! 我々の使命は神を討つことにあります!」
そう言うスヴェンに向けて、゛捕食者゛が背中の手を一斉に伸ばす。
「《プロト》!」
香月が咄嗟に防御魔法を発動し、゛捕食者゛からの攻撃から、スヴェンと誠次を守り切る。
香月の防御魔法を叩き割ろうと゛捕食者゛がラッシュ攻撃を行ってくる。
「何をするのです我が君!? ヘイムダルを討つ絶好のチャンスでしょうに!」
「無茶だ! 奴は゛捕食者゛だ! ただの人間では太刀討ちは出来ない!」
特攻しようとするスヴェンの腕を必死に掴み、誠次は彼を防御魔法の中に留まらせようとする。
しかし、おかしい。どこからどう見ても、今目の前に立ちはだかるのは゛捕食者゛のはずだ。ヘイムダルとやらの、ギャラルホルンと言うものも見当たらない。スヴェンやロイナスはどうやって、奴をヘイムダルだと錯覚しているのだろうか?
(……っ、まさか!)
そこで誠次は、先程までスヴェンとロイナスが香月の事を女神として見ていたことを、思い出す。
「スヴェン! お前から見て、ヘイムダルはどのような容姿だ!?」
「容姿ですと? 長髪で、眉目は秀麗であります。首には例のギャラルホルンを下げております」
「やはりか……!」
゛捕食者゛をはっきりと見つめているスヴェンに、誠次は確証を得る。
「スヴェン、ロイナス! 俺らが見えているヘイムダルの姿と、そちらが見ているヘイムダルの姿には、乖離がある! こちらから見たヘイムダルの姿は、原型を留めていない人を喰う化け物だ!」
「なんですと……」
スヴェンは言葉を失うように、誠次を唖然とした表情で見る。
「どういうことです、一体なぜ、見えるものが違うのですか?」
ロイナスも誠次とスヴェンの隣に立ち、同じようにロングソードを構える。
「それはわからないが、やはり時渡りが影響しているのだろう。スヴェン、ロイナス――!」
誠次は腰からもレヴァテイン・弐を引き抜き、それを既に右手で握っていたものと連結させ、後ろへ向けて振りはらう。
「お前たちは、周辺の敵兵を頼む。゛捕食者゛……いや、ヘイムダルは俺たちに任せてくれ」
「俺たち、とは……」
ロイナスがちらりと、視線を横へ向ければ、誠次の後ろに寄り添う女性の姿があった。その姿を見つめ、ロイナスは呟く。
「女、神……」
誠次が向けたレヴァテイン・弐に、香月が手を伸ばし、青い魔法式を展開する。
誠次がちらりと後ろを向けば、香月がこくりと頷く。それが合図となり、誠次は香月が展開した付加魔法の魔法式に、レヴァテイン・弐を突き入れた。
「ああ、我が君……」
因縁の相手であるヘイムダルを前にしても、スヴェンは感銘を受けるように、誠次と香月の姿を見つめてしまっていた。
「ま、まだ攻撃されています!」
香月が付加魔法をする為に、防御魔法が消えた瞬間を狙った゛捕食者゛の攻撃は、向原が代わりに防ぐ。彼女自身だって、゛捕食者゛と戦うのは初めてのことである。それにも関わらず、自分よりも年下の男の子と女の子は、゛捕食者゛を前にしても、怯んでいる様子はない。そのことに向原は驚いていた。
「我が君の邪魔はさせない! ロイナス! 露払いをするぞ!」
「心得ている! 将軍の覇道は、我々が支える!」
スヴェンとロイナスはロングソードを振るい、゛捕食者゛と共に戦う敵兵たちを次々と切り捨てて行く。
二人へ向けて、゛捕食者゛が腕を伸ばし、捕まえようとするが、スヴェンもロイナスも鎧を身に纏っているとは思えない軽い身のこなしで、その攻撃は躱す。
「セイジ! 出来た!」
しばしすると、香月が付加魔法完了の合図をする。
青い目を見開いた誠次は、レヴァテイン・弐を両手で握って、前へと向けて構える。
「ありがとう、香月!」
レヴァテイン・弐から伸びた青い光が、立ち尽くす゛捕食者゛へと向けられる。その光の行く先を見据える、青い目をした誠次は、寄り添う香月の前に立つ。
「゛捕食者゛……貴様たちが何者であろうが、人類の脅威に違いはない! 斬り捨てる!」
そう叫んだ誠次に触発されたか、゛捕食者゛は青い光を放つ誠次目掛けて、背中の腕を一斉に伸ばす。
迫りくるそれらを、誠次はレヴァテイン・弐から青い閃光を出力し、一網打尽に、斬り裂く。
身体と繋ぎ止められなくなった゛捕食者゛の腕たちは、誠次と香月の目の前で、イルミネーションの光に彩られる塵の一つとなって霧散していく。
「香月、向原先生を頼む」
「う、うん……でも、セイジ……」
不安そうな目で誠次を見つめる香月に、誠次は゛捕食者゛を睨んだまま、口角を上げて応える。
「安心してくれ。これより今から俺の後ろには、いかなる攻撃をも通させない!」
背中にいる守るべき人の熱と思いを感じながら、誠次は゛捕食者゛へ向けて突撃する。背中の武器をなくした゛捕食者゛は、接近する誠次を握り潰そうと腕を振るう。
両サイドから巨大な手の平を伸ばし、誠次を黒い手の中で抱こうとするが、゛捕食者゛の手のひらには、一瞬にして青い閃光が奔る。
ズタボロにされた゛捕食者゛の手のひらの中から、誠次は地面からジャンプをして飛び出し、一直線の青い線を描いて、゛捕食者゛の胴体を通過する。遅れて、゛捕食者゛の胴体に亀裂が奔り、彼の腕と同じように、香月の付加魔法を受けた誠次のレヴァテイン・弐によって、斬り裂かれていた。
「あのヘイムダルを、一撃で……」
「流石でございます、将軍。やはり我が軍には、あなたのお力が必要不可欠です」
誠次に両断され、黒い血のようなもの噴き出しながら、闇の中に溶けていく゛捕食者゛を見つつ、スヴェンとロイナスが誠次の背に声をかける。
「゛捕食者゛が、旧魔法世界にいた、神たちだと言うのか……」
誠次は消え行く゛捕食者゛の残滓をじっと見つめ、マフラーに包んだ口でそう呟いていた。
青く光る連結状態のレヴァテイン・弐を右手にしたまま、誠次は複雑すぎる感情を胸にしたまま、振り向いた。
「スヴェン、ロイナス。共に戦えて良かった。詳しく話を――」
赤いマフラーが風に揺れるが、振り向いた誠次の視線の先に、二人はいなくなってしまっていた。二人だけではなく、あれだけ多くいた兵士たちも、゛捕食者゛を討ち取った瞬間から、いなくなっていた。
「スヴェンは? ロイナス?」
「セイジ。彼ら、見えなくなって……」
「探さないと。過去の手がかりを――っ!」
「セイジ!」
切羽詰まった様子で香月が駆け寄ってきて、誠次は彼女を、空いている左手で受け止める。
「怖かった、とても……」
「……っ。ああ、もう大丈夫だ」
震える香月の頭の髪をやさしく撫でてやっていると、向原も、茫然自失したように、歩み寄ってくる。
「信じられません……。゛捕食者゛を倒したのですか……?」
「はい。しかしまだ、安心できるわけではありません。攫われた京都の人々を探さなければ」
香月の頭越しに誠次が言っていると、遠くの方から、車が何台もやってくる音が聞こえる。
ここからならば、木の上に登れば、渡月橋の方が見渡せる。誠次がそうやって確認をすると、ようやく特殊魔法治安維持組織が到着したようだ。
「良かった……。特殊魔法治安維持組織が到着したようです。これで、安心できる……」
誠次がそう言いながら木の枝から降りると、ふと、こちらを心配そうに見つめる香月の、更に奥にあった光景に、目が釘付けとなる。
向原と行動をし、彼女を導いた、香月に似た謎の少女だ。
彼女はこちらと視線を合わすと、やはりどこか悲しげな表情をして俯き、森の中へと入ろうとしてしまう。
「ま、待ってくれ! 君はもとの世界には帰らないのか!? 行かないでくれ! 話をっ!」
誠次が彼女を追いかけようとするが、彼女の姿はすぐに見えなくなる。
そうだ、付加魔法を使えば、彼女に追いつける――っ!
そう思い、誠次が右手に握ったままのレヴァテイン・弐に力を込めようとするが、出来なかった。
「っぐあ!? ま、また、頭が……!」
急に起きた頭痛により、誠次は左手で頭を押さえて、その場に膝をついてしまう。
「天瀬くん!?」
向原がどうしたのかと、誠次の背に手を添えようとしたが、それよりも先に、香月が駆け寄っていた。
「香月さ――」
「セイジ、約束してくれたのでしょう……? ずっと傍にいてくれるって……」
そうして、頭を押さえる誠次の身体に、そっと手を伸ばし、香月は背中を擦る。
向原は立ち止まり、二人の様子を後ろから、じっと見つめるに留まった。
やがて、落ち着きを取り戻した誠次は、香月の肩に手を添えて、立ち上がる。
「すまない香月……向原先生……」
「いいえ、大丈夫です。取り敢えず、特殊魔法治安維持組織も来てくださったので、落ち着けるところで、話しませんか?」
向原の提案に、誠次と香月は頷いていた。
京都に降る雪は、日が出ている頃に比べて、だいぶ冷たく、また強くなっているように感じた。人気のない古の街には、漆黒の空から降る白い雪の粉が、降り積もっていく。
嵐山に消えた人々は全員、特殊魔法治安維持組織によって山奥で発見された。誠次と向原も、遭難者の一人として、特殊魔法治安維持組織に保護されることとなる。香月は、《インビジブル》を使用して、誠次のレヴァテイン・弐と共に、特殊魔法治安維持組織からは発見されなかった。
「何してたんだ、俺たち……」
「今って、え、「夜!?」
「落ち着いてください皆さん! 特殊魔法治安維持組織の指示に従って、行動してください!」
特殊魔法治安維持組織の隊員たちが、夜に外に出ているという事実に慌てふためく人々を、安全な場所へと避難させている。暖かそうなブランケットを提供しつつ、嵐山近場の避難場所であるホテルへと誘導していた。
渡月橋には今、特殊魔法治安維持組織の隊員たちが発動した防御魔法による結界が張られている。そこを道行く人の列の中に、誠次と向原と、《インビジブル》化した香月もいた。
「……」
白い息を吐きながら、ふと上を見ると、防御魔法の半透明の障壁には、雪がしとしとと落ちていく光景がある。
それが嵐山に灯っていたイルミネーションに彩ろられた光景に重なるようにして見え、誠次はため息を零す。
まるで全てが、夢の中の出来事であったかのように。あっという間に、過去からの来訪者たちは、姿を消していた。障壁の間をすり抜けて落ちてきた一枚の雪の花びらが、誠次の髪にふわりと舞い、溶けていく。
(スヴェン、ロイナス……。幾億もの時を越えても尚、お前たちは救いを求めているのか……?)
かつて人の為にその力を使ったと言われるスルト。彼を求め、彼の力を求めて彷徨いやってきた者たちを思い、誠次は心の中で呟く。
「……」
誠次の隣を歩く香月は、誠次の横顔を、アメジスト色の瞳でじっと見つめていた。
嵐山が一望できるホテルでは、特殊魔法治安維持組織側がそこへ誘導した市民たちへ、事情聴取を行っていた。
嵐山に観光に行ったが、気がつけば夜になっていた。ヘイムダルによって操られていた人々から聴く証言は、どれも同じであった。彼らもまた、ヘイムダルの吹くギャラルホルンによって、未来へと誘われたと言うのだろうか。
「警察の方に、どう伝えましょう……? その、へいむだるさんが悪さをしていたって、伝えても信じてくださるかどうか……。って言うか、もうそんなことどころじゃないですよね……」
用意された客室のドアを境に、向原が言ってくる。当初の目的は彼女の言う通り、彼女と、香月に着せられた濡れ衣の解消の為だった。それがいつの間にか、自分自身と魔剣を纏わる大事にまでなっていたのだ。
「いいえ。向原先生の言うとおりです。武田さんには、俺がどうにか伝えますので、向原先生はヴィザリウス魔法学園側への説明と、香月のことをお願いします」
用意された部屋は二部屋のみ。嵐山で被害にあった人は軒並み家族やカップルばかりであったので、2つも部屋を確保してくれただけ、ありがたいものであった。誠次は男なので、一人部屋だ。今は部屋の中にいるという香月のことを向原に託しつつ、誠次が部屋を後にしようとした時だった。
「――やはりここにいましたか、向原さん、天瀬くん」
やって来たのは、京都府警の刑事、上杉であった。
「上杉さん。信じてくれないかもしれませんが――」
言葉に詰まる向原の前で、誠次が上杉に向けて話しだす。とても信じてもらえないだろうが、真実を言うしかない。
しかし、上杉は片手を軽く上げて、誠次の声を制していた。
「今回の件ですが、嵐山で消えていた人の中には、警察関係者の者もいました。その者からも曖昧な証言が繰り返されたことから、警察の方もこの件は魔法が深く関わっていると判断しました」
よって、と上杉は、誠次と向原を交互に見つめる。
「今回の件、我々警察は、特殊魔法治安維持組織に捜査活動権限を移譲します。一応、あなたがたも被害者でありますので、事情聴衆は受けるかもしれないことは伝えておきます」
「被害者って……」
向原の聞き返しに、上杉は頷く、
「ええ。あなた方も、魔法犯罪による被害者であると警察は判断いたしました。後のことは、特殊魔法治安維持組織に任せ、警察は今回の件から手を引きます。捜査協力には、感謝します」
上杉はそう言って頭を軽く下げる。そうして、向原から通信機を返却して貰いながら、最後に、誠次をちらりと見た。
「天瀬誠次くん。武田さんからの伝言です。ようやった、と伝えてほしいとのことで、お伝えしました」
「は、はい」
「……あと、私からも。諦めずに、最後まで先生の無実を信じて行動をした君の活躍は、個人的には称賛に値されるべきだと思います。良い生徒をお持ちになりましたね、向原先生」
「直属の生徒ではありませんが、ヴィザリウスの魔法生はみんな、いい子なんです。そんな人たちに、私は魔法を教えたくて、教師になったんです」
向原がそう言えば、上杉はなるほどと頷き、ほんの少しだけ、申し訳のなさそうな表情をしていた。
しかし、次には襟を正す。
「では、失礼いたします。メリークリスマス」
「お、お疲れ様でした。メリークリスマス」
「あ、ありがとうございました。メリークリスマス」
彼なりのクリスマスプレゼント、と言うものだろうか。いい慣れてはいない様子の単語を挨拶に、上杉は踵を返していた。
誠次と向原も、ただでさえ修学旅行中であり、その中で大きな騒動に巻き込まれていたので、今日がクリスマスであるということを、時々忘れかけていた。それが今、上杉の言葉によってほんのりと、思い出したところだ。
上杉の背を見送った二人は、次にはお互いに視線を合わせ、喜びを分かち合わずにはいられなかった。
「やった、やりましたね!」
「ええ。よかったです!」
向原と誠次は、小躍りをする勢いで、手の平を添え合っていた。
そうして互いの手を握り合っていると、互いに恥ずかしさも思い始め、向原がささっと手を引いていた。
「ほ、ほんとうにありがとうございました。天瀬くん。学園側への説明は、私に任せてください。今日一日丸々、私と香月さんの為に力を尽くしてご恩は、決して忘れません」
「い、いえ、とんでもありません。向原先生が、俺たち魔法生を信じてくれたからこそです」
心の底から安堵する向原に、誠次も微笑んでいた。
「メリークリスマス、天瀬くん。どうかゆっくり、休んでください」
「メリークリスマス、向原先生。先生こそ、おやすみなさい」
他の教師や魔法生が寝泊まる場所とは遠く離れた嵐山付近のホテルの部屋玄関で、誠次と向原は忘れかけていたクリスマスの挨拶を交わしていた。
「……」
最後に、部屋の奥で休んでいるのであろう香月の事を思いながら、誠次は振り向いて自分の部屋へと帰っていった。
玄関で別れ、彼の背を廊下から見えなくなるまで見送っていた向原は、部屋の中へと帰っていく。一息はつけるが、やることはまだまだ山積みだ。自分と誠次と香月が他のホテルに宿泊すること。定時連絡は行っていたが、そこの説明を学年主任の林にしなければ。
「さて、どう説明しましょう……」
今日一日でともに行動した誠次と香月のことを守りながら、しかし適切な説明を、あの人にしなければならない。
ため息をつきながら、しかし仕方がないと己を納得させて、向原は林に連絡をした。
「もしもし、林さん――」
『お、向原か。今どこにいるんだ――?』
「ええっと、訳がありまして、今は2―Aの天瀬くんと香月さんと一緒に、嵐山近くのホテルに泊まっているんです」
『……』
誠次と香月の名を聞いた電話先の林に、やや妙な間があった。そうしてなぜか、よくは分からないが、向こうで微かな笑い声が聞こえた気がした。
「林さん?」
『あーなるほど……。わかった』
「な、なにがなるほど、なんですか?」
向原はわけがわからず、きょとんと首を傾げる。
『まあ良くやった、向原。お前も疲れたんだろうし、ゆっくり休んでくれ。明日の朝イチに帰ってくればいい』
「え、あの、ちょっと! お酒は慎んで――!」
向原が注意しようとすると、それよりも先に、林が返事をする。
『安心しろ飲んでねーよ。……そもそも、もうお前が近くにいない時は、飲めないしな』
「え、それってどう言う……」
『……いいから、こっちのことは俺たちに任せておけ。別に新米教師が一人いなくなったぐらいで、困りはしねーよ』
「な、なんて失礼なっ!」
相変わらず参考に出来ない先輩教師っぷりを発揮している林に、向原は職員室でのやり取りをそのままに、受話器越しでも繰り広げていた。
「それでは、見回りとか、お願いしますね……?」
『ああ、はよ寝ろ』
「まったくもう……お休みなさい」
通話を切り、はあと、大きなため息をつく向原。今の会話だけで、なぜか今日一番の疲れに似た何かを感じ、そっと机の上にある電子タブレットを見つめる。
「あの人は……だらしがないんだか、頼りになるんだか……」
「――向原先生」
部屋の奥にいたはずの香月が、声をかけてきて、向原は顔を上げる。
「ああ香月さん。もう大丈夫ですか? 私と同じ部屋ですが、窮屈はさせませんので、安心してくださいね」
「はい。ありがとうございます、向原先生」
「お礼を言うのは私の方ですよ。いつも冷静な貴女を、先生は見習わなくてはいけませんね」
とほほ、と向原は苦笑していた。
「林先生は、なんて言っていましたか?」
「それが不思議なんです。天瀬くんと香月さんと一緒に別の旅館で泊まると言っても、やけにすんなり納得してくれたと言いますか」
「……多分ですけれど、なんとなくその理由はわかる気がします。……天瀬くんが一緒だと、そう思われるんです、きっと」
「……」
微笑しながらそう言った香月の姿を、向原はぱちくりとした目で、見つめていた。
そして、何かを思い至ったように、左右、いや周囲をきょろきょろと見渡す。その最後に視線が行き着いた先は、香月詩音だった。
「……?」
きょとんと首を傾げる香月に、向原は少々照れながら、こんなことを提案した。
「あの、よければ少しお話しませんか? 積もった話も、ありますし」
外は雪が積もっている。そして今もしとしとと、白い雪は降り続いている。
香月に、首を横に降る理由は、今のところはなかった。
「――それでは、天瀬くんが夜間外出をした貴女を追いかけて、そこで出会ったのですか?」
「は、はい」
「意外です。香月さん、真面目そうなのに、そんなことをしていたなんて」
「昔の話です。一年以上前の、昔の……」
机を境に、暖房の効いた温かい客室の中で、香月と向原は会話をする。向原は先に部屋の中の風呂に入り、火照った身体でほくほくしてそうだ。
「てっきり私は、天瀬くんが少しだけ問題があるのだと、誤解していました……」
「彼は……天瀬くんは昔からずっと、みんなを助けてくれるような人です……」
「想像だけで話してしまうのは、いけないことですね……反省します」
向原はやや項垂れて、そう言う。
「……林先生こそ、見た目や態度は、少しあれなのですけれど、とても良い先生だと、私は思います」
言いづらそうだが、香月はどうにか上手い言葉を見つけつつ、そうぽつりと呟く。
「林先生が、ですか?」
向原の声音に感じる、少しだけの変化。しかし香月はそれを読み取り、適切な思いを、抱くようになっていた。
「はい。私や、天瀬くんのような、周りとは少し違う特殊な魔法生を受け持つクラスの担任なのですから、きっと普通の人ではありません」
「確かにあの人は、普通じゃありません。危なっかしいと言いますか、常識外れと言いますか……人の気も知らないで……」
ぶつぶつと、愚痴混じりに呟きだす向原である。
「そんな人を、一番近くで見ていたら、それを支えてあげたくなると言うことは、誰にだってあると思うのです。相手の気持ちが分かるからこそ、お互いをリスペクトし合って、わかり合う。それはきっと、大切なことなのだと、思います」
「……」
向原は目の前で座席の上に正座をして座る女性を、本当に年下なのだろうか、と言うような驚いた目で見つめていた。もしかして、彼女はまだ、入れ替わったままなのか。自分を渡月橋から導き、誠次と香月の元に合流させた、もう一人の少女の姿を思い出しつつ、向原は不思議に思う。
気がつけば、冷蔵庫にあったお酒の蓋が開いており、香月の許可ももらって、向原はそれを飲んでいた。林にはあれほど口うるさく言っていたはずが、緊張の糸が解けた途端、自分には甘くなってしまうのである。
「ごめんなさい……ついお酒、飲んでしまって……」
「大丈夫です。お気遣いなく」
香月も、客室のアメニティである温かいお茶を飲んでいる。
教師と生徒。ここでもまた、異質な組み合わせで、お互いに乾杯をしていた。
「支えてあげたくなる……。香月さんにとって、まさか、天瀬くんがそんなような人なのですか?」
ほんのりと頬を赤く染める向原が、訊く。
「彼には、魔法の力が必要ですから。……でもそれ以上に、向原先生が林先生に向けて思う気持ちと同じような、私もそんな思いなのだと思います」
「わ、私は別に、そんなんじゃありません!」
向原はオーバーなリアクションで否定して、お酒をぐびぐびと飲んでいく。
好きだが、特段強い方ではないのだろう。或いは、疲れで酔いが速く廻ってしまったのか。お酒の話である。
一缶空けただけで、向原は机に腕を伸ばして突っ伏し始め、相変わらず香月に愚痴るようにする。
「……私には、わかんないです……林さんが考えていることが……」
「男の人って、女の人の前だと、いつも格好つけたがりですから。決して本心を明かしてはくれないことの方が、多いんです。隠したがりなんです」
「……経験豊富なんですね、香月さんは」
「そ、そんな違います! 天瀬くんのことしか、わかりませんけど、きっとそのはずです……きっと」
慌てて弁明した香月はそう言って、手元のお茶が入った湯呑に、そっと紫色の視線を落とす。
「そんな相手を信じることが出来るのも、立派なことだと思います。普通だったら、赤の他人のことなんて信頼できずにいるままですから」
香月はそうして、胸に手を添える。
「信じ続けることは、時々疲れてしまうかもしれませんけれど、それでも。人間にしか出来ない、素晴らしいことだと思います」
「確かに、他人を信じる信じない、と言った感情は、生きてる人間だけのものですね……」
お酒の缶をつんと、人差し指で叩いて、向原は呟く。
「私はこんな当たり前のような感情を、でも大切にしたいんです……。殊勝なこと、すぎますかね?」
香月が不安そうに向原に尋ねるが、向原は顔をやや上げて、ぶんぶんと横に振るう。
「良いと思います。うん、とても。確かに信じることはときに疲れちゃいますけど、報われることもあります。女は度胸! 格好つけてばかりで、プライドの高い馬鹿な男を信じるのも、女の約目です!」
お酒に酔っている手前、向原の意見は全てが正しいことではないはずだ。
しかしそれでも、窓の外を白い雪が降り積もる中、想い人を思う二人の女子トークは、しばし続いていた。
それもやがて、終わりを迎えることになる。
「うう……飲み、しゅぎましたぁ……」
お酒の缶が足元にまで転がり始めれば、いよいよ向原は酩酊し、意識を保っていられなくなる。
今日一日とんだ目にあったのにこの有様であるが、香月からすればどちらかと言うと、同じ苦労を味わった身として、お疲れ様と言った感情の方が遥かに勝っていた。
よって、部屋に敷かれた掛け布団を持ってきて、それを机の上に突っ伏した向原の肩に、そっと掛けてやる。
「……おやすみなさい、向原先生」
起こさぬように、そっと向原に声をかけた香月は、静かに部屋を後にした。
※
同時刻、離れた客室にいた誠次は、部屋の窓の外から見える降り積もる雪と、空に光る三日月をじっと見つめていた。
「……」
思い悩み、考えることは積もっていく。それは雪のように軽くも、手で掬ってはらえるほど、柔らかいものでもない。
スルトと呼ばれた者を追い求め、古の時代よりやって来た、騎士たち。そして、゛捕食者゛と、香月に似た女神と呼ばれた謎の少女。
窓にそっと添えた手の平が、結露を纏って湿り気を帯び、誠次は全身が冷えるような感覚を味わう。
「――天瀬くん。いるの?」
ふと、部屋の外から、香月の声が聞こえる。
ふわふわと、何もない場所を漂っているようであった意識が急に覚醒し、誠次はすぐに振り向き、客室ドアまで向かっていた。
「香月か。ああ、どうしたんだ?」
ドアを開ける。
香月は私服姿のままで、通路に立っていた。あれから結構時間も経ち、てっきり風呂にも入って、すでに眠っているのかと思っていたが、そうではなかったようだ。
「入ってもいいかしら?」
「あ、ああ……。しかし、寝なくて平気なのか?」
「それはあなたもでしょ?」
香月がこちらの身体を見つめて言う。
誠次も誠次で、あれからコートを脱いだだけだの私服姿のままであった。脱いだコートやマフラーも、落ちついて整頓することが出来ず、部屋の中に無造作に置いてしまっているままだ。
――全てが手つかずだ。いろいろな意味で。
それが、今の誠次に相応しい言葉であった。
「た、確かに……」
「お邪魔するわ」
呆気にとられかける誠次がドアを支えたまま、目の前を通る香月は銀色の髪をなびかせ、誠次の客室の中へと入っていった。
~大人な男のアドバイス~
「剣術士、今晩は女と一緒か?」
まさとし
「そうですけど」
せいじ
「そうかそうか」
まさとし
「ほんじゃま、あれは買っとかないとな」
まさとし
「あれ?」
せいじ
「おうそうだ」
まさとし
「コンビニでも、売ってるし」
まさとし
「下手すりゃ宿にも売ってるところはある」
まさとし
「最低限のマナー、だぜ?」
まさとし
「すごい笑顔だな……」
せいじ
「しかし、あれ、とは一体……?」
せいじ
「は、分かったぞ!」
せいじ
「そうだ剣術士」
まさとし
「そうしてお前はまた一歩、大人の階段をだな――」
まさとし
「女性が退屈しないように、トランプを買っておくんですね!」
せいじ
「転げ落ちたかー」
まさとし




